第9話:練習場の事件
翌朝。
紡術院の空は抜けるように青く、穏やかな日差しが石造りの学舎を照らし出していた。
昨夜、地下深くから伝わってきた不気味な振動。
ルーク・アスキスは朝食の席で周囲の様子を窺っていたが、他の生徒たちに変わった様子はなかった。皆、いつも通りに談笑し、授業の準備に追われている。
教官たちの間でも、特に警戒しているような素振りは見られない。
「僕の左目だけが、感じ取っているのか……」
ルークは自分の左目にそっと触れた。
昨夜の振動の際、金色の瞳の奥で確かに空間の『縫い目』が軋むのを見た。
世界帷——この世界を覆う目に見えない境界膜。継ぎ接ぎで作られたというその膜のどこかが、地下深くで綻びかけている。
そんな不安を抱えながら、ルークは繕組の教室へと向かった。
しかし、教室の前に辿り着いたルークを待っていたのは、別の意味で気が滅入る光景だった。
古びた木製のドアに、赤々とした魔力塗料で大きく文字が書き殴られていたのだ。
『出来損ないは出て行け』
ただの塗料ではない。魔力を込めて定着させられているため、普通の水では絶対に落ちない悪質な落書きだ。
さらに教室の中に入ると、ルークの机がひっくり返され、引き出しの中にあったはずの教材や修繕用の道具がどこかへ隠されていた。
「……あいつら、またやりやがったな!」
後ろから追いついてきたガレットが、惨状を見るなり激昂した。
ドガンッ! と、壁を拳で強く殴りつける。
「大院長の息子だからって、何をやっても許されると思ってんのか! ヴァルドの取り巻きの仕業に決まってる。俺が今すぐあいつらの所に行って、ぶっ飛ばして……!」
「待って、ガレット。気にしないで」
ルークは慌ててガレットの腕を掴み、引き止めた。
「気にしないって、お前な……!」
「いいんだ。僕が怒って騒ぎを起こせば、特例で入学を認めてくれた人たちに迷惑がかかる。それに、落書きなら僕の『継ぎ接ぎ』で、塗料とドアの魔力的な結合を解けばすぐに消せるから」
ルークは無理に笑って見せたが、ガレットの怒りは収まらない様子だった。
その時。
「……許せません」
静かな、だが氷のように冷たい声が教室に響いた。
声の主は、分厚い眼鏡をかけた小柄な少女、ミーシャだった。
普段は大人しく、図書室で古文書ばかり読んでいる彼女が、今は全身から恐ろしいほどの威圧感を放っていた。彼女の周りだけ、空気がピリピリと震えているように感じる。
「ミーシャ……?」
「知識を探求し、互いに高め合うべきこの神聖な学舎で、知性への侵害を行うなんて……。ましてや、他者の学習道具を隠すなど、魔術師以前に人間として最も愚かで卑劣な行為です。断じて、許されることではありません」
ミーシャの薄紫色の髪が、魔力への反応でふわりと逆立っている。
彼女が得意とする『記述魔術』は、古代語を媒体として強力な事象を書き換えるものだ。本気で怒らせれば、ある意味でガレットの剣よりも恐ろしい。
ルークは二人の怒りが嬉しくもあり、同時にこれ以上問題が大きくなるのを恐れて、必死に二人をなだめ、一緒に隠された教材を探すことにした。
* * *
午後。
広大な屋外練習場では、複数のクラスが合同で魔術の実技演習を行っていた。
ルークたち繕組は、端の方で見学と基礎の反復練習を命じられている。
練習場の中央では、上級生たちが高度な紡術の演習を行っていた。その中でも特に目を引くのが、火の魔術を操る三年生のグループだった。
「見ろよ、あれが第三階位『織紋』の演習だ。やっぱりすげえ迫力だな」
ガレットが羨望の眼差しを向ける。
上級生の一人が、両手から赤蓮の魔糸を無数に紡ぎ出し、空中に複雑な炎の紋章——『織紋』を描き出していく。
織紋が完成に近づくにつれ、周囲の温度が急激に上昇していくのがルークの場所からでも分かった。
しかし、ルークの金色の左目が、その炎の織紋の中に『あるもの』を捉えた。
(……え?)
織紋を構成する魔糸の一部。
その結び目の一つが、微かに「ほつれて」いる。
ほんの些細なほつれだった。だが、そこから魔力が漏れ出し、本来の術式回路を外れて暴走を始めている。
ルークが異変に気付いた次の瞬間だった。
「な、なんだっ!? 制御が……!」
演習を行っていた上級生が、焦燥に満ちた声を上げた。
空中に浮かぶ炎の織紋が、突如として脈打つように膨張を始めたのだ。
赤蓮の魔糸が制御を離れ、蛇のようにのたうち回りながら周囲の魔力を無差別に吸い上げ始める。
「おい、どうした! 早く術を解け!」
「だ、駄目です! 魔糸が絡み合って、命令を受け付けません!」
暴走した火の織紋は、瞬く間に巨大な火球へと姿を変え、練習場を焦がすほどの熱波を放ち始めた。
周囲にいた生徒たちがパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑う。
監視に当たっていたベテランの教官が慌てて駆け寄り、水の魔糸を紡いで防壁を展開しようとする。
「離れろ! 私が抑える! 《水流の盾——》」
しかし、教官の水織りが展開しきる前に、暴走した火球から無数の炎の鞭が飛び出し、防壁を容赦なく打ち砕いた。
火球はさらに膨張し、爆発の臨界点に達しようとしていた。
爆発すれば、周囲にいる生徒たちは無事では済まない。
「逃げろ! 伏せろぉっ!!」
教官の悲痛な叫びが響き渡る。
誰もが絶望し、目を閉じたその時。
一人の少年が、巨大な火球に向かって駆け出していた。
ルーク・アスキスだった。
「ルーク!? 馬鹿、何やってんだ!」
ガレットの制止の声も耳に入らない。
ルークの金色の左目は、暴走する魔術の構造を完全に解析していた。
複雑に絡み合い、膨張する炎の魔糸。しかし、その中心には、全ての暴走を引き起こしている『原因』がある。
一つの、綻びた縫い目。
そこさえ断ち切れば、この魔術は崩壊する。
ルークは熱風に顔を焼かれながらも、火球の眼前にまで肉薄した。
右手の指先に、使い込まれた革の指貫をはめる。
炎の熱で視界が歪む中、左目だけが、狙うべき一点を正確に捉えていた。
「そこだッ!」
ルークは右手を鋭く突き出した。
指貫の先が、暴走の起点となっている魔糸の『綻び』に触れる。
「——『裁糸』!」
指先の動きに合わせて、見えない刃が魔糸を切断する。
プツン。
そんな、小さな音が響いた気がした。
次の瞬間。
爆発寸前だった巨大な火球が、まるで風船が割れたかのように、音もなく弾け飛んだ。
炎は一瞬にして熱を失い、無害な光の粒子となって虚空に溶けていく。
吹き荒れていた熱風が止み、練習場に静寂が舞い降りた。
何が起きたのか理解できず、へたり込んでいた生徒たちも、教官も、ただ呆然とルークの後ろ姿を見つめていた。
教官が、震える声で尋ねる。
「……お前、今のは……何をしたんだ?」
ルークは振り返り、火傷一つ負っていない無事な姿で、少し困ったように頭を掻いた。
「えっと……魔術の縫い目が綻んでいたので、そこを切っただけです。回路を断ち切れば、魔力は霧散するはずですから」
『切っただけ』。
その言葉の異常さに、周囲の生徒たちがざわめき始める。
第三階位の暴走魔術を、たった一人の、しかも魔術の『出来損ない』と呼ばれていた少年が、無傷で解体してみせたのだ。
ルークを見る生徒たちの目に、確かな畏怖と驚愕が混じり始めていた。
* * *
少し離れたギャラリーから、その一部始終を見つめている少女がいた。
セラ・ヴァルシュタイン。
彼女の青い瞳は、大きく見開かれたまま、ルークから目をそらすことができなかった。
(あの『出来損ない』が、暴走魔術を……『切った』? 織紋を、一瞬で解体したというの?)
昨夜、彼が自分の魔術の欠陥を言い当てたのは、まぐれではなかった。
彼は確かに『見えている』のだ。魔術の真理、そのさらに奥底にあるものを。
セラの中で、ルークに対する評価が「蔑視」から、底知れぬ「謎」へと変わり始めていた。
一方、練習場の反対側の木陰では。
大院長の息子、ヴァルド・クレインが、口元に凶悪な笑みを浮かべてルークを見下ろしていた。
「……面白い。ただの出来損ないだと思っていたが、どうやらそうではないらしいな」
ヴァルドの目に宿っていたのは、これまでのような単なる見下しや侮蔑ではなかった。
それは、自分のプライドを脅かすかもしれない存在に対する、明らかな『敵意』と『ライバル意識』だった。
「下民の分際で目立ちすぎだ。あの奇妙な目障りな技、俺の『雷織り』で完膚なきまでに叩き潰してやる。……決闘を申し込んでやるよ、ルーク・アスキス」
ヴァルドの手の中で、パチパチと金色の雷の魔糸が火花を散らした。
ルークの知らないところで、事態は確実に次の局面へと動き出そうとしていた。




