第79話:ふたりの仕立て屋
エッジタウンの納屋の前に、一台の頑丈な木製の幌馬車が静かに佇んでいた。
幌には、生成りの丈夫な帆布をベースに、青や緑、茜色の様々な端切れが丁寧に縫い合わされた、美しいパッチワークの天幕が張られている。
車体の側面には、ニス塗りの樫の板にペンキで誇らしげに看板が掲げられていた。
『流浪の仕立て屋——パッチワーク・キャラバン』
御者台の脇で荷物の積み込みをしていたルークは、車軸の頑丈な金具を愛おしそうに撫でて、目を細めた。
車軸と車輪の補強には、帝都の防衛隊筆頭指南役に就任した親友ガレットから贈られた、最高級の鋼織りの金具が使われている。どれほど荒れた街道や山道を通ろうと、絶対に折れない不屈の友情の結晶だ。
馬車の前方左右に取り付けられた夜間灯には、ヴァルドから送られてきた紫電の魔石が埋め込まれ、夜道でも馬や旅人を驚かせない、穏やかで温かい光を放つようルークの手で回路が調整されていた。
さらに、御者台の下の引き出しには、ミーシャが徹夜で編纂して届けてくれた『テクストゥーラ全土・結節点修繕地図』が大切に収められ、荷台の奥にはレイラ新副院長から手渡された、最高品質の上質な麻糸と絹糸の木箱がずらりと並んでいる。
「ガレットも、ヴァルドも、ミーシャもレイラ先生も……みんなの想いが、この馬車に詰まっているね」
「ええ。まるで、私たちの仲間全員で一緒に旅をしているみたいね」
幌の中から顔を出したのは、銀髪を後ろでラフに束ねたセラだった。
その両腕には、エッジタウンの村役場に届いていた、世界各地からの手紙の分厚い束が抱えられていた。
「ルーク、積み込みが一段落したなら、少し休憩にしましょう。各地の友人たちから、手紙がたくさん届いているわよ」
「わあ、もう届いたんだ! 見せて、セラさん!」
二人は馬車の後部デッキに腰掛け、冷たい麦茶を一口飲んでから、手紙の封を次々と開いていった。
一通目は、南大陸ペルラ諸島の聖女と漁師たちからの手紙だった。
『親愛なるルーク様、セラ様! ペルラ諸島の海は、今日も抜けるような青空と穏やかな波に包まれています。『原初の真珠針』が海底の神殿で優しく光を放ち、枯れかけていた珊瑚礁には美しい熱帯魚が戻ってきました。海賊船長だったオルカさんも「坊主たちの繕った海は最高だぜ!」と豪快に笑って酒を酌み交わしています。いつかまた、あの美味しい真珠貝のスープを食べに寄ってくださいね』
「オルカさんたち、元気にやってるみたいだね」
「ふふっ、あの豪快な飲みっぷりが目に浮かぶようだわ」
二通目は、極北エターナル・ピークのドワーフの巨匠と氷雪の戦士たちからだった。
『親愛なる仕立て屋の小僧へ! 『原初の鋼骨針』が砦の岩盤に深く根を下ろし、山脈の裂け目は跡形もなく塞がったぞ! 砦のドワーフどもがお前たちのために、最高峰の氷結エール樽を十樽も地下深くに仕込んだ! 十年寝かせても腐らねえ自慢の逸品だ、北へ立ち寄った時は絶対に飲ませてやるから覚悟しておけ!』
「あはは、十樽も仕込んでくれたんだ。ガレットがいたら喉を鳴らして飛びついていただろうな」
さらに、東大陸の樹海や西大陸カナンの砂漠の商人たちからも、温かな知らせが届いていた。
東の大織樹は若々しい新緑の葉を広げ、エルフの里には美しい絹糸の機織り歌が響いているという。
西の砂漠では『原初の金砂針』が古代のオアシスを完全に蘇らせ、かつて砂塵に埋もれていた交易都市カナンには、大陸中から商隊が集まってかつてない賑わいを見せているとのことだった。
そして——最も豪奢な金箔の封蝋が施された一通の手紙があった。帝国の第二皇女エリゼからの親書だった。
『親愛なる帝国の奇跡、ルークとセラへ。帝都グランディスの街路は、あなたたちが残してくれた希望の光によって、日ごとに活気を取り戻しています。帝国議会は全会一致で、二人の旅路を帝国の全機関が永久に支援することを決議しました。世界のどこであっても、困った時は帝国使節団を頼りなさい。……でも、あなたたちのことですから、きっと自分の針と糸だけで解決してしまうのでしょうね。二人の未来に、星々の加護があらんことを』
さらに、紡術院の下級生たちからの寄せ書きもあった。かつて繕組として肩身の狭い思いをしていた生徒たちが、「ルーク先生のおかげで、自分の不完全な魔術に誇りを持てるようになりました!」と、涙ぐましい感謝の言葉をびっしりと書き連ねていた。
手紙の文字の端々から、世界中の人々が傷を乗り越え、前を向いて歩み始めている温かな息吹が伝わってきた。
「みんな……本当に前を向いて歩き出しているんだね」
ルークは手紙を大切に胸に抱きしめ、天を仰いだ。
かつて世界は、憎しみと絶望、そして大綻びの恐怖に震えていた。
けれど、不完全なまま互いに手を取り合い、一針ずつ心を縫い合わせたことで、世界はこんなにも温かい笑顔で満たされたのだ。
「さあ、馬車の中も案内するわ。私たちの新しい『家』よ」
セラが微笑んでルークの手を引き、幌馬車の天幕の中へと招き入れた。
馬車の内部は、驚くほど機能的で、温かな生活の工夫に満ちていた。
中央には小さな木製の調理台が据えられ、ルークが火糸と土糸を縫い合わせて作った、薪を使わずに安定した弱火を保てる安全な魔導コンロが備え付けられている。
脇には水樽が置かれ、ペルラ諸島で学んだ水糸の循環結びによって、常に澄んだ清冽な水が保たれていた。
さらに奥の小さな食品庫には、セラが微弱な氷の冷気を編み込んだ布が敷かれ、傷みやすい野菜や肉の鮮度が保てるようになっていた。
ベッドスペースには、エッジタウンの村人たちがプレゼントしてくれた柔らかな羊毛の敷布団と、子供たちが縫い合わせてくれた色とりどりのキルト毛布が整えられている。
「すごいよ、セラさん……! これなら、どんな山奥や砂漠に行っても、温かいご飯を食べて、ぐっすり眠れるね」
「ええ。あなたが各地で人々の傷を縫っている間、私がこの馬車で美味しいシチューを作って待っているわ。……ふふっ、マルタ院長から、エッジタウン特製の塩豚とカブの煮込みの秘伝のレシピを、みっちり仕込まれたんだから」
誇らしげに胸を張るセラの笑顔は、かつて孤高の令嬢だった頃の面影を感じさせないほど、愛らしく温かだった。
* * *
夜の帳が下り、エッジタウンの納屋の周りは深い静寂に包まれた。
馬車の整備を終えた納屋の中で、小さなランプの明かりがオレンジ色に揺れている。
外では初夏の夜風が麦畑をサワサワと揺らし、遠くで虫の音が心地よく響いている。
ルークが道具箱の針を一本ずつ油布で磨いていると、向かいの干し草の山に座っていたセラが、膝の上に広げた紺色の布と格闘していた。
眉間に微かにしわを寄せ、真剣な眼差しで針を運んでいる。
「……セラさん、何をしているの?」
「見れば分かるでしょう。あなたの旅用の外套よ」
セラは少し尖った声で答えたが、その頬はランプの光のせいばかりではなく、うっすらと赤らんでいた。
「襟元の裏地が少しほつれていたの。明日からの旅で風が入ってきたら寒いでしょ? ……だから、私が縫ってあげようと思ったのよ」
「セラさんが……僕の外套を?」
ルークが驚いて目を丸くすると、セラはぷいと横を向いた。
「なによ、悪いの? 私だってエッジタウンの子供たちと一緒に、ちゃんと針の練習をしたんだから。……ほら、見てみなさいよ」
セラがおずおずと差し出した外套の裏地。
そこには、少し不揃いな銀色の麻糸で、一生懸命に縫い合わされた縫い目があった。
名門貴族の職人が織るような、寸分の狂いもない機械的な美しさではない。
けれど、一針、一針、旅立つ少年の身体を気遣い、風邪を引かないようにと祈りを込めて縫い留められた、世界で一番温かな縫い目だった。
「……すごく、上手に縫えてるよ。セラさん」
ルークは外套を受け取り、その縫い目をそっと指先で撫でた。
「糸目がね、すごく優しいんだ。僕の首筋に当たっても痛くないように、結び目をわざと平らに潰してくれている。……ありがとう、セラさん。一生の宝物にするよ」
「……大袈裟よ、あなたはいつも」
セラは照れ隠しに小さく息を吐いたが、その瞳は嬉しそうに潤んでいた。
ルークはそのセラの前に膝をつき、自らの道具箱から、小さな木箱を取り出した。
「セラさん、これ……僕からも受け取ってくれるかい?」
「え……?」
ルークが木箱の蓋を開けると、中から現れたのは——白銀の細い魔糸で繊細に編み込まれた、小さな雪の結晶の髪飾りだった。
中央には、かつてルークが七大遺物の旅の途中で見つけた、淡い水色に光る微細なペルラの真珠が縫い留められている。
「君の綺麗な銀髪に似合うと思って、昨日の夜、手縫いで作ってみたんだ。僕の魔術は直接攻撃はできないけれど……この髪飾りには、旅の途中で君をあらゆる風雨や冷気から守る、小さな防護の結び目を幾重にも縫い込んであるよ」
「ルーク……」
セラは息を呑み、震える指先でその髪飾りに触れた。
世界で一番優しい仕立て屋が、自分のためだけに編んでくれた、たった一つの贈り物。
「……つけてくれる?」
セラが少し恥ずかしそうに俯き、豊かな銀髪を傾けた。
ルークは「うん」と頷き、指貫を嵌めた指先で、セラの柔らかな銀髪にそっと髪飾りを挿し込んだ。
パチン、と淡い光が弾け、真珠の結晶がセラの髪の上で優しく瞬いた。
「……どうかしら?」
「すごく……綺麗だよ、セラさん。世界で一番似合ってる」
ルークの真っ直ぐな言葉に、セラの碧眼から、ポロリと一粒の涙が零れ落ちた。
少女はそっとルークの手を取り、自らの頬に当てた。作業だらけで豆だらけの少年の手が、凍えていたセラの心を芯から温めていく。
「昔の私はね、自分が完璧な氷の魔術を織れなくなったら、誰からも愛されなくなるって怯えていたの。……でも今は、こんなに不格好な針目でも、あなたを温めることができる。あなたの隣にいられることが、私の誇りよ」
「僕もだよ、セラさん。完璧じゃない僕たちだからこそ、こうして寄り添い合って、支え合っていけるんだ」
二人は見つめ合い、静かに微笑み合った。
納屋の外では、パッチワークの星空が二人の旅路を祝福するように、夜明け前の静寂の中で輝きを増していた。
ふたりの仕立て屋の、世界を巡る新しい旅立ちの朝が、もうすぐそこまで来ていた。




