第三話 離
織田信長が放った圧倒的な「焔」が畿内の古い秩序をまたたく間に焼き払い、三好の防衛線が悲鳴を上げて崩壊していく中、激戦の狭間に訪れた一瞬の静寂は、あまりにも冷たく重かった。
何としても勝たねばすべてを失うという 抗戦 の狂気に身を焦がしながらも、足利義栄の胸中を占めていたのは、掌からこぼれ落ちていく砂のように、自らの周囲から「人」が離れていくことへの底知れぬ焦燥と恐怖であった。三人衆の絆は利害の前に裂け、織田の圧倒的な速度の前に味方の兵たちは浮き足立っている。彼が病的なまでに渇望した「人との繋がり」という美しい幻影は、時代の濁流を前にして、いまや風前の灯火であった。
その夜、仮初めの本陣の奥、灯明の光が微かに揺れる中に、吸い込まれるような影が音もなく滑り込んできた。
松永久秀である。
織田軍の先頭にその不気味な旗印を翻し、旧主たる三好を、そして将軍たる義栄を窮地へ追い詰めた張本人が、護衛の目を掻い潜り、単身で眼前に姿を現したのである。久秀は裏切りの報いを受ける恐怖など微塵も持ち合わせていないかのように、深く刻まれた眉間の皺の奥から、硝子のごとき冷徹な眼光を真っ直ぐに義栄へ向けていた。
義栄は刀の柄に手をかけ、鋭く声を絞り出した。
「……弾正。織田の犬となり果てて、今度はこの私を捕らえにきたか」
その詰問に対し、久秀はせせら笑うことすらしない。
ただ、歴史という果てなき白紙に己の爪痕を刻み付けんとする「虚栄」の業をその背に纏ったまま、若き将軍を見つめ、静かに、しかし容赦のない声音で告げた。
「将軍。お前は人を求め過ぎる」
その低く響く声は、義栄の魂の最も脆い部分を正確に射抜いた。
「お前は、自らの寂しさを埋めるために『将軍』という器を掲げ、そこに温もりを求めて人を集めようとした。されど、人は集めるものじゃない。ただ己の欲のために、その場へ勝手に群がるだけの獣に過ぎぬのだ」
「黙れ!」
義栄は立ち上がり、久秀を睨み据えた。
孤独という底知れぬ暗がりを知る彼の「色欲」が、激しく反論する。
「人は一人では生きられない! 互いに求め合い、繋がり、支え合ってこそ、この狂った乱世を生き抜くことができるのではないか。お前のように人を信じられぬ修羅に、何が分かる!」
激昂する義栄を前に、久秀の硝子の瞳に、底知れぬ深い憐れみが浮かんだ。
久秀は義栄という純粋すぎる青年を、決して嫌ってはいない。かつて自らが告げた「鏡」の真実を、真っ向から撥ね退けてなお、泥を啜りながら理想に縋ろうとするその愚かしさを、いっそ愛おしむような静けさで、最後の忠告を口にした。
「だから皆、裏切る」
その一言は、呪いのように重く、広間の空気を凍らせた。
「一人では生きられぬと縋りつくからこそ、その手が離れたときに絶望するのだ。繋がりを求めれば求めるほど、裏切られたときの傷は深く、己を狂わせる。この世に確かなものなど何一つない。信じられるのは、己がこの歴史に何を刻み、どう生きたかという事実のみにございます」
久秀はそれ以上、義栄を説き伏せようとはしなかった。
織田の焔を利用してでも己の道を突き進む覚悟を決めた修羅は、決してこの哀れな将軍を救おうとはしない。ただ、袂を分かつべき時が来たことを告げるために、ここへ来たのだ。
「……さらばでございます、影の将軍。お前は最後まで、その愛おしい人間たちの間で足掻くがいい」
久秀は静かに一礼すると、ふたたび闇に溶けるように、音もなく去っていった。
彼を捕らえるよう命じることすらできず、義栄はただ、その場に立ち尽くすほかなかった。
ここで、二人の歩むべき道は完全に分かれた。
久秀は、名利と虚栄の果てにある凄絶な「歴史」の闇へと迷いなく進み、義栄は、どれほど傷つき、すべてを失おうとも、なお人を求め続ける「人生」の茨の道へと、孤立無援のまま取り残されたのである。
本陣の窓の向こうでは、織田の軍勢が上げる勝鬨の地鳴りと、次々と城を焼き払う焔の赤が、いよいよ夜空を不気味に染め上げていた。それは、義栄を支えるはずの基盤が完全に瓦解し、家臣たち、武将たちが一人、また一人と彼の元を去っていく、凄絶な「離散と落日」の秒読みの始まりであった。




