祐介の世界
「もう、八時か……そろそろ帰りたいな」
俺の呟きに同僚が笑みを浮かべる。
「なんだ祐介。最近、付き合いは悪いし、いつもそわそわしているし、そんなに新しい彼女がいいのか?」
もちろん、と答えるしかない。怜子は最高なのだから。
「ああ、俺の理想だし、もう二度と出会えないと感じるほどの女性だよ」
臆面も無い言葉に、へぇ、感心した同僚は自分の席を立ち、俺の席の横に立つ。
「そんなにいい女なら、一回会わせてくれよ。友達はいないのかよ?」
むろん、怜子を自慢したかったし、友達と言われれば夏美さんが浮かぶ。
けれど、出来ない事だった。二人に会えるのはこの世界では俺だけだから。
黙ってしまったので、同僚がわけありかな、と、とったようだ。
「なんだ、不倫とか言わないだろうな。そんなのおまえらしくないぞ祐介」
不倫か……次元をまたいだルールを踏み外した恋。
迷惑レベルも壮大さも不倫とか言ってる場合じゃないな。
高層ビルの30階のオフィスで事務処理をしている俺は、別の世界の人間を一番に思っている。フロアを見渡しながら、想像してみる。怜子の世界はどんな感じなのだろうと。
二人で話した会話では、寸分の違いもないようだったが。
こちらの世界では、特に凶暴な事件はこちらでは起こってない。
幻月病の噂も聞いてない。こうして日常を過ごしていると、世界が終わるなんて
想像もつかない。
「お~~祐介! 久しぶりだな元気にしてたか?」
同期の出世頭である、部長が近づいてきた。席から立ちそれを待った。
「すみません、わがまま言って」
体調が悪いことにして、怜子と旅行に行っていたのでちょっとバツが悪い。
「いや、構わないさ。それで体調はどうなんだ?」
「ええ、おかげさまで、もうすっかり良くなりました」
ニコリと笑い、頭を下げた俺は、席に腰を降ろした。
その時、小さな挨拶が聞こえた。
「こんにちは。新入社員の高橋です」
部長に連れられて、挨拶回り。新入社員の最初の仕事。
「おお、そうか、もう研修が終わる次期か」
会社では四月入社の後、約半年間の社内研修がある。
今は十月の中頃だから、ちょうど研修が終わった新人が配属される時期だ。
最近の新人って、よく出来ている。
なんか理想的な感じでそつが無い。
まあ、表面的なものだけだが。
ネット社会で知識があふれ、失敗したくない若い子たちが増えた。
「人生に正解なんてないのにな」
え? 俺の独り言に反応した新人に部長が脅しをかける。
「新人。明日は吐くまで飲むからな。祐介おまえも出るだろう? 新人歓迎会」
「ええ!?」
挨拶まわりの途中で、追加される苦行に驚く新人。
「何を驚いている? 金曜日のおまえの歓迎会は覚悟しておけと言っただけだ」
部長の顔色を見る新人。強制的な飲み会など出たことないのだろう。
よくできた表層が剥がれて、実際の自分が出てきそうになっている。
「ハハ、いやだな~~脅かさないでくださいよ!」
頭をかく新人は、表情の変わらない俺と部長を見て、笑うのを止めた。
「え!? マジですか? 吐くまでですか……が、頑張ります」
翌日の金曜日。新人歓迎会。
うちの部の殆どが参加する、50名を越える人数の会だった。
「つきあい」という言葉が消えた現代、めっきり減ったこういう場。
一時間ほど過ぎたとき、まるで獣が吠えたような声が宴会場に響いた。
席から立ち上がり、俺は急いで声の場所を探した。
貸し切りの宴会場で行なわれている、新人の歓迎会。席順は前もって幹事が決めており、慣例として一番偉い役職と新人が近い席にされる。
今回は部長と、新人が一緒のテーブルだった。
叫び声は、二人のいるテーブルから聞こえた。急いで近づくと視界に入った、立ち上がっている部長と、その前に立つ新人。部長は再び獣のような声を出しながら、ゆっくりと倒れた。頭が固い壁に当たって鈍い音が響き、ぐったりして動かなくなった。
倒れた部長の前に立っていた新人の手には大きなハサミが握られていた。
それは宴会で出された蟹の甲羅を割るためのハサミだった。
ハサミからは血がしたたり落ち、新人は部長を見下ろして何か呟いていた。
叫び声が起り、部長を中心に人の輪が出来る。
「邪魔だ! 通して!」
人の輪を抜け、新人の前に出た。
なんてすがすがしい顔をしているんだ。
病院で医師を刺した、あの時の看護師のように。
「……酒は飲めないって言ってるだろ。それなのに無理矢理飲ませてさ。もう十分ですって何度断っても飲ませやがって。大体オレはこんな会社に入りたくなかった……これでスッキリだ」
「新人! どうした?」
周りの声や状況などまったく気にせずに、愚痴を話し続ける新人は俺を見た。「あ、祐介さんか……おかげでスッキリしました。オレ……あなたのおかげで自分を取りもどせましたよ」
垂れ下がっていたハサミを持つ手をスーッと持ち上げる。
「……! 駄目だ、やめろ!」
これは……幻月病!? この世界でも始まっているのか!
「もう、いいんです……世界は終わる……僕はその前に……自分を……取り戻すんだ」
そう言って自分の胸にハサミを差し込んだ。流れ出す大量の血。
「良かった。自分を取り戻せた……全部、あなたのおかげです」
嬉しそうに俺に笑いかけると、新人の身体は壁にもたれるようにズルズルと崩れ落た。




