第二話 裂
摂津富田に構えられた臨時の陣所は、京の都を間近に控えているという興奮から、昼夜を問わず異様な熱気に包まれていた。
諸国から集まる兵たちの喧騒や馬の嘶きが遠く響く中、陣所の最奥にある広間では、三好三人衆による軍議が執り行われていた。だが、そこに流れているのは、勝利を目前にした一枚岩の連帯ではない。むしろ、利害の配分を巡る底冷えのするような牽制と、互いへの抜き差しならぬ「裂け目」であった。
「京の治安維持を担うのは、我が配下の兵たちにございます。なれば、入洛後の諸関の差配や冥加金の徴収も、すべて我が軍勢の管理下に置くのが道理。長逸殿が進める公家衆への工作など、その中から一部を削って渡せば足りるはず」
口火を切ったのは、三好政康である。
彼は荒々しく膝を叩き、座の一座を睨み据えた。前線で常に命を張ってきたという自負がある彼にとって、京の都という至高の果実を、長逸が巧みな弁舌だけで独占しようとすることなど断じて許せなかった。常に他者との序列を気にかけ、己の評価に狂奔する彼の胸中には、長逸への激しい「嫉妬」の炎が渦巻いていた。
「片腹痛い。武力のみで都が治まると思うのは、野蛮の極みにございますな」
対する三好長逸は、細い眼をいっそう鋭く尖らせ、扇子でトントンと畳を叩いた。
「公家や寺社を懐柔し、朝廷の権威を我が三好の後ろ盾とする。これこそが最優先の政務。軍勢の維持など、その政治的優位の後に従うべき副次的なものに過ぎませぬ。すべては政権の主導権をどこが握るか、ということでございます」
得られる権益を余すところなく我が物とし、三好政権の頂点に立たんとする彼の「強欲」は、なりふり構わぬ剥き出しの牙を見せていた。
その二人の激論を、座の端で山積みの書類に墨を入れ続けていた岩成友通が、冷淡な声で遮る。
「騒ぐのはそこまでにされよ。諸国への恩賞も、都の関銭の出納も、すべてはこの友通が帳簿の上で一元化する。お主たちに一文たりとも勝手な差配はさせぬ。情報も、金も、兵糧も、すべてを私の目の届く処に置いておかねば、この政権は一日とて維持できぬのだ」
実務のすべてを独占し、他者に一切の権限を渡そうとしない彼の「暴食」的な執着が、暗闇の中で筆を走らせていた。
昨日まで「足利義栄」という神輿を担ぎ、一丸となっていたはずの宿老たちが、利の配分を前にして、互いの肉を食い破らんばかりに敵意をぶつけ合っている。
だが、上座からその応酬を見つめていた義栄の胸中を占めたのは、恐怖や絶望ではなかった。むしろ、にわかに湧き上がる「ある奇妙な使命感」であった。
(皆、京を目の前にして、必死なのだ。だからこそ、こうして熱くなってしまう……)
義栄には、彼らの剥き出しの欲望が、すべて「将軍家再興への並々ならぬ熱意」の裏返しとして映っていた。皆が己という主君を戴き、新しい時代を創ろうと必死になっているからこそ、こうして激しく鬩ぎ合っているのだと、彼は都合よく受け取ってしまったのである。
これこそが、義栄の内に眠る「色欲」――誰も離れてほしくない、皆と繋がっていたいという、盲目的な渇望の形であった。
「皆、京を目の前にして、何をそう張り合っておられるのか」
義栄は静かに、しかし凛とした声を広間に響かせた。
三人衆の視線が一斉に上座へと集まる。
「三好が一丸となって私を支えてくれたからこそ、阿波の草庵からここまで道は開けたのだ。今がどうあれ、皆の根底にあるのは私を支えるという忠義のはず。京へ入ったのちも、私のもとで皆が力を合わせ、共に新しい時代を創ればよいではないか。私が、そのための器となろう」
義栄の言葉は、あまりにも純粋な理想論であった。だが、その顔には、一国の宿老たちを自らの手で導こうとする、若き将軍候補としての誇らしげな微笑すら浮かんでいた。
長逸、政康、友通の三人は、一瞬だけ互いに視線を交わした。
その冷徹な政治家たちの眼裏に浮かんだのは、若き主君のあまりの世間知らずさに対する、冷ややかな嘲笑だったかもしれない。しかし彼らはすぐさま表情を取り繕い、示し合わせたように一斉に額を畳に擦りつけた。
「……上様の仰る通りにございます。我ら三人、命に代えても共に公方を支え奉ります」
その忠誠の言葉を聞き、義栄は深く安堵し、満ち足りた心地のなかで頷いた。
(自分が将軍となれば、足利の権威をもってすれば、彼らの小さな不協和音など美しく束ねられるはずだ)
と、自らの都合の良い誤解をいっそう強固にする契機としてしまったのである。
若き将軍候補は、宿老たちの利害の根深さを見誤ったまま、自らの調和の幻想に酔いしれていた。欲は理屈では止まらない。彼が発した無邪気な仲裁の言葉こそが、三人衆の欲の暴走をさらに裏へと潜らせ、自らの誤解が絶頂へと向かう激流を加速させる不気味な布石となっていた。
「では、入洛の段取りを進めよ」
義栄の晴れやかな号令とともに、三人衆は静かに頭を上げた。
その拝礼から立ち上がる彼らの影は、互いを拒絶するように、薄暗い床板の上で不気味に蠢いていた。




