第五話 布
松永久秀との危うい和睦が成り、表面的には畿内の静謐が取り戻された摂津富田の陣中には、いよいよ目前に迫った入洛と将軍宣下への、盲目的な高揚感が満ちあふれていた。
宿老たちを自らの言葉で繋ぎ止め、破滅の火を消し止めてみせたという確信は、足利義栄の胸中で肥大化し、いまや一種の全能感にまで達している。
将軍という至高の器があれば、人は離れない。
すべての孤独は終わるのだという彼の誤解は、このとき、最も輝かしい絶頂を迎えていた。
その歓喜のただ中に、飯盛山城の野間から、密かに一通の書状が届けられた。
開かれた白紙に記されていたのは、あまりにも簡素な、ただ一つの事実であった。
三好筑前守長慶、卒す。
公にはその死を秘匿し、長慶の名を騙る偽筆によって天下を動かし続ける三人衆には、いまだ知らされていない真の訃報であった。そこに、若き将軍への遺言もなければ、未来を導く教えの言葉も、ただの一言すら添えられていなかった。ただ、一人の老天下人の命が、泥の底で静かに燃え尽きたということだけが、冷たく刻まれていた。
義栄は、灯明の光の中でその書状をじっと見つめ、静かに息を吐いた。涙は出なかった。
ただ、かつて飯盛山城の暗がりで、すべてを失った老怪物が己に投げかけてきた、あの低く重い一言だけが、耳裏に鮮烈に蘇っていた。
『持つとは、時を留めようとして失うことだ』
あのときは、その意味が分からなかった。
失うべきものを、何一つ持っていなかったからである。
義栄はゆっくりと書状を折り畳むと、窓の外に広がる、数万の兵たちが灯す無数の篝火を見つめた。その光の渦は、すべて己を求め、己を頂点へと押し上げようと蠢いているように見えた。
(筑前守殿……お主はすべてを失い、諦念の中で死んでいった。だが、私は違う)
義栄は独り、闇に向かって強く呟いた。
「私は失わない。この器で、この足利の旗で、私は皆を繋ぎ止めてみせる。私は、皆と共に歩くのだ」
これこそが、義栄を突き動かす色欲の極致であった。
彼は長慶の遺した「泥の重み」を拒絶し、眼前の華やかな熱気の中に、自らの正しさを確信していた。
義栄が長慶の死を静かに受け止めながらも、その警告を「過去の敗者の諦念」として撥ね退けたのは、自らの飢えを満たしてくれる人々の欲を、愛と誤認し続けたがゆえであろう。彼が自ら「失わない」と誓ったその決意こそが、求めれば求めるほどすべてが離れていくという、凄絶な嵐を呼び寄せる最大の布石(布)であった。
「明日、京へ入る」
義栄の声は、かつてない自信に満ちていた。
偉大なる老人の死をその足元に敷き詰め、若き将軍は、自らの誤解がもたらす絢爛たる破滅の舞台へと、一歩を踏み出した。
『第三部 布石』完結にあたって
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
富田の陣で三人衆の対立を自らの言葉で和ませ、「自らが調和の柱になれる」という全能感を深めていった義栄。久秀からの冷徹な見極めや長慶の遺した警告すらも退け、ついに悲願の入洛を果たしました。 「手に入れ、求め続ければ届く」という勘違いが絶頂に達する中で彼が重ねた「布石」の数々、そして膨らみ続ける幻影はいかがでしたでしょうか。
次回からは、いよいよ物語が激動の渦へと飲み込まれる『第四部 激突』が始まります! 征夷大将軍の座に就いた義栄の前に立ちはだかるのは、足利義昭を奉じ怒濤の勢いで上洛を果たす織田信長。すべてを焼き尽くす圧倒的な暴風を前に、義栄たちの命運はどうなっていくのか。
物語はいよいよクライマックスへ向けて大きく動き出します。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。




