第78話:受け継がれる針
翌朝のエッジタウンは、朝露に濡れた草木の爽やかな香りに包まれていた。
村の東側に位置する小高い丘の上——村並みと見渡す限りの麦畑が一望できる大樹の木陰に、風雨に洗われた二つの簡素な石の墓標が静かに並んでいた。
ルークの母ステラと、父ギルフォードが眠る場所だった。
「母さん、ギルフォードさん……ただいま帰りました」
ルークは手向けの花束——セラが今朝早く村の裏山で見つけて摘んでくれた、淡い青色のリンドウと野菊を墓前に供え、静かに両手を合わせた。
隣に立つセラも、背筋を真っ直ぐに伸ばし、深々と一礼して目を閉じた。
「七つの遺物を集めて、世界を縫い合わせてきたよ。……アーヴェル先生の心も、ちゃんと直せた。誰も殺さずに、壊れた世界を繋ぎ止めることができたよ」
ルークが語りかけると、初夏の爽やかな風がサァッと吹き抜け、丘の木々を優しく揺らした。まるで両親が「よく頑張ったね」と少年の頭を撫でてくれたかのようだった。
少年の脳裏に、幼い日の記憶が鮮やかに蘇る。
病床で息を引き取る直前、冷たくなりかけた母ステラの手が、幼いルークの小さな手の平に、この銀の指貫を握らせてくれた時のこと。
『ルーク……あなたの手はね、世界を傷つけるためのものじゃないの。壊れたものを抱きしめて、哀しみを縫い合わせるためにあるのよ。どんなに周りから笑われても、その手を絶対に離しちゃダメよ……』
そして寡黙だった父ギルフォードの広い背中。納屋で黙々と壊れた農具や椅子を直し、完成するたびに「直ったぞ」と不器用な笑顔を見せてくれた、あの温かな手の温もり。
出来損ないと呼ばれ、どれほど孤独に苛まれてもルークが針を手放さなかったのは、二人の残してくれた温もりが、魂の奥底で消えずに灯り続けていたからだった。
ルークは自らの両手を広げ、静かに息を吸い込んだ。
大聖堂での決戦後、ルークが手にした七本の原初の遺物——『原初の真珠針』『原初の鋼骨針』『原初の絹糸針』『原初の金砂針』『原初の虚無針』『原初の裁断刃』は、それぞれの故郷である世界各地の神殿や守護者たちの元へと、ルークの魔糸を通じて静かに還されていた。
ペルラ諸島の海の底で、エターナル・ピークの氷壁の奥で、シルク・フォレストの巨木の中で、カナンの黄金の砂の下で、そして帝都の最深部で——それらは今や、世界帷の結節点として四方の大陸を固く縫い止め、世界が二度とバラバラに裂けないよう、大地の底で優しく光を放ち続けている。
そして——ルークの右手中指には、たったひとつの道具だけが残されていた。
母ステラが遺し、マルタ院長から手渡された、使い古された銀の指貫。
「母さん。この指貫があったから、僕はどんな絶望の中でも、針を持つ手を止めずにいられました。……僕に命をくれて、この力を遺してくれて、本当にありがとう」
ルークが指貫にそっと口づけを落とすと、隣にいたセラが、墓標に向かって一歩進み出た。
銀髪を風になびかせ、凛とした澄んだ声で語りかける。
「お母様、お父様。初めまして、セラ・ヴァルシュタインと申します。……ルークをこの世界に産み落としてくださり、こんなにも温かな少年に育ててくださったこと、心から感謝いたします。かつて氷のように冷たく心を閉ざし、完璧であることの呪縛に苦しんでいた私は、ルークに救われ、生きる意味を見つけることができました。……これからの長い旅路、私がこの人の隣で、この人の背中を支え、守り抜くことを、お二人の御前でお誓いいたします」
セラの曇りのない真摯な誓いに、ルークの胸がじんわりと熱くなった。
墓標の周りを舞う木漏れ日が、まるで二人を祝福するように、キラキラと金色の光の輪を描いていた。
* * *
墓参りを終え、丘を下りて村の広場へと戻ると、教会の前の木陰に、何やら可愛らしい人だかりができていた。
孤児院のトビーやミリーをはじめ、村の小さな子供たち十数人が、古びた木箱や小さな布切れを胸に抱えて、そわそわと待っていたのだ。
「あ! ルーク兄ちゃん、お姉ちゃん! お墓参りから帰ってきた!」
子供たちがパッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「みんな、どうしたんだい? そんなに集まって」
ルークがしゃがみ込んで問いかけると、トビーが少し照れくさそうに、錆びたブリキの缶を差し出した。中には、母親の裁縫箱から借りてきたのであろう、太めの鉄の針と、何色かの擦り切れた麻糸が入っていた。
「あのね、ルーク兄ちゃん! 俺たち、兄ちゃんに教えてほしいんだ!」
「教えてほしいって……何をだい?」
「布を縫うこと! 壊れたものを直すことだよ!」
トビーが大きな瞳を輝かせて叫んだ。
「俺、魔術の才能なんかないし、火も水も出せないけど……昨日、兄ちゃんがミリーのウサギを直してくれたのを見て、すげえって思ったんだ! 誰かをやっつける魔術より、壊れたものを直して笑顔にする兄ちゃんの手の方が、ずっとカッコいい! 俺も、自分の破れたズボンや、みんなの壊れたおもちゃを直せるようになりたいんだ!」
「私も! 私もお裁縫できるようになりたい!」
「ミリーも! 銀髪のお姉ちゃんみたいに、可愛いボタンをつけたいの!」
トビーの後ろから、内気な少女エマが、端がほつれて穴の空いたお気に入りのハンカチをおずおずと差し出し、腕白少年のレオが「俺のかかとに穴の空いた靴下も直せるかな……」と真っ赤になって差し出した。
子供たちの純粋で真っ直ぐな言葉に、ルークは目を見張り、次いで、胸がいっぱいの笑顔を浮かべた。
「……うん! 喜んで教えるよ。魔術が使えなくたって、全然関係ない。誰かのために直したいって想いがあれば、誰だって立派な仕立て屋になれるんだから」
ルークの言葉に、子供たちから「わーいっ!」と歓声が上がった。
こうして、教会の縁側の下で、青空の「ちいさな仕立て屋教室」が開かれることになった。
「じゃあまず、針の持ち方からね。力いっぱいに握り込んじゃダメだよ。親指と人差し指で、小鳥の羽を持つみたいに、優しくつまむんだ」
ルークが自分の右手を掲げ、ゆっくりとお手本を見せる。
子供たちが一斉に真似をして、小さな指先で針をつまみ上げる。
「次は糸通しだね。糸の先を少しだけ湿らせて、針穴を覗き込むようにして……そう、慌てなくていいよ。穴は逃げないからね」
「うーん……入らないよぉ!」
「あ、入った! ルーク兄ちゃん、通ったよ!」
縁側には、子供たちの賑やかな笑い声と真剣な唸り声が響き渡った。
セラもまた、子供たちの輪の中に混ざり、エマやミリーの隣に座って優しく手を取っていた。
「エマ、ハンカチの端っこを縫う時はね、布を少しだけ内側に折り込んであげるの。そうすると、ほつれた糸が隠れて、丈夫になるわ」
「こう……? お姉ちゃん」
「ええ、とても上手よ。針目が少し曲がっていても気にしなくていいわ。それはエマが一針一針、心を込めて縫った証拠なんだから」
「うんっ!」
かつて「完璧な氷織り」のみを自らに課し、針目一つの乱れすら許さなかったセラが、いま、不格好な子供の縫い目を慈しむように見守っている。
その横顔には、かつてないほど穏やかで、柔らかな聖母のような光が宿っていた。
そこへ、広場の騒ぎを聞きつけた村の大人たち——パン屋の女将さんや農家の小母さんたちが、焼きたてのクッキーと冷たい麦茶のやかんを持って集まってきた。
「まあまあ、子供たちがこんなに真剣に針を持ってるなんて珍しいねぇ」
「ルーク、お前さんのおかげで、村のやんちゃ坊主たちがすっかりお行儀良くなっちまったよ」
大人たちも縁側に腰掛け、子供たちの針仕事を手伝い始めた。
エッジタウンの広場は、誰かを傷つけるための力ではなく、壊れたものを慈しみ、寄り添い合う温かな愛の輪で満たされていた。
「ルーク兄ちゃん、見て! 端切れと端切れが繋がった!」
トビーが掲げたのは、赤い木綿の端切れと青い麻布を、歪な縫い目で繋ぎ合わせた、手のひら大の小さなパッチワークの布だった。
縫い目はガタガタで、糸の色もバラバラ。
だが、そこには少年の一生懸命な汗と、誰かの役に立ちたいという誇りが、確かに宿っていた。
「……トビー、すごく上手に縫えたね」
ルークはトビーの頭を優しく撫で、少年の目を真っ直ぐに見つめた。
「覚えておいてね、トビー。この世界はね、最初から一枚の綺麗な布だったわけじゃないんだ。色んな人が、色んな場所で、こうして小さな布を持ち寄って、手を取り合って縫い合わせてきたから、今、僕たちはこの空の下で笑っていられる。壊れたら、また縫えばいい。破れたら、新しい布を当てて繕えばいい。トビーが今日縫ったこの小さな布は、世界を繋ぐための、大切な最初の一針なんだよ」
「……世界を繋ぐ、最初の一針……!」
トビーはその布を宝物のように胸に抱きしめ、誇らしそうに大きく頷いた。
「ねえ、ルーク兄ちゃん! みんなの布も繋げて、おっきな一枚の旗にしようよ!」
ミリーの提案に、子供たちも大人たちも大賛成の声を上げた。
ルークとセラ、そして村中の子供たちと大人たちが、それぞれ持ち寄った赤、青、黄、緑の様々な端切れを一針、一針、心を込めて縫い合わせていった。
夕暮れ時、完成したのは——畳二枚分ほどもある、色とりどりの巨大なパッチワークの旗だった。
不揃いで、凸凹で、決して完璧とは言えない。
けれど、西日に照らされたその旗は、どんな豪華絢爛な王国の軍旗よりも眩しく、温かな光を放っていた。
村の鍛冶屋が教会の鐘楼のてっぺんに登り、そのパッチワーク旗を高らかに掲揚すると、夕風をいっぱいに受けてバタバタと誇らしげに翻った。
ワァァァァァッ!!
広場全体から、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
教会の奥からその様子を見守っていたマルタ院長が、エプロンの端でそっと目頭を拭っていた。
かつて出来損ないと呼ばれた少年が手渡された、一本の針と銀の指貫。
その温かな魂は、いま、次の世代の子供たちの小さな手の平へと、確かに受け継がれていた。




