14 クラック・クロック
開いた扉に足を踏み入れると、やはり風もないのに扉が閉まった。
明かりもない真っ暗闇に、目を細めた矢先、突如目の前三メートルほどのところに、ポゥ、と蝋燭の火か灯った。
「いらっしゃいませ、三矢ハイガ様。……私の後についておいでください」
そしてくるりと後ろを向き、ゆっくりと歩き出す。
ハイガは素直に、その後をついてゆく。
若く、美しい女性であった。
理想的なまでに均整の取れたプロポーションに、非人間じみて整った秀麗な顔。
声は流れる水のように涼やかで、幽玄の響きを持つ。
楚々と歩くその後ろ姿には、ただの歩き姿だというのに目を引き付けられた。
そして特徴的なのはその服装。
メイド服。
レースとフリルのふんだんにあしらわれた、実用には向かないであろうそれ。
蝋燭の光にわずかに照らされる闇の中で、その白がどこか艶めかしく揺れる。
「――素晴らしい」
「? ……何かおっしゃいましたか?」
「いえ、何も」
三度の飯よりも魔術を愛する男、三矢ハイガ。
しかし彼にも、魔術以外に嗜好するものは存在する。
例えばそれは朝焼けを眺めながら飲む一杯のコーヒーであり、柔らかな日差しを浴びながらの午睡であり、魔術との関係がない読書である。
ただ、それと魔術を天秤にかけると、魔術の方に大きく比重が傾いているというだけで。
そしてさらに言えばこの男。
こと服飾という一分野。
これだけに関しては、ある特定の衣類への極端な傾倒が見られた。
要するに――ただのメイドフェチである。
このハイガのメイドフェチには、西洋魔術のメッカ、イギリスを訪れた際の王室の秘宝的なアレをめぐる、いかにもな組織とのダイぶハードな暗闘の際の出来事が大きく影響しているのだが、今はそれを語るべき時ではないだろう。
二階に上がり、工房へ。
ハイガの想像していたのはあの雑然とした空間であったが、部屋の様子は早変わりしていた。
燭台に火が灯されて部屋はほのかなオレンジ色の光に照らされている。
カーテンに包まれているため、この程度では外には灯りは分からないだろう。
昼間にはなかった黒檀のような質感のテーブルが置かれ、その上にはポットとカップ。
ポットカバーの隙間からは僅かに湯気がこぼれている。
壁際にはさらに二人のメイドが控え、しかしテーブルに備え付けてある二つの椅子はどちらもが空席である。
ハイガを先導してきたメイドは椅子を引いて丁寧にハイガに着席を促し、ハイガは礼を言って座った。
メイドはそのまま、ポットから紅茶を注ぐ。
砂糖を断って一口を含むと、ホッとするような温かさと香り。
ハイガは一息をついた。
部屋の中を確認すると、やはりメイド二人は壁際に控え、ハイガを先導していたメイドはハイガの後ろで控えていた。
ハイガは少しの間メイドから何かを話されるのを待ったが、メイドは何もしゃべらない。
ややあってから、客であり、メイドよりもこの場では立場の高い自分から言葉を発しなければならないのだと気づき、ハイガは口火を切った。
「……ご主人は? もうご就寝ですか?」
もちろんそんなわけはない。
メイドはハイガの予想した通りの答えを返す。
「クロック様は現在、この屋敷にはいらっしゃいません」
「後日改めて会うことは?」
「申し訳ありませんが、私たちではどうにも……」
メイドはそこで押し黙る。
ハイガとしては、自分の始めた茶番ではあったものの、だんだんと面倒くさくなってきたので普通に話すことにした。
「……ええと。俺はそもそもクロックさんがこの屋敷にいないのは分かっていたし、本当のことを言えばあなたたちと話したいと思ってここに来ました。すみませんが、普通に話せませんか?」
「……いえ、しかし」
「いーじゃんよーアイン。お客様がこう言って下さってるんだし」
ハイガのメイドがなおも形式に拘ろうとしたのと裏腹に、壁際に控えていたメイドの一人がそう声を上げる。
「ツヴァイ、お客様の前で……」
「ごめんなさい、三矢様。アイン、初めてのお客さまだって張り切っちゃって……」
「ドライ、あなたも!」
「三矢って呼ばれるのに慣れてないからハイガで。……で、アインさんでいいですか? 俺からそれっぽくしておいてなんですが、フランクにいきましょう」
アインはハイガの言葉を聞き、少々気を落としたようだった。
「……わかりました。お客様のおっしゃることですから……」
アインはそう言うと、ぱちんと指を鳴らす。途端、どういう原理か部屋が明るさを増す。
蝋燭は消えた。どうも、演出の一環であったらしい。
ハイガはこの機会にと三人のメイドを見比べる。
三人とも、不自然なほどの美人であった。
あえて言えば、気を落としている生真面目そうなメイドがアイン、活発そうな印象を与えるのがツヴァイ、おっとりとした雰囲気なのがドライだろうか。
しかし逆に言えば、三人にはそれくらいしか違いがなかった。
見ると、アインがのろのろと目の前の席に着いた。
その傍にツヴァイとドライが立つ。
おそらく、三人の中では一番アインの方が立場が強いということだろう。
「……それではハイガ様。改めまして、私はこのクラック・クロック様の屋敷のメイド長のアイン。右がツヴァイ、左がドライです」
「よろしくっ!」
「お願いしますね」
「どうも、ご丁寧に」
アインは言葉を続ける。
「ではハイガ様。お聞きになりたいことがございましたら、何でもおっしゃってください。……とはいえ、私どもでは限界のある質問もございますが」
そう言ってアインは僅かにヘッドレストを揺らす。
ハイガは答え合わせだと言わんばかりに、己の中の確信を口にした。
「――とりあえず、君たちは人間じゃあないよな?」
その問いに、アインはむしろ誇らしげに答えた。
「はい、私どもはクロック様に制作された人形です。この屋敷の管理が私たちの仕事でして、それが存在意義といってよいでしょう」
「つまり――この屋敷にかかっている魔術を維持管理しているのも、君らってことでいいのか?」
「はい、その認識であっています」
ハイガは、感動でその拳をわずかに震わせた。
そもそもハイガが彼女たちの存在に気づいたのは、レーナと共に屋敷に入り込んだとき、【解析】を使ったからだ。
この魔術は【感知拡大】と、カルーアに用いた魔術認識の魔術を組み合わせたもので、物体の認識精度は落ちるものの、魔術認識の効果を広範囲に広げるという作用を持つ魔術である。
普段であれば【感知拡大】と比べると、魔術師と非魔術師との違いが分かるといった程度の意味合いしか持たないのだが、今回においては有利に働いた。
ハイガは怪談を聞いた時から思っていたのだ。
つまり、『魔術師の屋敷で心霊現象が起こるのなら、それは魔術師が屋敷に魔術をかけた影響に決まっている』というファイナルアンサーであった。
ハイガにとっては自明のこの事実も、脳筋魔術しか知らず、また魔道具もクロック制作の魔力計測器しか存在しないこの世界の人間にとっては、その発想には至らず、怪談話となってしまったのだ。
案の定、【解析】で屋敷全体を探ると、屋敷の要所要所に魔法陣が刻まれていることがわかった。
強化、補修、維持……様々な効果の魔術陣がひしめき合い、しかもそれを一括管理するための魔術陣まで用意されているという、この多重魔術陣構造はハイガに息をのませた。
ハイガのような魔術師にとって、この屋敷自体がある意味、極上の魔術書のようなものである。
が、その見事さには舌を巻くものの、当然のことながらそうすると、ある一つの疑問が浮かび上がる。
すなわち、誰が屋敷の魔術陣を起動させ続けているのか、という疑問である。
魔術陣というのは、言ってしまえばそれ単体では道具に過ぎない。
道具には、使われて初めて意味が生まれるのだ。
クロック本人という線はなかった。
二十四時間魔術を起動させ続けることなど人間には無理だし、そもそもこの屋敷には生体反応はなかった。
代わりに引っかかったのは三つのマギクラフト――そう、彼女らであった。
レーナと共にこの工房を訪れた時、工房にあった三体の人形――それが、彼女たちの正体だ。
人の入ってくるときにはああしてただの人形のふりをしているのであろうが、魔術陣を起動し続けているのでハイガにはバレバレであった。
マギクラフトの発動、さらに言えば魔術の発動は、術者の意思に由来する。
そもそも魔術とは現実を意味概念的に細分化し、術者の観測した虚構を現実に反映させる術である。
その原理上、確かに術者が人間である必要はなく、事象を観測できる存在であれば何でもいいのだが……
実際にそれを実現させているのだから驚きであった。
無機物をもととするものに魔術回路の連なりから思考を発生させ、魔術陣を使用させる。
自分に無理なのなら誰かに、という発想にはハイガもたどり着いていたのだが、実際にそれを実用段階にまで昇華させたこの三人のメイド人形は、ハイガにとって何よりの感動を誘うものであった。
「あの、ハイガ様……?」
感動のあまり二の句を告げないハイガに、アインが心配そうな声をかける。
ハイガはハッとし、アインに向き直った。
「すまない。クロック殿の魔術に感服して。……いや、本当に素晴らしい」
今のハイガにとって、クロックという魔術師はスーパースターであった。
サッカー少年の前にロナウジーニョが現れたとでも想像してもらいたい。
夢中にならねば嘘というものだろう。
「そうですか……」
心なしか、主人を褒められたアインも嬉しそうであった。
ツヴァイなどはにやにやとしているし、ドライも上品に頬をほころばせている。
当然、ハイガは尋ねた。
「それで、クロック殿は今どこに?」
瞬間、三人のテンションが地の底に落ちた。
アインの瞳はどんよりとし、雰囲気がすさんだ。
その反応にハイガはたじろぐ。
(え……まさか、死んでるのか……!?)
何百年前の人物である。
人がこのハイガの考えを知れば爆笑大笑い間違いなしであったが、ハイガは真面目にそう考えていた。
ハイガにとってクロックの人物像は、遥か天上をたゆたっている。
寿命で死ぬなどというそんな当然の死に方なんてしているはずがないと、ここにいたってハイガは妙に確信じみた思いを抱いていたのであった。
「あ……いえ、ハイガ様。おそらく、クロック様はご存命でいらっしゃいます」
ハイガの顔色から察したのだろう、アインはそう言った。
「おそらく……というのは?」
「ええ、実はその……」
アインは口ごもる。
アインに引き継いで、ツヴァイがその事実を言った。
「クロック様、私たちが作られてから一度もこの屋敷にいらしてないし、だから私たちはクロック様のお顔も知らないんですよ」
「……どういうことだ? あなたたちはクロック殿に作られたんじゃないのか?」
「いえ、私たちは二代目なんです」
そう答えたのはドライだ。
「人形といえど、年月を経れば稼働限界がやってきます。私たちを作ったのはこの屋敷で働いていた先輩でして、それが大体百年前……です」
ハイガは予想外の応えに目を白黒させた。
人形が人形を作る。
もはや想像が及ばない。
彼女たちは人間にそっくりなので、なおさらホラーじみていた。
「……つまり、クロック殿は生死不明で、生きていたとしてもどこにいるのか分からないということか」
ハイガはこめかみを抑えた。ここまで来れば、クロックに会ってみたいという思いは既に抑えきれなくなっていたのだ。
おそらく、この世界にただ二人の同胞。
会いたいと思うのは、ハイガだけではなくクロックもだろう。
「面目もありません……」
アインはうなだれるように頭を下げる。
「いや、いいんだ……しかし……」
ハイガは黙り込む。
クロックと出会う方法を考えていたのだ。
と、そこにアインから声がかけられる。
「ハイガ様……これを」
「これは、貝殻……いや、魔道具かっ!」
ハイガはレーナの手の中のその物体を見る。
巻貝の形をしていて、しかし豪奢に宝石がちりばめられているので人工物であるとわかる。
確かに、解析すると魔術陣が刻んであった。
「アインさん、これは……」
「この屋敷で唯一、クロック様のお声が記録された魔道具です。……もし、この屋敷に本物の魔術師が訪れることがあれば、この魔道具を渡すようにと。――先代から教えられた、最も大切な責務です」
アインは表情を凛、と改めた。
見れば、ツヴァイもドライも表情を引き締めている。
アインは口上を述べた。
「我が主、クラック・クロック様から、魔術師・三矢ハイガ様に、親愛と友情を込めての贈り物でございます。――どうか、お受け取り下さい」
「――確かに受け取った」
恭しくアインが掲げもつ贈り物を、ハイガはしっかりとその両手に握り締めて受け取った。
ハイガはそのまま巻貝を耳に押し当てて陣を発動させようとしたところで、三人の様子に気づいた。
すがるような視線。
無意識にではあろうが、間違いなくその視線は何かを要求していた。
ハイガはその意味するところを察し、ほんのわずかに苦笑して耳から巻貝を話し、三人にもこの巻貝からの声が聞こえるようにした。
「っ……も、申し訳ありませんハイガ様。私どもの為に……」
ハイガはそれにひらひらと手を振って応えた。
一度も聞いたことのない自らの主の声――聞きたいと思って当然だろう。
ハイガは浅く呼吸をして、魔術陣を起動させた。
瞬間、流れ出たのは希代の魔術師、クラック・クロックの声。
それはあまりに短いメッセージであったが、それゆえに抑えがたい熱情がそのまま形をとったような、形容しがたい迫力を伴っていた。
『――やあ、同胞。初めまして、私はクラック・クロック。このマギクラフトを作成した本人だ。――本来の声ではないのを許してくれ、万一のことを考えると、肉声を残すことはできなかったんだ』
巻貝から流れ出たのはどこかくぐもったような声。何かしらの処理を施しているのだろう。
『さて、兄弟よ。――誇っていい、誇ってくれ。私は未だ私以外に魔術師と出会ったことは無い。兄弟がこの世界に現れた、たった二人目の魔術師だ。……正直、今の私は、本当にいつか兄弟がこれを聴いてくれることがあるのか疑問に思っている。けれども、声を残さずにはいられない。私は会いたい。会いたいのだ。私の同胞に、兄弟に、魔術師に!――すまない、興奮してしまった』
クロックの声は少しトーンを落とす。
しかしそれでも、その声には狂わんばかりの情熱が込められていた。
『さて、どうやって兄弟に会うかということなのだが……。私がいつどこにいる、なんて情報は残せないし、そもそもその時までに兄弟が現れてくれる保証もない。――だから私は決めた』
クロックは一呼吸を入れる。
『――待つ。待ち続ける。……ここに誓いを立てよう。私は、兄弟を永遠に待っている。何百年たとうと、兄弟がいつか現れてくれると信じて、待ち続ける。そしていつか必ず、私は兄弟と出会う。賭けてもいい。いつか私たちは出会う。――少々ロマンチストに過ぎたか。しかし、私の本心だ。私はいつだって、いつまでも兄弟を待っている』
クロックの最後の言葉は、もはや悲鳴の様だった。
『兄弟よ、私を見つけてくれ。私と同じ領域にたどり着いた人間が確かに存在したのだと、その証拠を示してくれ。……そして共に語らおう、魔の業を、魔の真髄を! ……私はただ、待ち続ける!』
そして結びの言葉と共に、目の前の魔道具はその役目を終えて沈黙した。
『……我々が出会う日を願って。魔術師クラック・クロック』
沈黙が場を包む。
誰も言葉を発さない。
誰しもが、このクラック・クロックという男の言葉に圧倒されていたのだ。
が、しかし。
数分後、ある一人の男の笑い声が響き始めた。
それはだんだんと大きくなり、ついには屋敷中に響き渡った。
「ハ、ハイガ様……どうなさいましたか?」
「……悪い……いや、どうにもな。おかしくてな……」
ハイガは笑いすぎて出た涙を拭った。
アインはそれに少々むっとしたように言う。
「ハイガ様。我が主の心よりのお頼みをお笑いになるというのは……」
「ああ、違う。そうじゃない。そうじゃないんだ」
ハイガはまだ漏れ出んとする笑いを必死に抑えていた。
「では、何故……」
「いや、思ったんだ……魔術師なんてものは、ロマンチストじゃないとやってられない。……それは俺も同じなんだ、と」
ハイガの思い浮かべたのは、かつての己の日々。
全てを振り捨て、ただ一つ、魔術という可能性に賭けた、苦闘と灼熱の日々。
そんなことをする奴が、ロマンチストでなくて何だというのか?
ハイガは貝殻を掲げ、高らかに言い放った。
「――おもしろい。必ず、アナタを見つけ出す」
もしこの世界を俯瞰する存在がいたとして、その存在は今この瞬間を指して、間違いなくこう評するだろう。
――『運命の極点である』と。
この誓約が存在せずとも、世界の行く末は長期的にはそう変わらない。
しかし、その流れを淀みから急流に変えたのは、間違いなくこの誓約であった。
フェールの街はさらにその夜の色を濃くする。
運命の極点が今しがた過ぎ去ったことを、誰一人として知らずに――。
この話で物語の前準備は終わりです。
次回からは、最低限の装備で難攻不落の敵に挑むエピソードとなります。
……ええ。ようやくまともな戦闘です。遅すぎィ……
といいつつ次回も戦闘回の準備回なので戦闘はないという……