第二話 焔
永禄十一年九月、畿内が辛うじて保っていた仮初めの静寂は、東天から地鳴りとともに襲来した圧倒的な「速度」によって、一瞬にして粉砕された。
美濃を平定した織田弾正忠信長が、前将軍の弟・足利義昭を奉じ、数万の軍勢を率いて怒濤の勢いで上洛の途についたのである。
その進軍は、これまでの畿内の武者たちが培ってきた「戦の常識」をことごとく嘲笑い、踏みにじるかのような苛烈さであった。守護大名たちの頑強な抵抗を紙切れのように引き破り、城を焼き、またたく間に近江を駆け抜けていく。摂津富田の仮御所に届く悲鳴のような急報は、もはや戦況の報告ではなく、抗う術のない「天災」の到来を告げる一連の凶報であった。
「織田の先陣、すでに三雲を突破! この世の者とは思えぬ速さにございます!」
「防衛線が……我が軍勢の陣地が、戦う前に背後を突かれ、悉く灰にされております!」
広間に集まった三好三人衆の顔は、驚愕と恐怖で歪んでいた。
長逸は手にした扇子を握り締め、政康は信じがたい速度の前にただ呆然と立ち尽くし、友通は激変する戦況を前に、ついに帳簿を走らせる筆を止めていた。彼らがこれまで必死に囲い込み、奪い合ってきた京の権益も、畿内の序列も、すべてがこの巨大な熱風の前に吹き飛ばされようとしていたのである。
何より義栄に戦慄を与えたのは、その押し寄せる織田軍の先頭に、あの大和の修羅――松永久秀の旗印が不気味に翻っているという事実であった。
かつて「人は集まらん、人の欲が集まる」と冷徹に告げ、自らの前から去っていった男。
久秀は義栄を裏切ったのではない。最初から誰の味方でもなく、ただ歴史にその名を刻むため、古い時代を最も効率よく破壊できる「新たな神輿」へと、迷いなくその手綱を乗り換えたに過ぎなかった。
「……私が、止めねばならぬ」
三人衆が狼狽し、保身のための撤退すら口にし始める中、義栄は静かに立ち上がった。
その胸に宿っていたのは、将軍としての権力への執着ではない。
ここで逃げ出せば、せっかく繋ぎ止めた三人衆も、自分を必要としてくれた人々も、すべてがバラバラに離散してしまうという、底知れぬ孤独への恐怖
――すなわち、彼を突き動かす「色欲」の悲鳴であった。
義栄は三人衆の制止を振り切り、京の東の境界、織田軍の進軍ルートを望む激戦の前線へと、僅かな供回りのみを連れて赴いた。この戦を止め、自らが掲げる「調和」のなかに、織田をも包み込む道があるはずだと信じて。
そこは、すでに黒煙と炎に包まれた地獄の平原であった。
兵たちの怒号と馬の嘶きが飛び交う陣所の最奥、漆黒の具足を纏い、床几に深く腰掛けた一人の男が、冷ややかな眼光で義栄を迎え入れた。
織田信長である。
信長という男は、巷間噂されるような、血に飢えた狂暴な怪物でも、天を呪う悪鬼でもなかった。
ただ、その佇まいには、古い秩序や因習、人々が縋る仮初めの和をすべて焼き尽くすことに「一切の迷いがない」という、底知れぬ静けさが宿っていた。彼は古い時代を破壊するためだけに現れた、意思を持つ「焔」そのものであった。
「お前が、三好の担いだ阿波の公方か」
信長の声は低く、しかし驚くほど透き通っていた。その瞳の奥にあるのは、天を突くような「傲慢」と、遅々として進まぬ古い世界への、静かな「憤怒」であった。
義栄は、信長の放つ圧倒的な熱量に気圧されそうになりながらも、必死に声を振り絞った。
「織田弾正忠! 何故これほどの血を流し、畿内を、人々を引き裂くのか。三好も、松永も、お主も、皆がそれぞれの分を弁え、共に生きる道はあるはずだ! 私が将軍としてその和を保つ。これ以上の無用な戦は収めよ!」
義栄の言葉は、彼が命がけで守ろうとしてきた「人との繋がり」の結晶であった。
誰も排除せず、誰も失わず、すべてを一つの器の中に生かしておきたいという、あまりにも純粋な理想論。
しかし、その言葉を聞いた信長は、激怒するでもなく、ただ哀れむように、その薄い唇を吊り上げて笑った。
「共に生きる道、だと?」
信長は立ち上がり、燃え盛る周囲の戦場へと視線を向けた。
「外道も、裏切り者も、欲に狂った犬どもも、すべてを等しく抱え込んで、泥の中で睦み合えと言うか。そのような『古い甘え』が、この世をいつまでも戦国たらしめているのだ。お前が守ろうとしている和とは、互いの足を引っ張り合う泥濘ぬかるみに過ぎぬ。俺は古い木々をすべて焼き払い、更地にする。そこにしか、新しい世は建たぬのだ」
「それでも……それでも、皆で生きる道はある!」
義栄は叫んだ。己の全人生を否定させないために。
信長は一歩、義栄へと近づき、その燃えるような瞳で若き将軍を見据えた。
「あるなら見せてみろ。この俺の焔の中で、その虚しい和とやらを、最期まで守り通してみせよ」
それは、対話の拒絶であり、古い世界への完全な宣戦布告であった。
陣所へ戻る道すがら、義栄の胸中を占めていたのは、かつてない激しい拒絶と、逆巻くような闘志であった。
かつて飯盛山城の暗がりで、三好長慶から手渡された「勝とうとするな」という至高の弾丸。
負けることでしか守れないものがあるという、老天下人の最大の教え。しかし、いま、義栄の目の前にあるのは、すべてを灰にする絶対的な災厄であった。
(勝たなければ……この男に勝たなければ、私の求めた繋がりも、人々も、すべてが失われてしまう!)
長慶の遺言から最も遠い場所へ、義栄は自らの足で踏み込んでいく。
襲来する災厄に対し、何としても「勝とう」としてしまう 抗戦 の狂気が、若き将軍の魂を完全に侵食し始めていた。
自らが放とうとする反撃の火が、やがて自らを焼き尽くす絢爛たる破滅への導火線であることにも気づかぬまま、義栄は、自らの誤解がもたらす激流の中へと、さらに深く身を投じていくほかなかったのである。




