第76話:紡術院の特別講義と旅立ちの宴
帝都の青空に、初夏の心地よい風が吹き抜けていた。
かつて「出来損ないのクラス」と呼ばれ、日陰者たちが押し込められていた紡術院の第三実習棟——通称『繕組』の実習室は、いまや院内で最も活気と熱気に満ちた場所へと生まれ変わっていた。
講義開始の三十分前だというのに、広大な円形講堂は上級生から新入生まで、立ち見が出るほどの超満員だった。
最前列には、かつて白織組の首席候補だったプライドの高いエリートたちや、上級貴族の令嬢たちが、新品の裁縫道具と真新しい羊皮紙を握りしめて緊張の面持ちで着席している。
「おい、本当にあのルーク様が直々に教えてくださるのか……?」
「ああ。大院長アーヴェル様の天衣を解体し、大綻びを縫い合わせた伝説の『原初の技法』だぞ。一言一句たりとも聞き漏らせない」
ざわめく講堂の扉が静かに開き、黒髪の少年が姿を現した。
シンプルな紺色の作業着に、右手中指にはあの使い古された銀の指貫。
ルーク・アスキスが教壇に上がると、割れんばかりの拍手が講堂を揺るがした。
「皆さん、こんにちは。特別名誉講師の……あ、いえ、繕組のルーク・アスキスです。よろしくお願いします」
ルークが少し照れくさそうに頭を下げると、生徒たちから温かい笑い声が漏れた。かつて彼を嘲笑っていた空気は、この講堂のどこにも存在しない。
「今日、レイラ副院長から『繕いの基礎』を皆さんに伝えるようにと言われました。でも、難しい理論を話すつもりはありません。……まず、この二本の糸を見てください」
ルークは両手を広げた。
左手の平からは、わずかに火花の散る紅蓮の魔糸が一本。右手の平からは、冷気を帯びた白銀の氷の魔糸が一本、それぞれ紡ぎ出された。
「皆さんが教科書で習ってきた紡術では、火と氷は反発し合い、決して交わらないものとされていますよね。もし無理に重ねて織ろうとすれば、糸は千切れ、術式は暴走してしまいます」
生徒たちが一斉に頷く。それは紡術院の絶対的な常識だった。
「ですが、それは『一枚の布として完璧に織り上げようとする』からです。布として織るのではなく、二つの独立した布の端っこを、別の糸で『縫い合わせる』としたらどうでしょうか」
ルークは指先を動かした。
右手中指の指貫がチリンと鳴り、微細な金色の魔糸が空中に閃く。
少年は火の魔糸の端と、氷の魔糸の端をわずかに重ね、金色の糸でトントンと二針、小気味よい音を立てて縫い合わせた。
パチンッ、チリン。
次の瞬間、講堂中に息を呑む音が響いた。
火と氷の魔糸は反発して爆発することなく、金色の縫い目を介して美しく結びつき、赤と白が渦を巻く、見たこともない温かな蒸気の小鳥となって空へと羽ばたいたのだ。
蒸気の小鳥は天井近くを軽やかに旋回し、涼やかな風と心地よい温もりを講堂全体に届けて、ふわりと光の粒子となって消えた。
「うわあ……!」
「反発するはずの二つの属性が、完全に安定して循環している……!?」
最前列の優等生が立ち上がり、震える手で眼鏡を直した。
「ルーク先生! それは一体、どんな高等術式なのですか!? どれほどの魔力量があれば、異なる属性の反発を抑え込めるのですか!?」
「魔力量は、ほとんど使っていませんよ」
ルークは穏やかに首を横に振った。
「大切なのは、力でねじ伏せることじゃないんです。火の糸も、氷の糸も、それぞれ形や性質が違うだけで、生きて息をしています。お互いの端っこを少しだけ緩めて、間に別の柔らかい糸を添えてあげる。——『完璧じゃなくていい、違いを認めて寄り添うこと』。それが、僕の教わった縫合のすべてです」
ルークは講堂の生徒たちを、温かなオッドアイで見渡した。
「ここにいる皆さんの中には、自分の魔術がうまく織れなくて悩んでいる人や、教科書通りにできない自分を『出来損ない』だと責めている人がいるかもしれません。でも、絶対に諦めないでください。織れないなら、繋げばいい。傷ついたなら、繕えばいいんです。世界には、完璧な人間なんて一人もいません。欠けているところ、不格好なところがあるからこそ、人は誰かの糸と手を繋ぐことができるんですから」
シーンと静まり返った講堂で、何人もの下級生が、胸を押さえて大粒の涙をこぼしていた。
かつて「無能」の烙印を押され、絶望の淵にいた彼らにとって、世界を救った大英雄のその言葉は、何物にも代えがたい魂の救済だった。
ワァァァァァァァッ!!
講堂が再び、地鳴りのような拍手とスタンディングオベーションに包まれた。
後方の扉の脇で腕を組んで見ていたレイラ副院長が、誇らしそうに目を細めて微笑んでいた。
* * *
その日の夜。
帝都の繁華街にある老舗酒場『青い糸車亭』の二階貸切フロアで、ルークたちの旅立ちを祝う大宴会が開かれていた。
テーブルには香ばしく焼き上げられた羊肉のローストや、焼きたての黒砂糖パン、南大陸名産の果実酒や極北のエール樽がところ狭しと並べられ、賑やかな歓声が夜空へと響き渡っていた。
「おいおいおいっ! 今日の講義、大成功だったじゃねえか、ルーク先生!」
大ジョッキを片手に顔を赤くしたガレットが、ドスンとルークの背中を叩いた。
「もう『出来損ない』なんて呼ぶ奴は帝国中どこを探してもいねえぞ! むしろ、街の貴族の娘っ子たちが『ルーク様の繕い組に入りたい』って殺到して、選考倍率が五十倍を超えたらしいじゃねえか!」
「も、もうやめてよガレット……僕はただ、母さんから教わったことを話しただけなんだから」
ルークが苦笑いしながらエールに口をつけると、向かいの席に座っていたヴァルドが、上品にワイングラスを傾けながら微笑んだ。
「いや、素晴らしい講義だったよ、ルーク。君の言葉は、我がクレイン家が何代にもわたって生徒たちに押し付けてきた『完璧主義の呪縛』を、完全に解き放ってくれた。……実はね、今朝、父上から二通目の手紙が届いたんだ」
「アーヴェル先生からですか?」
「ああ。修道院の小さな庭で、折れた木の枝や破れた教本を、不器用ながら自らの手で繕う練習を始めているそうだ。『長年、他者を裁くことしか知らなかったこの老いた指先が、誰かのために針を持つことの尊さを、ようやく理解し始めた』と書かれていたよ」
「そう……ですか」
ルークは胸に温かいものが込み上げてくるのを感じた。
かつて世界を真っ白に塗り潰そうとした大院長が、いま、小さな庭で一針ずつ命を繕っている。それこそが、ルークが何よりも望んでいた世界の姿だった。
「ルークさん、こちらも見てください!」
ミーシャが眼鏡を光らせながら、分厚い新刊本をテーブルの上にドンと置いた。
表紙には金文字で『テクストゥーラ創世誌:七人の紡ぎ手とパッチワークの真実』と記され、著者名にはミーシャ・レニエの名が誇らしげに刻まれていた。
「帝国全土の図書館と学校に、この本が寄贈されることが決まりました! これからは子供たちも、歴史の授業で最初から『世界は七つの断片を縫い合わせたパッチワークであること』を学ぶようになります! 隠蔽された歴史は、完全に陽の目を見ました!」
「すごいよ、ミーシャ! 本当に本になったんだね!」
「はいっ! これもルークさんたちが、各地の神殿で記録を守ってくれたおかげです!」
仲間たちが次々と笑顔で杯を交わす中、ふとガレットがジョッキを置き、少し改まった表情でルークを見つめた。
「……で、ルーク。本当に明日、帝都を出るのか?」
その言葉に、楽しげだった宴席がすっと静まり返った。
ヴァルドもミーシャも、寂しさと敬意の入り混じった瞳でルークを見つめる。
「うん。決めたんだ」
ルークは静かに頷き、窓の外に広がる広大な帝都の夜景を見つめた。
「帝都の大きな傷は塞がったけれど、僕たちが旅してきた南の島々や、極北の雪山、東の樹海や西の砂漠には、まだ戦争や天蓋の余波で傷ついた魔道具や、乱れた土地の結界がたくさん残っている。それに、大聖堂の地下で見たように、世界中にはまだまだ『直してほしい』と泣いている小さな声がたくさんあるはずだから」
「ルーク先生として紡術院に残れば、一生安泰の地位も名誉も、莫大な報酬も手に入るというのに……君という男は、本当にぶれないな」
ヴァルドが感服したように息を吐いた。
「俺は帝都に残るぜ、ルーク」
ガレットが力強い拳を胸に当てた。
「レイラ先生とヴァルドに頼まれてな。新設される防衛隊の武具修繕部隊の筆頭指南役に就任することになったんだ。お前が世界中を回って直してくる間、俺が帝都の守りをガッチリ固めて、いつでもお前が帰ってこれる場所を守り続けてやる!」
「ガレット……ありがとう。心強いよ」
「私もです、ルークさん!」
ミーシャが身を乗り出した。
「私は学術院の特別研究室に残って、古代の文献のさらなる解読を進めます! 世界各地でルークさんが見つけた未知の遺物や壊れた結界の情報を、いつでも遠隔通信でバックアップしますからね!」
「頼りにしてるよ、ミーシャ」
仲間たちの温かい絆に包まれ、ルークは深く頭を下げた。
そして——ルークの隣に静かに座っていた少女が、ふわりと立ち上がった。
美しい銀髪を揺らし、ルークとお揃いの仕立て屋の丈夫な革帯を腰に締めたセラだった。
「私は……ルークと一緒に行きます」
セラの凛とした宣言に、ガレットがニヤリと口角を吊り上げた。
「へへっ、知ってたぜ! セラ嬢ちゃんがお前を一人で旅に出すわけがねえもんな!」
「か、からかわないでガレット! 私はルークのお目付け役よ! この人は放っておくと、自分の怪我も顧みずに徹夜で他人の魔道具を直そうとするんだから。氷の魔術で強制的に寝かしつける役目が必要なの!」
顔を真っ赤にして弁解するセラの姿に、酒場中がドッと温かい笑い声に包まれた。
かつて氷の彫像のように冷たかった天才少女は、いま、世界で一番魅力的な笑顔を浮かべて仲間たちと笑い合っていた。
「さあ、湿っぽいのは無しだ! 世界で一番お人好しな仕立て屋と、世界で一番可愛いお目付け役の門出に——乾杯ッ!!」
「「「かんぱぁぁぁぁいッッ!!」」」
ジョッキが打ち鳴らされ、泡が弾けた。
仲間たちの温かな歌声と祝福の笑顔に見守られながら、夜は更けていった。




