第四話 落
織田信長が放った容赦なき「焔」と、松永久秀が告げた「裏切りの呪い」は、またたく間に現実の災厄となって足利義栄の陣営を蹂躪した。
「淀川の防衛線、全面決壊にございます!」
「岩成殿の拠る城が囲まれ、連絡が途絶絶しました!」
「三好山城守(政康)様の軍勢、織田の猛攻に耐えかね、戦線を放棄して退却!」
連日、本陣に飛び込んでくる報せは、三好政権の、そして義栄の足利将軍家が音を立てて崩壊していく悲鳴そのものであった。
だが、御所の奥でそれらの急報を泥を啜るような思いで聞き続けながらも、義栄が握りしめた拳を震わせていた理由は、将軍の権威が失墜することへの恐怖ではなかった。彼が惜しみ、狂おしいほどに執着していたのは、征夷大将軍という立場などではなく、ただ「人」であった。
日に日に目に見えて減っていく、御所の回廊を歩く足音。
諸国の国人や大名たちへ「共に織田を退けよう」と必死に書き連ねて送った御内書は、待てど暮らせど一通の返書すら戻ってこない。そればかりか、各地へ派遣した使者たちの多くが、返事をもらう前に織田へ寝返るか、あるいは義栄を見限ってそのまま音信不通となっていった。
「上様……もはや、畿内の国衆で我が方に味方する者はおりませぬ。皆、織田の犬か、松永の息がかかった者にございます。これ以上の抗戦は……」
昨日まで義栄の傍らで畏まっていたはずの若き側近が、震える声でそう告げた。
その瞳には、主君への忠義ではなく、迫り来る死への恐怖と、「この神輿にはもう価値がない」という冷徹な諦めが浮かんでいた。
義栄は、その側近をじっと見つめた。
彼を「裏切り者」と罵ることも、将軍の権威を笠に着て「ここに残れ」と命じることもしなかった。
ただ、孤独を最大の前とし、必要とされたいと願い続ける彼の「色欲」が、乾いた喉から一つの問いを絞り出す。
「何故だ……」
それは、主君としての詰問ではなく、一人の青年としての、引き裂かれるような悲哀の叫びであった。
「何故、皆が私から離れていくのだ。私は、誰かを支配したかったわけではない。皆で手を取り合い、誰も孤独にならぬ世を創りたかっただけなのだ。何故、私の手が届かない……何故、誰も私の言葉を信じてはくれぬのだ」
側近は何も答えず、ただ申し訳なさそうに頭を下げると、夜闇に紛れて御所を去っていった。
義栄はそれを止めなかった。止める力も、資格も、今の自分にはないことを知っていたからである。
去っていく家臣。離反する武将。届かなくなる返書。
主を失い、静まり返った御所の広間には、冷たい風だけが吹き抜けていく。
かつて「将軍になれば人は集まる」と信じ込み、三人衆の諍いすらも己の言葉で束ねられると確信していた「絶頂の夜」の輝きは、いまや見る影もない。
人を理解したい、人を繋ぎ止めたいという純粋すぎる願いは、信長という圧倒的な暴風を前にして、あまりにも無力で、あまりにも惨めであった。それでもなお、義栄の胸の中にある業は、人々への執着を捨て去ることを拒んでいた。誰にも顧みられなくなっても、なお「何故だ」と問い続けること。それだけが、今の義栄に残された唯一であった。
「上様、もはや一刻の猶予もございませぬ。織田の先陣が、すぐそこまで迫っております」
残された僅かな供回りが、泣きながら義栄の直衣の袖を引く。
義栄は、誰もいなくなった広間を、愛おしむようにゆっくりと見回した。
ここには、彼の求めた「温もり」は最後まで存在しなかった。
集まっていたのは人ではなく、ただの「欲」であり、その欲が尽きたとき、跡形もなく霧散してしまったのだ。
「……分かっている」
義栄は低く呟き、立ち上がった。
その背中には、将軍としての威厳ではなく、すべてを奪われ、引き裂かれながらも、なお消えない執着を抱えた人間の、凄絶な絶望、悲壮が漂っていた。
濁流の中で義栄が失ったのは、権力ではなく「心の拠り所」そのものであった。
すべてが瓦解していく足音を聞きながら、若き将軍は、ついに自らの京からの退転を告げる、あの忌まわしき「門」の前に立たされようとしていた。




