第80話:世界を繋ぐパッチワーク
夜が明け、地平線の彼方から差し込んだ黄金色の朝陽が、エッジタウンの麦畑を眩い光の海へと染め上げていった。
教会の屋根にとまった小鳥たちが澄んだ囀りを響かせ、清々しい朝露が草花の上でキラキラと輝いている。
村の中心の広場には、早朝にもかかわらず、エッジタウンのすべての村人たちが集まっていた。
カァァァァン……カァァァァン……!
教会の鐘楼から、旅立つふたりの門出を祝う、祝福の鐘の音が青空高く響き渡る。
鐘楼のてっぺんには、昨日村中のみんなで縫い上げた色とりどりのパッチワークの旗が、爽やかな朝風をいっぱいに受けて、誇らしげに翻っていた。
広場の中央には、美しく整備された『パッチワーク・キャラバン』が停まり、二頭の逞しい栗毛の馬が、心地よさそうに鼻を鳴らしている。
「ルーク兄ちゃん! お姉ちゃん!」
「行っちゃうの……? 寂しいよぉ!」
トビーやミリー、エマ、レオたち孤児院の子供たちが、ルークとセラの周りに駆け寄り、名残惜しそうに衣服の裾を引っ張った。
ミリーの瞳には大粒の涙が浮かび、胸には昨日直してもらった、セラ手作りの氷の星ボタンのウサギのぬいぐるみが大切に抱きしめられている。
「ミリー、泣かないで」
セラがふわりとしゃがみ込み、白いハンカチで少女の涙を優しく拭った。
銀髪には、昨夜ルークから贈られた、雪の結晶と真珠の髪飾りが朝陽を浴びて清らかに輝いている。
「寂しくなったら、そのウサギのボタンを触ってごらんなさい。私が遠く離れた場所からでも、あなたのために優しい涼風を届けてあげるわ。……それに、私たちはどこへ行っても、このエッジタウンの空と繋がっているんだから」
「……うん! お姉ちゃん、お約束だよ!」
ミリーがこくりと頷き、セラの首にぎゅっと抱きついた。
セラもまた、柔らかな笑みを浮かべて小さな背中を抱きしめ返した。
「トビー、エマ、レオ」
ルークも膝をつき、子供たち一人ひとりの顔を真っ直ぐに見つめた。
「針を持つ時は、相手を傷つけないように優しく持つこと。糸がもつれたら、焦らずに解くこと。……ふたりが困った時は、村のみんなで助け合って、布を繕うみたいに心を寄せ合うんだよ」
「うん! 分かってるよ、ルーク兄ちゃん!」
トビーが胸を張って、昨日縫った小さなパッチワークの布を天に掲げた。
「俺、もっともっと練習して、兄ちゃんみたいな立派な仕立て屋になる! 村の石垣も、みんなの服も、俺が全部直してみせるから!」
「頼もしいね。帰ってきた時、楽しみにしているよ」
ルークがトビーの頭をくしゃくしゃと撫でると、子供たちの後ろから、杖をついたマルタ院長がゆっくりと歩み寄ってきた。
その両手には、湯気の立ち上る大きな布包みが抱えられていた。
「ルーク、セラさん。旅の途中で食べなさい。焼きたての黒砂糖パンと、干し林檎のパイだよ」
「おばあちゃん……ありがとう」
ルークが布包みを受け取ると、マルタは皺だらけの温かな手で、ルークの頬と、セラの頬を優しく撫でた。
「ふたりとも、本当によく頑張ったねぇ。……世界中を旅して、たくさんの傷や涙に出会うだろう。でもね、決してひとりで背負い込んじゃいけないよ。あんたたちには、お互いがいる。そして帝都にも、世界の端々にも、あんたたちを信じて支えてくれる仲間たちがたくさんいるんだから」
「はい、マルタ院長。ルークが無茶をしないよう、私が一番近くでしっかりと見張っていますから、安心してください」
セラが微笑むと、マルタは目を細めて、嬉しそうに頷いた。
「お前さんたちが並んでいる姿を見るとね、まるで天国のステラとギルフォードを見ているようだよ。……さあ、行きなさい。壊れた世界を、あんたたちの温かい手で、一針ずつ縫い続けておいで」
「行ってきます、おばあちゃん!」
ルークとセラは深く頭を下げると、キャラバンの御者台へと飛び乗った。
ルークが手綱を握り、セラがその隣に寄り添う。
「それじゃあ……みんな、行ってきます!!」
パシィィンッ!
手綱が振るわれ、キャラバンがゆっくりと前進を始めた。
「「「ルーク兄ちゃん! お姉ちゃん! いってらっしゃーーいっ!!」」」
「体に気をつけるんだぞーっ!」
「いつでも帰っておいでよーっ!」
村人総出の大歓声と拍手、そして高らかに鳴り響く教会の鐘に見送られながら、幌馬車はエッジタウンの石垣をくぐり、広大な大地へと続く街道へと駆け出していった。
ルークとセラは何度も何度も振り返り、村のパッチワークの旗が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。
* * *
エッジタウンを出発して数時間。
街道の両脇には見渡す限りの緑の丘陵が広がり、初夏の心地よい風が幌馬車の天幕を優しく揺らしていた。
御者台に座るルークの隣で、セラが地図を広げて微笑んだ。
「最初の目的地は、東大陸の港町ね。そこから船に乗って、南大陸のペルラ諸島へ向かうわ。オルカ船長たちが、獲れたての真珠貝を山ほど用意して待っているそうよ」
「楽しみだね! あそこの海風、すごく気持ちいいんだ。ペルラに着いたら、壊れた漁網や船の帆の修繕を頼まれているから、腕が鳴るよ」
「まったく、旅の初日から仕事のことばかりなんだから」
セラが呆れたように笑いながらも、その碧眼は輝いていた。
その時だった。
前方の上り坂の途中で、一台の荷馬車が傾いて立ち往生しているのが見えた。
初老の行商人が、外れて転がってしまった車輪の横で頭を抱え、困り果てた様子で立ち尽くしている。
「あ……荷車が壊れちゃってるみたいだ」
「行きましょう、ルーク」
「うん!」
ルークは手綱を引いてキャラバンを道脇に停めると、道具箱を抱えて傾いた荷馬車へと駆け寄った。
「こんにちは! お困りですか?」
突然声をかけられた行商人は、青い作業着を着た黒髪の少年と、息を呑むほど美しい銀髪の少女を見て、目を白黒させた。
「あ、ああ……! 帝都へ運ぶ大切な反物を積んでいたんだが、街道の窪みに車輪を取られてしまってね。車軸の心棒がポッキリと折れてしまったんだ。次の宿場町まで何十里もあるし、こんな山の中で立ち往生してしまって……途方に暮れていたところなんだよ」
「見せていただけますか?」
ルークは折れた車軸の前にしゃがみ込み、左の黄金の瞳を細めた。
樫の木の繊維が激しい衝撃で引き裂かれ、魔力回路ならぬ木の生命の糸が、無惨に断絶している。だが、心棒そのものは良質な木材で作られており、まだ十分に生きている。
「大丈夫です。この車軸は、まだ死んでいませんよ」
ルークは右手中指に嵌めた、母の形見の銀の指貫をチリンと弾いた。
そして道具箱から取り出したのは、レイラ副院長から贈られた頑丈な鋼の補強針と、強靭な麻糸だった。
「セラさん、車体を少し持ち上げてもらえるかい?」
「任せて」
セラが両手をかざすと、冷涼な白銀の魔糸が地面から立ち上り、氷の頑丈な台座を瞬く間に形成して、傾いた荷馬車をふわりと水平に持ち上げた。
「な、なんと……! これほどの高等な氷織りを、詠唱もなしに……!?」
行商人が腰を抜かさんばかりに驚愕する中、ルークは折れた車軸の切断面を合わせ、金色の魔糸を指先から紡ぎ出した。
「痛くないよ……もう一度、大地を走ろうね」
ルークは折れた木材の繊維の隙間に金色の魔糸を滑り込ませ、引き裂かれた木の目を一筋、一筋、優しく縫い合わせていく。
パチンッ、カチィィィンッ!
小気味よい針音が響くたび、木肌の傷口が滑らかに塞がり、さらに外側から鋼の麻糸で幾重にも補強の縫い目が施されていく。
わずか数分後——車軸は元通りに繋がり、以前よりもはるかに強靭な、美しい金継ぎのような模様を刻んで蘇った。
セラが氷の台座を静かに解くと、荷車は何事もなかったかのように、四つの車輪でしっかりと大地の上に立った。
「お待たせしました。もう大丈夫ですよ。帝都までの険しい道も、この車軸なら絶対に折れません」
ルークが汗を拭って微笑むと、行商人は震える手で車軸を撫で回し、次いで、少年の手と少女の手を涙ながらに握り締めた。
「信じられん……! 新品の時より頑丈で、こんなにも美しい! お、おふたりは一体……!?」
「旅の仕立て屋ですよ。壊れたものを直して、旅をしています」
「ありがとう……! 本当にありがとう、仕立て屋の旦那さん! 奥さんも、本当にありがとう!」
「お、おく……っ!?」
突然「奥さん」と呼ばれたセラは、真っ赤になって両手で頬を押さえ、パクパクと口を開閉させた。
ルークも少し照れくさそうにはにかみながら、行商人を見送った。
「気をつけて行ってくださいね!」
「ああ! ふたりも良い旅をな!」
元気に走り去っていく荷馬車を見送り、ふたりは再びパッチワーク・キャラバンの御者台へと戻った。
「……もう、ルークのばか。『奥さん』だなんて言われて……」
「あはは……でも、なんだか嬉しかったな」
「〜〜〜っ! もう、知らない!」
セラは真っ赤な顔をしてそっぽを向いたが、その口元には隠しきれない幸せな笑みがこぼれていた。
少女はそっとルークの腕に自らの腕を絡ませ、少年の逞しい肩に頭を預けた。
ふたりが並んで見上げた頭上には、どこまでも果てしなく広がる、抜けるような青空が広がっていた。
かつて冷酷な白い偽天蓋に閉ざされていた世界。
だがいま、その空の彼方には、ルークと仲間たちが七本の神体で縫い合わせた、七色のパッチワークの光の帯が、まるで世界を優しく守る毛布のように、淡く、美しく揺らめいている。
かつて、魔術の出来損ないと呼ばれた少年がいた。
完璧な布を織ることができず、落ちこぼれと笑われ、孤独の底で毛玉ばかりを作っていた少年。
けれど少年は、決して針を手放さなかった。
織れないなら、繋げばいい。
壊れたなら、繕えばいい。
不揃いで、不完全で、傷だらけの布切れであっても、誰かの温かな手で縫い合わせれば、世界で一番強くて美しい布になるのだと、信じ続けた。
完璧な世界など、どこにもない。
人は誰もが不完全で、傷を抱え、時には綻び、涙を流す。
けれど——傷があるからこそ、人は痛みを分かち合える。
不揃いだからこそ、人は誰かの手を取って、互いを補い合うことができる。
「……ねえ、ルーク。世界は、生きているわね」
セラの澄んだ囁きに、ルークは深く、力強く頷いた。
右手中指の銀の指貫が、朝陽を浴びて温かく瞬いている。
「うん。世界は……僕たちの命は、いま、確かに息をして——生きている」
パシィィンッ!
澄み渡る朝の風の中、手綱の小気味よい音が響いた。
ふたりの仕立て屋を乗せたパッチワークの馬車は、光り輝く地平線の向こう、まだ見ぬ誰かの笑顔と、新しい明日を縫い合わせるために——どこまでも、どこまでも、真っ直ぐに走り続けていく。
(【第一部】紡術院編 完結)




