第三話 鏡
三人衆がそれぞれの不満と敵意を繕った仮面の下に隠し、一礼して退出したのち、広間にはただ、激論の名残である重苦しい空気だけが澱のように残されていた。
足利義栄は、先ほど自らの言葉で宿老たちの絆を繋ぎ止めたという確かな手応えに、仄暗い高揚感を覚えながら奥の私室へと戻った。そこに、夜の静寂を破ることなく、三人衆とは明らかに異なる異質な気配を纏った男が姿を現した。
松永弾正少弼久秀である。
久秀は、長逸たちのように拝謁の場を借りて己の利権を貪ろうとすることもなく、政康のように序列の不満に目を血走らせることもない。ただ、深く刻まれた眉間の皺の奥から、すべてを冷徹に見透かすような硝子のごとき眼光を義栄へと向けていた。彼の内に宿るのは、三好の家を護るためでも、眼前の富を貪るためでもない。ただ、己の名をこの果てなき歴史の白紙に如何に深く刻み付けるかという、救済なき「虚栄」の執念であった。
久秀は、京の公家衆との折衝の進捗や、他国の大名たちの不穏な動向を淡々と、感情を交えずに報告した。ひと通りの報告を終え、上座で満足げに頷く義栄を見つめると、その薄い唇をわずかに歪め、低く問いかけた。
「左馬頭様。拝謁の列は日ごとに増え、三人衆も表向きは従順。まことに喜ばしき限りにございますが……お主様は今、この富田の陣に『何』が集まっているとお思いか。将軍という器は、一体何を引き寄せるものとお考えにございます」
義栄は怪訝そうに眉を寄せたが、先ほどの軍議での成功体験が、彼の背中を強く押していた。確信に満ちた声で答える。
「決まっている。足利の旗のもとに、私を必要とする『人』が集まっているのだ。先ほども、利害に目を眩ませていた三人衆が私の言葉に感じ入り、一丸となって仕えることを改めて誓ってくれたばかりである。将軍という至高の器があれば、人はおのずと集まり、結びつく。私はこの地で、それを確信した」
その答えを聞いた久秀の唇が、侮蔑とも憐れみともつかぬ形に、不気味に吊り上がった。
「違うな。お主様という人間に集まっている者は、ここには一人もおりませぬ。集まっているのは、生身の人間ではなく『人の欲』にございます」
久秀は物音を立てずに一歩、義栄へと歩み寄った。
「お主様は、己の周りに渦巻く華やかな熱気を、ご自身の人徳の温もりと勘違いしておられる。されどそれは、お主様という『滑らかな鏡』に、群がる狼どもが自らの醜悪な欲を映し出して悦に入っているに過ぎぬ。お主様の後ろにある足利の看板を利用せんとする、その強欲と嫉妬を、お主様は忠義と見誤っておられるのだ。看板の文字が輝けば輝くほど、影の欲は深く肥大化いたす」
かつて長慶が病床で遺した「持つとは、時を留めようとして失うことだ」という真実。
そしていま久秀が突きつける「人は集まらん、人の欲が集まる」という冷徹な実相。
奇しくも二人が辿り着いた同一の答えが、いま義栄の前に並べられていた。
しかし、孤独を恐れ、人との繋がりを盲目的に渇望する義栄の「色欲」は、その言葉を真っ向から撥ね退けた。
「無礼であろう、弾正」
義栄は立ち上がり、久秀を鋭く睨み据えた。
「私は阿波の草庵で、誰からも顧みられぬ底知れぬ孤独を知っている。だからこそ、今、私を取り囲む人々の熱気が偽りでないことくらい肌で分かるのだ。お主は人を信じられぬ修羅ゆえ、そうした歪んだ見方しかできぬのだ。私は三人衆を、そして集まる人々を信じる」
義栄は、部屋の隅に置かれた一面の銅鏡に目を向けた。
薄暗い金属の表面に映し出された己の姿。
そこには、朝廷の権威によって磨き上げられ、きらびやかな直衣を纏った、輝かしい将軍の器が確かに存在していた。この美しく仕上がった器があれば、これまでの孤独はすべて終わり、多くの人々に必要とされる存在になれるのだと、彼はさらに強く己の誤解を縛り付けたのである。
久秀はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、自らの言葉を真には理解しようとしない若き青年を、底知れぬ憐れみを湛えた眼光で見つめ、静かに一礼して退室していった。
真実を告げる者の言葉を、自らの拠って立つ幻影を守るために撥ね退けてしまう「求める者」の盲目さは、疑いようがない。鏡の奥に映る虚飾の光に目を眩ませたまま、義栄は、自らの誤解が絶頂へと向かう激流の中へと、さらに深く身を投じていくほかなかったのである。
義栄は、満足げに銅鏡から目を離すと、ふたたび己の輝かしい未来に思いを馳せた。
その私室の窓の向こうでは、京の都へと続く夜の闇が、彼の預かり知らぬところでさらにその渦を深く、重くしていった。




