第8話:氷の視線
冷たい夜気が、肌を刺す。
王都の喧騒から遠く離れた特区に位置する『王立紡術院』。その広大な敷地の一角にある中庭は、深い静寂に包まれていた。
月明かりだけが照らし出す石畳の上で、銀色の髪を夜風に揺らしながら、セラ・ヴァルシュタインは一人、魔術の鍛錬に打ち込んでいた。
「……《氷結の糸、五の綾。結びて華となれ》」
セラの薄い唇から、凛とした詠唱が紡ぎ出される。
彼女の白魚のような指先から、淡い青白い光を放つ魔糸が幾条も溢れ出した。
魔術体系『紡術』——魔力という不可視のエネルギーを糸として捉え、編み込み、織り上げることで事象を顕現させる技術。
セラが操るのは、その中でも高度な冷却と結氷を伴う『氷織り』である。
宙を舞う魔糸は、セラの精密な指揮の下、複雑な幾何学模様を描きながら交差していく。
単糸、双糸という初歩の段階をとうに超え、彼女の紡術はすでに第三階位である『織紋』の域に達していた。十五歳という年齢を考えれば、同年代の中で間違いなくトップクラス、いや、飛び抜けた実力と言っていい。
空気中の水分が急速に凍結し、魔糸の骨組みに肉付けされていく。
やがて空中に完成したのは、大輪の氷の結晶花だった。
花びらの一枚一枚が鋭く、それでいて芸術品のように美しい。月光を反射してキラキラと輝くその様は、まさに完璧な氷の華であった。
「……」
だが、セラは完成した氷の華を見つめ、微かに眉をひそめた。
完璧なはずだった。
魔力の流れ、糸の交差、術式の構築、温度の低下率。どれをとっても減点される要素はない。ヴァルシュタイン家という名門の期待を一身に背負う彼女にとって、完璧であることは最低条件だった。
なのに、彼女の内側にある魔術師としての『感覚』が、ほんの少しの違和感を訴えかけている。
目には見えない。数値にも表れない。しかし、何かがおかしい。
「……完璧なはずなのに」
ぽつりと呟いた声は、冷たい夜の闇に吸い込まれて消えた。
ふと、誰かの視線を感じて顔を上げる。
視線の先、本棟から離れた場所にある古い塔。普段は誰も近寄らない、繕組の寂れた教室の窓に、ぽつんと明かりが灯っていた。
そして、その窓辺から、こちらをじっと見下ろしている人影があった。
暗くて顔ははっきりとは見えないが、誰かはすぐに分かった。
あの、金と銀の瞳を持つ少年。ルーク・アスキス。
入学試験で『測定不能』という前代未聞の烙印を押されながら、大院長の特例で入学を許可された、魔術の『出来損ない』。
(あの『出来損ない』が、私の魔術を見ていた……?)
彼が何を思って、あんなところから自分を見ていたのかは分からない。
ただ、その視線がひどく気になった。
完璧であるべき自分の魔術を、よりにもよって最底辺の生徒に見られていた。
苛立ちとも困惑ともつかない、説明のつかない感情が、セラの胸の中にどろどろと渦巻いていた。
* * *
王立紡術院に入学して、二週間が過ぎた。
ルーク・アスキスの日常は、少しずつだが確実に変化を見せ始めていた。
入学当初は「測定不能の出来損ない」として、文字通り誰からも相手にされない透明人間のような扱いだった。すれ違う生徒たちは皆、ルークを避けるように歩き、教官たちでさえ彼に期待する視線を向けることはなかった。
しかし、あの魔道具修繕実習での一件——古代魔道具を本来の設計以上の性能で修復してみせた事件——以来、周囲の空気がわずかに変わったのだ。
「あいつ、ただの無能じゃないのかも……」
「でも、使えるのは初歩中の初歩、『継ぎ接ぎ』だけだろ?」
「だとしても、あの修復の速度は異常だったぞ……」
廊下を歩くたびに、ヒソヒソと交わされる囁き。それらには以前のような純粋な侮蔑だけでなく、僅かな好奇心や戸惑いが混じるようになっていた。
もちろん、表立って話しかけてくる者はまだいない。
大院長の息子であるヴァルド・クレインを取り巻く派閥の生徒たちは、相変わらずすれ違いざまに肩をぶつけてきたり、あからさまな舌打ちをしてきたりする。
だが、ルークにとってそれは大した問題ではなかった。
辺境のエッジタウンにある孤児院で、魔術が使えないと笑われていた頃に比べれば、今はずっと恵まれている。
何より、彼には信頼できる仲間ができたのだから。
「ルーク、この古文書の記述なんですが、やはり『原初の紡ぎ手』は、現在の魔糸の織り方とは根本的に異なるアプローチを取っていたようです」
放課後。繕組の寂れた教室には、いつものように三人の姿があった。
机にうずたかく積まれた古い文献の山から顔を出したのは、薄紫色の髪をおさげにした小柄な少女、ミーシャ・レニエだった。
彼女は分厚い眼鏡を押し上げながら、興奮気味に語りかけてくる。
「現在の紡術は、魔力を糸として『生成』し、それを編み込むことで事象を起こします。しかし、原初の技法は違う。彼らは世界に最初から存在している『見えない糸』を直接掴み、それを結び直していた……そんな記述があるんです」
「世界に最初からある糸……」
「ええ。あなたの『継ぎ接ぎ』や、その金色の左目が見ているものと、非常に近い概念だと思いませんか?」
ミーシャの言葉に、ルークは自分の左目にそっと触れた。
金色の左目。物心ついた時から、この目には世界のあらゆるものの『糸目』が見えた。魔術の構造、物質の結合、空間の縫い目。壊れたものは、その糸目が千切れたり、ほつれたりしている。
ルークにできる唯一の魔術『継ぎ接ぎ』は、そのほつれた糸目を文字通り縫い合わせるだけのものだ。
「おいおい、小難しい話は後にしてくれよ。ルーク、俺の相手も頼むぜ!」
教室の隅から声が上がり、赤毛の長身の少年、ガレット・ドーンが木剣を肩に担いで歩み寄ってきた。
彼の家系は代々『剣織り』と呼ばれる、身体能力の強化と武具への魔力付与を専門とする魔術を伝承している。
「なあルーク、お前のその目で、俺の剣の『糸目』ってやつを見てくれないか? 最近、どうも魔力の乗りが悪い気がしてな」
「うん、いいよ。ちょっと見せて」
ガレットが木剣を構え、そこに魔力を流し込む。木剣の表面に、赤銅色の魔糸が這うように展開されていく。
ルークは金色の左目に意識を集中させた。
視界が切り替わる。現実の色彩が薄れ、代わりに無数の光の線——『糸目』が浮かび上がる。
ガレットの剣を覆う魔糸は、太く力強い。しかし、よく見ると……。
「ガレット、剣の持ち手から三分の一くらいのところ、魔糸が少しだけ絡まっているよ。力が強すぎて、糸同士が反発し合ってるみたいだ」
「マジか!? だからいつもあそこで魔力が詰まる感覚があったのか……」
「僕が少し整えてみるよ」
ルークは右手の指先に、愛用の革製の指貫をはめた。
そして、絡まり合っている赤銅色の魔糸の結び目にそっと指を這わせる。
「——『裁糸』」
それは、ルークが最近練習している新しい技術だった。
織られた魔術の『縫い目』を見つけ出し、それを解体、あるいは切り離す技術。
指貫の先で、絡まっていた魔糸の結び目をピンポイントで弾く。
パチン、と小さな音がして、絡まりが解けた。途端にガレットの木剣を覆う魔力の光が、滑らかで均一なものに変わる。
「おおっ! すげえ、魔力の通りが全く違う! 嘘みたいに軽いぞ!」
「荒っぽい力任せの織り方をするからですよ、ガレット」
「なんだとミーシャ、実戦じゃあ力こそが正義なんだよ!」
「野蛮ですね。知性というものを少しは学んでください」
言い合う二人を見て、ルークは小さく微笑んだ。
こんな風に、誰かの役に立てる。自分の力が、ただの『出来損ない』ではないと認めてくれる人がいる。
それが、ルークには何よりも嬉しかった。
* * *
日が落ちかけた放課後の廊下。
ルークは図書室へ向かう途中、ふと足を止めた。
夕日の差し込む長い廊下の向こうから、一人の少女が歩いてくる。
銀色の髪。冷たい美貌。セカンドクラスの首席、セラ・ヴァルシュタイン。
彼女は相変わらず、周囲に冷気を纏っているかのような近寄りがたい雰囲気を放っていた。
すれ違う瞬間、ルークは軽く会釈をして通り過ぎようとした。
しかし。
「……待ちなさい」
凛とした、しかしどこか緊張を含んだ声が、ルークの背中を呼び止めた。
振り返ると、セラがこちらをじっと見つめていた。その青い瞳には、いつもの氷のような冷たさだけでなく、微かな揺らぎがある。
「あ、すみません、その……何か粗相をしましたか?」
「……あなた、私の魔術を見ていたでしょう。あの夜」
ルークはハッとした。
数日前の夜、窓辺から中庭で練習する彼女の姿を見ていたことを言っているのだ。
「はい。とても綺麗な氷の華だったので、つい見とれてしまって……勝手に見て、すみませんでした」
「綺麗だった……? 本当にそう思ったの?」
セラの言葉は、普段の彼女からは想像もつかないほど、切実な響きを帯びていた。
怒っているというよりは、純粋な疑問。あるいは、何かを確認しようとするような響き。
「何を見たの」
その問いかけに、ルークは迷った。
適当にごまかすこともできた。しかし、彼女の真剣な眼差しを見て、嘘をつくのは不誠実だと思った。
ルークは金色の左目で見たものを、正直に言葉にした。
「あなたの氷織りは、とても美しかったです。隙がなくて、力強くて。でも……」
「でも、何?」
「ほんの少しだけ、『歪み』が見えました」
ピクリ、とセラの肩が震えた。
「花びらの根元の部分です。魔糸の結び目が、ほんのわずかですが、無理に締め付けられているように見えました。だから、完璧な形をしているのに、どこか窮屈そうに見えて……」
言い終わる前に、ルークは自分の失言に気づいた。
完璧主義で知られる名門の令嬢に向かって、落ちこぼれが魔術の欠陥を指摘するなど、無礼にも程がある。
怒られる、とルークは身構えた。
しかし、セラの反応は予想外のものだった。
彼女は怒るのではなく、ひどく動揺していた。青い瞳が大きく見開かれ、唇がわなないている。
「歪み……? 私の、魔術に……?」
セラの声が一瞬震えた。
それは、彼女が拠り所としてきた『完璧』に対する絶対的な自信が、足元から揺らいだ瞬間だった。
自分でも感じていた、あの微かな違和感。それを、この『出来損ない』の少年は、遠く離れた窓辺から一目見ただけで見抜いたというのか。
「あ、あの……ごめんなさい。僕の目が、おかしいだけかもしれません」
「……二度と、私の魔術を見ないで」
セラはそれだけを言い捨てると、逃げるように背を向けて歩き出した。
コツコツと足音を響かせて遠ざかる彼女の背中を、ルークは見送るしかなかった。
その銀色の背中には、誰も寄せ付けない冷たさと同時に、深い『孤独』の色が張り付いているように、ルークには見えた。
* * *
その夜。
自室のベッドで横になっていたルークは、ふと目を覚ました。
なんとなく寝付けず、窓辺に歩み寄って外を見下ろす。
中庭には、またセラの姿があった。
彼女は夜の闇の中で、何度も何度も氷織りの魔術を展開していた。
しかし、その動きはいつもの彼女らしくなかった。
魔糸の軌道に迷いがあり、空中に生み出される氷の結晶は、いびつな形をしてはすぐに砕け散っていく。
いつもの完璧さが、完全に崩れていた。
(僕の言葉が、彼女を動揺させてしまったのか……)
ルークは胸の奥が痛むのを感じた。
本当のことを言ったつもりだったが、それが彼女を傷つけてしまったのなら、謝らなければならない。
そう思った、その時だった。
——ゴゴゴゴゴゴ……。
足元から、微かな振動が伝わってきた。
地震だろうか。いや、違う。
ルークの金色の左目が、熱を帯びたように疼き始めた。
視界の端で、空間そのものの『縫い目』が、かすかに軋むような音を立てていた。
振動の発生源は、紡術院の地下深く。
ルークの目にははっきりと見えていた。
地下の暗闇の中で、何かの強大な『糸目』が、音を立てて綻び始めているのが。
(何かが……起きようとしている?)
ルークは窓ガラスに手をつき、不吉な予感に身震いをした。
世界を覆う見えない境界膜。その一部が、今、静かに引き裂かれようとしていた。




