第77話:帰郷——エッジタウンの鐘
帝都を旅立ってから、幌馬車に揺られること十日余り。
街道の両脇に広がる黄金色の麦畑の向こうに、懐かしい赤レンガの屋根と、小さな教会の尖塔が見えてきた。
東大陸の辺境に位置する小さな開拓村——エッジタウンだった。
かつて、魔術を織ることのできない出来損ないとして蔑まれながらも、壊れた農具や破れた衣服を繕って暮らしていた、ルークの生まれ故郷である。
「……あそこが、あなたの育った村なのね、ルーク」
御者台の隣に座るセラが、初夏の心地よい風に銀髪をなびかせながら、目を細めて村並みを見つめた。
いつもの冷徹な表情はそこになく、初めて訪れる少年の故郷に対する、少し緊張した、けれどどこか愛おしそうな眼差しが宿っている。
「うん。本当に何もない、小さな村だけどね。……あ、見て、セラさん。あの村の入り口の石垣!」
ルークが嬉しそうに指差した先——村を囲む古い石垣の角に、色とりどりの小石が漆喰の代わりに魔糸で縫い合わされた、奇妙なパッチワーク模様が見えた。
「あれ、僕が十二歳の時に崩れた石垣を、接糸で直した跡なんだ。職人さんには『不格好な継ぎ接ぎだ』って怒られたけど……今でもちゃんと崩れずに残ってる」
「……ふふっ。本当にあなたらしいわね。遠くから見ても、一目でルークの仕業だって分かるくらい、温かくて不器用な縫い目だわ」
セラがくすくすと笑った。
馬車が石垣をくぐり、村のメインストリートへと足を踏み入れたその時だった。
カァァァァン……カァァァァン……!
村の中心にある教会の鐘が、高らかに打ち鳴らされた。
非常時の乱打ではない。遠くへ旅立った家族の無事な帰還を祝う、喜びの鐘の音だった。
「おーい! ルーク兄ちゃんだ!」
「ルーク兄ちゃんが帰ってきたぞーっ!!」
広場の方から、子供たちの甲高い歓声が響き渡った。
次の瞬間、畑仕事をしていた村人たちや、パンを焼いていた女将さん、鍛冶屋の親方たちが、仕事の手を止めて一斉に通りへと駆け出してきた。
「ルーク! 本当にルークか!」
「帝都の新聞や旅の商人から聞いたぞ! 空を覆った白い魔物を退治して、世界を救ったって!」
「あのエッジタウンの落ちこぼれ坊主が、帝国最高の『仕立て屋』になったんだってなぁ!」
あっという間に馬車の周りは、笑顔の村人たちで埋め尽くされた。
かつてルークが繕ってあげた鍬を掲げる農夫や、継ぎ接ぎの入った前掛けを自慢げに見せる食堂のおばさん。誰もが少年の無事を喜び、まるで自分の息子が凱旋したかのように涙を浮かべて拍手を送っている。
その中から、かつてルークの継ぎ接ぎ魔術を「不吉なまじない」と罵っていた村の古参の鍛冶屋が、深々と頭を下げて歩み出てきた。
「ルーク……すまなかった。わしはずっと、お前の力をまがい物だと決めつけて、ひどい言葉を投げつけてきた。だが、お前が繕ってくれたあの古い鞴は、一度も壊れることなく、今も村の炉を燃やし続けてくれている。……世界を救った大恩人に、心から詫びさせてくれ」
「親方さん、頭を上げてください!」
ルークは慌てて鍛冶屋の手を取り、力強く首を横に振った。
「謝らないでください。あの時、親方さんが道具を預けてくれたから、僕は針を持つ練習を続けられたんです。村のみんなが使ってくれたから、僕の魔術は生きることができた。感謝しているのは、僕の方なんですよ」
少年の屈託のない笑顔に、鍛冶屋は男泣きに暮れ、村人たちの歓声はさらに大きなものとなった。
「み、皆さん……! ただいま帰りました!」
ルークが御者台から飛び降りると、トビーやミリーをはじめとする孤児院の小さな子供たちが、まるで小犬のように一斉に飛びついてきた。
「ルーク兄ちゃん! 会いたかったよーっ!」
「兄ちゃんが直してくれた木馬、大事に遊んでるよ!」
「あのね、ルーク兄ちゃん! ミリーの人形、腕が取れちゃったの……直せる?」
ミリーと呼ばれた小さな少女が、綿の飛び出した手作りのウサギの人形を、涙ぐみながら差し出した。
「もちろん直せるよ、ミリー。……そうだ、セラさん、手伝ってくれるかい?」
「えっ、私が……?」
セラが驚いて目を瞬かせた。
名門貴族の首席として、強大な氷の魔術で敵を打ち砕くことしか知らなかった少女にとって、子供のぬいぐるみを繕うなど、経験したことのない未知の領域だった。
だが、ルークは笑ってセラの手に、小さな針と柔らかな青い毛糸を持たせた。
「布を合わせるのは僕がやるから、セラさんは仕上げに、冷たくならない優しい氷の糸で、留め具のビーズを作ってくれないかな」
「……やってみるわ」
セラは膝をつき、ミリーと同じ目線になって真剣な表情を浮かべた。
ルークが金色の魔糸でウサギの腕の綿を収め、ほつれた縫い目を素早く接糸で縫い合わせる。そしてセラが、指先から微細な白銀の冷気を紡ぎ出し、小さな小さな氷の星のボタンをウサギの胸元へと縫い留めた。それは決して溶けることなく、ほんのりとした涼やかさと淡い光を放つ、世界に一つだけの特別なボタンだった。
「わあぁぁっ……! うさちゃんが前よりずっと可愛くなった! 銀髪のお姉ちゃん、ありがとう!」
ミリーが満面の笑みで飛びつき、セラの腰にしがみついた。
セラは一瞬身体を硬くしたが、やがてその頬を柔らかく染め、恐る恐る小さな子供の背中を優しく抱きしめた。
「……どういたしまして。大切にしてあげてね」
その光景を見ていた周囲の村人たちから、温かい拍手が沸き起こる。
そこへ、人混みがすっと左右に割れた。
杖をつきながら、使い古したエプロン姿の白髪の老婦人が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
エッジタウン孤児院の院長であり、身寄りのないルークを本当の孫のように育ててくれた育ての親——マルタ院長だった。
「……マルタおばあちゃん」
ルークが息を呑み、歩み寄る。
マルタは皺の刻まれた手で眼鏡の位置を直すと、ルークの顔をじっと見つめ、次いで、その右手中指に光る古い銀の指貫を見つめた。
そして、慈愛に満ちた柔らかな笑みを浮かべ、両手を広げた。
「お帰り、ルーク。……立派に、縫い上げたねぇ」
「……っ、おばあちゃん……! ただいま……ただいま帰りました……!」
世界を救った大英雄は、子供のように泣き崩れながら、マルタの温かな胸の中へと飛び込んだ。
マルタの小さな手が、泥と埃にまみれたルークの背中を、トントンと優しく叩く。
幼い頃、魔術が織れずに泣きながら帰ってきた日も、近所の子に出来損ないといじめられて膝を擦りむいた日も、いつもこうして温めてくれた、懐かしい祖母の温もりだった。
「新聞を読んだよ。世界中の傷口を縫い合わせて、誰も責めずに、みんなの心を繋いだってね。……あんたの母さん——ステラも、天国で誇らしそうに笑っているよ」
「うん……母さんも、ギルフォードさんも、みんなが力を貸してくれたんだ」
ルークが涙を拭いながら顔を上げると、マルタの優しい視線が、ミリーを抱きしめたまま立ち上がった銀髪の少女へと注がれた。
「……そちらのお嬢さんは、ルークの大切な方かい?」
マルタが微笑みながら問いかけると、セラはハッと我に返り、慌てて背筋を伸ばして頭を下げた。
「は、初めまして、院長様! 紡術院でルークの……その、同級生をしておりました、セラ・ヴァルシュタインと申します! この度は突然の訪問、大変失礼いたしました……!」
完璧な貴族の礼法で挨拶するセラ。だがその指先は、緊張のあまり微かに震えていた。
マルタは杖をついてセラの前に歩み寄ると、その震える細い手を、自らの節くれだった温かな両手で優しく包み込んだ。
「まあまあ、そんなに堅くならなくていいんだよ、セラさん。旅の疲れが出ただろうに、よくこんな辺境までルークについてきておくれだったねぇ。……ルークから届く手紙にはね、いつもあんたのことが書かれていたよ。『氷のように綺麗で、誰よりも真っ直ぐで、僕の不完全な魔術をいつも助けてくれる、世界で一番大切な人だ』ってね」
「えっ……!? ル、ルーク!?」
セラが真っ赤になってルークを睨みつけると、ルークは両手を振って狼狽えた。
「お、おばあちゃん! そ、それは手紙の秘密だって言ったじゃないか!」
「ほっほっほ、婆さんになると口が軽くなって困るねぇ。さあさあ、立ち話もなんだ。今夜は村総出でお祝いだよ! あんたたちの大好きな、畑で採れたてのカブと塩豚のシチューをたっぷり煮込んであるからね!」
村人たちが歓声を上げ、子供たちがルークとセラの服を引っ張りながら孤児院へと案内していく。
村中の温かな光に包まれながら、エッジタウンの夜は優しく静かに幕を開けた。
* * *
賑やかな宴が終わり、夜風が静かに木の葉を揺らす頃。
孤児院の裏庭にある小さな木製のベンチに、セラが一人で腰掛けていた。
手には、温かなハーブティーの入った陶器のマグカップ。見上げる夜空には、帝都と同じく、淡いパッチワークの星々が美しく瞬いている。
「セラさん、寒くないかい?」
ルークが厚手の毛布を抱えて母屋から出てきた。
少年の手から手渡された毛布を膝に掛け、セラは小さく微笑んだ。
「ありがとう、ルーク。……本当に、不思議な村ね」
「え?」
「私の家……ヴァルシュタインの屋敷には、いつも何十人もの使用人がいて、豪華な銀器や絢爛な絨毯が敷き詰められていたわ。でもね、あそこには『温もり』なんて一つもなかった。父も母も、私の試験の点数と、織り上げる氷の魔術の純度しか見ていなかったの。少しでも糸が乱れれば、何日も氷の部屋に閉じ込められて……『完璧でないお前に価値はない』と教え込まれてきた」
セラはマグカップを両手で包み、立ち上る湯気を見つめた。
「でも、この村の人たちは……マルタ院長も、子供たちも、誰も成果なんて求めていない。ただあなたが元気に帰ってきたこと、それだけを心から喜んで泣いてくれた。……私ね、シチューを一口食べた時、涙が止まらなくなっちゃったの。不完全でもいい、ただそこに生きているだけで愛される場所が、世界には本当にあるんだって……」
「セラさん……」
ルークはセラの隣に腰掛け、優しくその横顔を見つめた。
「僕もね、昔は自分のことが大嫌いだったんだ。村のみんなは優しかったけれど、他の子が当たり前にできる魔術が、僕だけどうしても織れなくて。毛玉しか作れない出来損ないの自分が、情けなくて仕方がなかった。……でも、マルタおばあちゃんが言ってくれたんだ。『ルーク、布を織る人がいれば、破れた布を縫い直す人も必要なんだよ。あんたの手は、傷ついたものを抱きしめるためにあるんだよ』って」
ルークは自らの両手を見つめ、次いで、セラの冷たい手をそっと握り締めた。
「セラさんの氷の魔術は、誰よりも綺麗で、誰よりも強いよ。でも、もしその心が凍えて傷ついた時は……何度だって僕が縫い直すから。このエッジタウンは、もうセラさんの故郷でもあるんだからね」
「……ばか。またそんな、泣きそうなことばかり言って」
セラは瞳に溢れた涙を指先で拭い、くすりと笑うと、そっとルークの肩に身を寄せた。
二人の間を吹き抜ける夜風は、どこまでも温かく、二つの魂を優しく結び合わせていた。
遠くで響くエッジタウンの教会の鐘は、かつて世界を救った少年と少女に、静かで穏やかな安らぎの夜を告げていた。




