幻月病
「愛情を感じられなかったらどうするの? 好きでもない相手と一生一緒にいるんだよ。そんなの嫌でしょう?」
ささやかな反論。ジッとベッドの上の私を夏美は見つめた。
「すごくごもっともだと思いますよ~~。少し少女趣味ですがね。どうしたのかなぁ? ある日、理想の王子様が目の前に現れて、一目惚れをして恋に落ちる。ロマンチックだけど少女趣味の極みね。十代の恋だねぇ。ふーーん、どうやら彼に告白されたみたいねぇ?」
薄ら笑いを浮かべる夏美に、いつも自称クールで論理的、女らしくないとの評価を持つ私のイメージ像が崩れていく。
「そ、そんな事を言うなら夏美だって、理想の男と一緒にならなかったよね!」
夏美には数年前、結婚するに値する条件、その全てを満たした彼氏がいた。
なにもかも順調にいくと思われたのに去年、彼との関係は突如終わりになってしまった。別れた理由は、夏美が他の男と寝た事だった。
「だって、その時だけ寂しくて、その男が好きになったのぉ。仕方ないでしょ? 怜子は自分の仮面が剥がれるのが怖いみたいね。いいじゃない理不尽でも。彼を好きになったのなら「だって好きになっちゃったんだもん」でいいの。理想と感情は違うわ。クールで常識的って、つまらないし魅力も無い。あたしは怜子の顔を真っ赤にして口をとんがらせて物言いをする、そんな姿がとっても可愛いと思うけどなぁ」
こんな姿、あんた以外に見せないわよ……まったく、夏美には感情が表に出る、自分の本来の姿を人に見せる事をしなかった私が。
父が早く亡くなり、母が自分の感情をさらけ出して感情のまま悲しいから泣き、その事で周囲の人々によくない影響を与え続ける事が許せなかった。負の感情が周りを不幸にする。
会社でもそうだ。月曜日の朝、嫁と喧嘩をして機嫌の悪い上司。
土日に遊び過ぎてやる気の無い隣の席の女の子。
一人がフロア全体の空気を変えてしまい、皆の作業効率が落ちる誰もが一度は経験していることだ。
私は一人が好きだが、この世界で一人だけで生きていると思わない。
多かれ少なかれ、世話になっている人達がいる。できるだけ迷惑をかけたくない。
母は亡くなるまで、私や弟や親戚の人にもずっと負の気持ちをぶつけていた。
私の事やまわりの人々の事など考えもせずに。そして思うがまま高いビルから飛び降り、私達に死んだ後も後悔を与え続けた。
夏美には裏に隠している気持ちをみせてしまう。
なぜ夏美にだけ、そうしてしまうのか、私にも分からない。
社内の同期入社。ただそれだけの関係。夏美は私が嫌いな自分の感情のまま行動、周囲に影響与える人間だったけれど、夏美の場合はプラスの影響が大きかった。飲み過ぎて会社の机で爆睡しても、彼氏に振られて大泣きし、つまる鼻を大きな音でチーンとかんで周りから注目されても、そこに居るみんなが笑顔になった。
「私らしくない行動で祐介にもあなたにも迷惑かけてる……ね」
これも”私”らしくない言葉だ。続く夏美の答えもいつもと反対の立場。
「たまには甘えなさいよ。怜子は普段、良い子過ぎるよぉ」
「あんたは、少し控えなさいよ、夏美……フフ」
二人が笑ったのと同じタイミングで病院の廊下が騒がしくなった。
気になって上半身を起こした耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あなたの事を好きだった。だから捨てて来た。二十代からずっと、あなたの為に全てを捨てて来たの!」
昨日の看護士の声だった。
私は慌ててベッドから降りて廊下に出た、すぐに夏美も追いかけてきた。
そこに居たのはメスを両手で握りしめた昨日の看護士と、白衣姿の、この病院の医師らしい男だった。看護師は確かに祐介と私と、昨晩笑って話しをした人。
目の前で怯えた顔をしている中年の白衣の男を睨みつける看護士。
「そ、それは、お互いに了解の元だったろう……なあ君」
怯える男。医師は刃物を持った看護師によってジリジリと壁の方に追いつめられていた。
「……そうね、合意の上で私は一番大事な二十代をあなたと過ごした。嬉しかったわ。一緒に居られる事が。たとえ不倫でもね。あなたが好きだから……そう、思ったから」
壁に追いつめられた医師は必死に看護士を説得する。
「僕も好きだよ。だからこんな事は止めて……ほらメスを渡してくれ」
「あなたが私の事を好き?……嘘つき。単に若い子の体が好きなだけでしょう?……後輩に何人も手を出しておいて……私が知らないとでも思っていた?」
看護士の言葉に医師の表情が変わる。
「……分かった。その事は認める。でも本当に好きなのは君なんだ」
ゆっくりと頷いた看護士。
「ええ、私もそう思っていた……いえ、そう思いたかった。だから我慢してきた」
ニュースでやっていた事件に似ている。証券会社で起った、総務の女の子が不倫相手の部長を刺す事件を思い出していた。
そして同時に、ネットで聞いた噂を思い出す。
「幻月病!?」
思わずつぶやいた私の顔を夏美が見る。
「どうしたの玲子? 幻月病って何?」
「ネットで噂されている伝染病が有るの。人が突然、理性を喪失して凶行を起こす……それが」
話の途中、看護師が動いた。素早く一歩前に出ると看護師は、震える不倫相手の首にメスを当てた。
「私ね、大丈夫だったの。けれど昨日の夜から心がざわめいた。心の奥底の裏の私がささやいたの」
「裏の自分? 君は精神的におかしくなっている。落ち着け。治療してもらおう」
首を振った看護士は愛しそうに医師を見る。
「違うの。これが本当の私なの。不倫でもあなたを愛している私。そしてあなたを憎くてしょうがない私。あなたが家族旅行の話を嬉しそうに話す。子供が大きくなった上の学校に上がったっと。そして……後輩からあなたの事を聞く。その度に心の中であなたの首をかき切っていた私がいるの。今、初めて心は一つになった。だからこれしかないの……好きよ本当に」
力を込めた看護士のメスが右から左へと医師の首を素早く走った。切り裂かれた喉からは、漏れる空気の音が聞こえ、大量の血が流れ落ちる。首を抑えた医師が床に倒れ落ちた。床に流れた医師の血がどんどんと広がっていく。血に染まる床を見ていた看護士が私に気が付いた。
「あら、あなたか。あなた達のおかげで本当の自分が分かったわ」
ニッコリと笑った看護師の笑顔は、昨夜私と祐介に見せた優しい笑顔だった。その迷いのない穏やかな顔に不安を覚えた。看護士の方へと近づこうとした。
「ダメよ! 止めて! それ以上傷つかないで!」
私の声に大きく頷いた看護士。
「うんうん、ありがとう。二人で仲良くね……あなたの力で戻れたから」
本来の自分になれたと、看護師は自分の首にメスを当て力を込めた。
さらなる鮮血が病院の床を染めた。
「玲子まずいよ。病室に戻るよ」
夏美に手を引かれて、自分の病室へ急いで戻る。
突然の凶行だったため、見ていた人は少なく、素早く自室へ入ったので、今はまだ私の様子を見に来るような人も居ない。
だが、その場にいた人の中には私と看護師の関係に関心を持った人もいたかもしれない。
外から聞こえる声の数が増え、騒ぎが大きくなっていくのが分かる。
「昨日私と祐介と一緒に笑ったんだよ?」
小さく首を振り何故こんな事になったのかを考える。彼女が言った感謝。表と裏の心が一つになれた、何のことを言っているのか分からない。でも、確かに最後に言った……”私の力”と」




