第一話 裂
ついに征夷大将軍の宣下を受け、足利の正統たる旗印を掲げた足利義栄の胸中は、かつてない全能感とまばゆい光に満たされていた。
阿波のうらぶれた草庵で、誰からも顧みられず、底知れぬ孤独に震えていた青年はもういない。
いまや京の都の中心に座し、数多の公家や武大名から拝謁を受け、拝み倒される「天下の主」となったのである。
富田の陣で確信した 将軍という至高の器があれば、人は離れない
という彼の誤解は、ここに絢爛たる絶頂を迎えていた。
「これで、ようやく皆と一つになれた。私はもう、あの孤独な暗がりに戻ることはないのだ」と、義栄は自らの正しさを疑わなかった。
しかし、その輝かしい御所の奥に設けられた参議の間で開かれた軍議は、義栄の甘やかな幻想を根底から揺るがす、異様な毒気に満ちていた。
京に入り、名実ともに「天下」という莫大な果実を手に入れた途端、三好三人衆の内に潜んでいた業は、もはや繕うことすら不可能なほどに肥大化し、互いへ向けて牙を剥き始めていたのである。
「京の政務、および内裏への奏上の権限は、すべて我が一族の差配に置くべきにございます。武力しか誇れぬ無骨者に都の法度を委ねれば、せっかくの足利の権威が泥に塗れましょう」
口火を切ったのは、三好長逸であった。
その細い眼の奥に宿る「強欲」は、もはや隠されることなく剥き出しになっていた。
京の関銭、寺社からの献金、政治の主導権のすべてを独占せんとする彼の言葉には、他の二人を明確に見下す蔑みが混じっていた。
「ふざけるな、文官風情が!」
激昂して床を叩いたのは、三好政康である。
彼は刀の鍔を親指で跳ね上げ、長逸を血走った眼で睨み据えた。
「ここまで上様をお連れするのに、誰が一番の血を流したと思っている! 前線で命を張り、織田や松永の脅威を退けてきたのは我が軍勢ぞ。それをお主のような小賢しい男に全てを壟断されてたまるか! 都の守護を担う我が配下にこそ、諸国の冥加金を収める正当な権利がある!」
常に他者との序列を気にかけ、己の武功に見合う「評価」を狂おしいほどに求める彼の「嫉妬」と怨嗟が、広間の空気を激しく切り裂いた。
その二人の罵り合いを、山積みの出納帳に狂ったように筆を走らせていた岩成友通が、凍りつくような声で遮る。
「無駄な口論はそこまでにされよ。長逸殿の公家工作も、政康殿の兵糧の配分も、すべてはこの友通が握る帳簿の許可なくしては一銭たりとも動かせぬ。誰も、私の目を盗んで勝手な差配をすることは許さぬ。情報も、金も、兵糧も、すべてを私の目の届く処に置いておく。お主たちに権限など一分も渡さぬ」
組織の実務と数字を全て己の中に囲い込み、他者に一切の自由を与えようとしない彼の「暴食」的な独占欲が、二人の言い分を冷酷に圧殺しようとしていた。
「我々がこれまで一丸となって戦ってきたのは、このためであったか!」と、彼らの諍いは激しさを増し、かつて「義栄擁立」という一つの目的のために結ばれていたはずの仮初めの絆は、利害の配分を前にして、音を立てて引き裂かれていった。
上座でその光景を見つめていた義栄の顔から、次第に血の気が引いていく。
(なぜだ……。私は将軍になったのだ。皆が私を戴き、新しい時代を創るために、ここに集まってくれたのではなかったのか……!)
孤独を病的に恐れ、人との繋がりを盲目的に渇望する義栄の「色欲」が、胸の奥で悲鳴を上げた。
彼らが互いの肉を食い破らんばかりに敵意をぶつけ合う姿は、義栄にとっては、自らの依って立つ居場所が崩壊していく恐怖そのものであった。
「やめよ! 争うな!」
義栄はついに耐えかねて立ち上がり、広間に響き渡る声で叫んだ。
三人衆の視線が、一斉に上座の若き将軍へと集まる。
「皆、何をそう張り合っておられるのか! 三好が一丸となって私を支えてくれたからこそ、私たちはこの京の都へ辿り着くことができたのだ。私が将軍となったいま、何故その力を内へ向けて争う必要がある! 誰も、私から離れてはならぬ。私の足元で、皆で力を合わせ、共に歩んでくれ!」
義栄の言葉は、哀切なまでの必死さに満ちていた。
彼は己の「将軍の言葉」によって、彼らの暴走する欲を宥め、ふたたび美しい調和のなかに束ね直すことができると信じていたのである。
しかし、広間に帰ってきたのは、深い静寂だけだった。
それは、主君の威光に恐れ入り、己の過ちを悔いた者の静寂ではなかった。
長逸、政康、友通の三人は、一瞬だけ互いに視線を交わした。その瞳の奥を過ったのは、生身の義栄という青年に対する、底知れぬ冷ややかさと、憐れみすら混じった嘲笑であった。
彼らにとって、「足利義栄」は自らの欲を満たし、権力を正当化するための便利な『神輿』に過ぎない。神輿がどれほど必死に平穏や調和を叫ぼうとも、その裏にある剥き出しの強欲や嫉妬、暴食を止める力など、一微塵もありはしないのだ。
三人はすぐさま無表情に仮面を嵌め直すと、示し合わせたように、事務的な拝礼の形をとって額を畳に擦りつけた。
「……上様の仰せのままに。我ら三人、これ以上の不調和は慎みましょう」
口ではそう言いながらも、彼らの眼は、すでに主君の姿を見ていなかった。
その拝礼の姿勢のまま、長逸は政康の足元を睨み、政康は拳を握り締め、友通は淡々と帳簿を閉じた。
彼らは将軍の言葉に従ったのではない。
ただ、その場を収めるために「形だけの忠誠」を演じたに過ぎず、彼らの欲の暴走は、寸分も止まってなどいなかったのである。
その冷徹な現実を突きつけられた瞬間、義栄の胸に、凍りつくような衝撃が走った。
(違う……。彼らは、私の言葉を聞いてなどいない……)
どれほどきらびやかな直衣を纏い、征夷大将軍という至高の器を手に入れようとも、その器は彼らの「欲」を集める道具に過ぎなかった。かつて松永久秀が突きつけた「人は集まらん。人の欲が集まる」という冷酷な実相が、いま、目の前で現実となって彼の身を切り裂いていた。
「人は集められても、欲までは束ねられない――」
義栄は、自らの内にあった調和の幻想に、決定的な「裂け目」が入ったことを初めて痛烈に悟った。
これが、彼が「持つとは失うこと」の痛みを、身を裂かれながら知る最初の気づきであった。
「……今日の軍議は、ここまでとする」
義栄の力ない声が響く中、三人衆は静かに立ち上がり、それぞれの欲を抱えたまま退室していった。
取り残された広間の薄暗い床板の上で、主君を置き去りにした宿老たちの影は、互いを拒絶するように、不気味に歪みながら伸びていた。




