第72話:創世の祭壇と大院長の狂気
大聖堂の巨大なステンドグラスを抜け、冷たい黒大理石の螺旋階段を地下深くへと降りていくにつれて、肌を撫でる大気の感触は、この世のあらゆる物理法則と魔術の概念を拒絶するような、絶対的な「無」の静寂へと変わっていった。
一段、また一段と階段を降りるたびに、耳鳴りのような重い圧迫感が五人の鼓膜を揺らす。
空気に含まれる酸素すらも希薄になり、全身を巡る血流の音だけが、トクン、トクンと異様なほど明瞭に響いていた。
「……息が詰まりそうだぜ。ここには、風の匂いも、土の温もりも、何一つありゃしねえ」
ガレットが大剣の柄を握り直しながら、短く息を吐いた。
その隣で、セラが自らの白い手袋を見つめ、静かに呟く。
「ルーク。……私ね、紡術院に入学したばかりの頃、完璧であることだけが自分の存在価値だと思い込んでいたわ。誰とも交わらず、誰の体温も知らず、ただ冷たく鋭い氷の針であり続けようとした。……あの頃の私なら、きっとアーヴェル大院長の目指す『完璧な世界』に疑問すら抱かなかったかもしれない」
「セラさん……」
「でもね、あなたが私の歪みを解いてくれた。完璧じゃない私の氷を、温かな手で包み込んでくれた。……だから今なら分かるの。あの人の冷たい完璧は、ただの孤独な逃げ場に過ぎないってことを。今度は私たちが、あの冷たい殻を砕いてあげる番よ」
「ええ……! 僕も、絶対に諦めません!」
ルークが力強く頷くと、ヴァルドが静かに前を見据えて言った。
「父上は、母上を失ったあの日から、時間を止めてしまったんだ。……僕の雷は、父上を倒すためではなく、その凍りついた時間を撃ち砕き、明日へ進めるためにある。行こう、みんな」
「はい! 神話の機織り機オリジン・ルームの構造データ、すべて頭に入っています!」
ミーシャが手帳を胸に抱きしめ、一行はついに階段の最下層へと降り立った。
そこは、常識的な建築の枠組みを遥かに超越した、息を呑むほど広大で底知れぬ地下大空洞だった。
天井も、壁も、床すらも存在しない。
視界のすべてが果てしない暗黒の虚空に包まれ、その中央に、巨大な一枚の純白の大理石の舞台——『創世の祭壇(天衣の玄室)』が、無数の白い光の鎖によって宙に吊り下げられていた。
足下を見下ろせば、数千メートルもの奈落の底で、紫黒色にうごめく巨大な世界の裂け目——かつて初代大院長が封印したはずの『大綻び』が、まるで世界を呑み込もうとする悪夢の顎のように口を開けていた。
そして祭壇の中心に鎮座していたのは、神話の時代に世界を織り上げたと伝えられる伝説の神機——『創世の機織り機』だった。
天蓋を貫く巨大な鉱物と古代樹の骨組み。巨大な糸車と無数の綜絖が複雑に噛み合い、神々の縦糸と横糸が交差するたびに、空間そのものが波紋を描いて歪んでいる。
その機織り機の前に、一人の男が静かに座していた。
帝都紡術院大院長——アーヴェル・クレイン。
純白の天衣を纏い、威厳に満ちた白髪を撫で付けたその姿は、かつて講堂の教壇で生徒たちを見下ろしていた時よりも、遥かに若々しく、そして神々しい燐光を全身から放っていた。
何より異様だったのは、彼の胸元だった。
左胸の心臓の真芯に、漆黒と白銀が混ざり合った細身の針が、まるで自らの肋骨の一部であるかのように深々と突き刺さっていたのだ。
最後の神体——『原初の虚無針』。
針孔から紡ぎ出された無数の白紙の魔糸が、アーヴェルの血管と機織り機の縦糸を直結させ、大地の底から吸い上げた莫大な魔力を、リアルタイムで上空の白い天蓋へと送り込み続けていた。
「……よくぞここまで辿り着いたな、我が息子ヴァルド。そして……出来損ないの少年、ルーク」
アーヴェルが静かに顔を上げた。
その瞳は、人間の虹彩ではなく、万象のすべてを吸い込んで白紙へと還元する、底知れぬ虚無の光を湛えていた。
「父上……ッ!」
ヴァルドが一歩前に進み出た。
その拳は激しく震え、雷の火花が青年の指先から哀しげに散っていた。
「なぜ……なぜこんな狂気に手を染めたのです! 世界から感情の凹凸を消し去り、人々の心を奪って、何が完全だというのです! 母上が……母上がこんな冷たい世界をお望みになるとお思いなのですかッ!!」
母の名を出された瞬間、アーヴェルの眉が微かにピクリと動いた。
だが、その氷のような微笑は崩れなかった。
「……エレナの名を口にするな、ヴァルド。お前には分からぬのだ。あの痛みが……愛する者が、不完全な世界のほつれに呑み込まれ、目の前で理不尽に解けて消えていく瞬間の、底知れぬ地獄がな」
アーヴェルの声は、怒りではなく、果てしない絶望の淵から紡ぎ出されていた。
「十数年前、お前の母は、紡術の暴走によって生じた空間の綻びに呑まれて命を落とした。降りしきる雨の中、私は血を吐く思いで天衣を紡ぎ、彼女の身体を繋ぎ止めようとした。だが……解けていく命の糸を、私の一枚の布では決して縫い止めることはできなかった。どれほど高位の魔術を極めようとも、どれほど帝都の繁栄を誇ろうとも……世界が不完全である限り、悲劇は決して終わらないのだ。人が怒りを抱くから戦争が起きる。人が悲しむから心が壊れる。人が不揃いな布であるがゆえに、摩擦が生じ、世界は綻び続けるのだ」
アーヴェルは立ち上がり、胸の虚無針に手を当てながら、機織り機の筬をガチャンと鳴らした。
「お前もあの時、まだ幼く、私の腕の中で泣き叫んでいたではないか。なぜ分からぬ、ヴァルド! 悲しみを生み出す世界そのものを消し去り、白紙からやり直すことだけが、人類への唯一の救済なのだ! この『原初の虚無針』によって大陸全土の魔糸を一度リセットし、私が織り上げる完全無欠の天蓋の下で、すべての命を摩擦のない均質な存在へと統合する。飢えもなく、争いもなく、死の恐怖も、別れの涙もない……永遠に完全な織物。それこそが、この狂った世界に対する、唯一の真の愛なのだ!」
「違いますッ!!」
玄室の虚空を切り裂いて、ルークの叫びが響き渡った。
少年は一歩前に進み出ると、自らの胸元に輝く六本の遺物——指貫、裁断刃、真珠針、鋼骨針、絹糸針、金砂針を堂々と掲げた。
「痛みをなくすために心を奪うなんて、そんなの、生きていないのと同じです! 僕も……母さんを病気で亡くしました。村の納屋で、出来損ないと呼ばれて、一人でボロ布を縫いながら、何度も泣きました。どうして僕には何もできないんだろうって、世界を恨みそうになったこともありました!」
ルークの両目が、黄金と白銀を超え、万象の温もりを宿した七色の輝きを放った。
「でもね、アーヴェル大院長! 僕の母さんは、壊れた布をゴミ箱に捨てたりしませんでした! 破れたところには、別の色とりどりの端切れを当てて、優しく微笑みながら一針一針縫い直してくれたんです! 『ほつれた場所はね、ルーク。誰かの温もりを足してあげるための隙間なんだよ』って!」
ルークの言葉に、ヴァルドが、セラが、ガレットが、ミーシャが、力強く頷いた。
「僕たちは、出来損ないで、不完全で、たくさん間違えて、たくさん傷ついてきた! でも……だからこそ、ガレットが手を差し伸べてくれた! セラさんが背中を守ってくれた! ヴァルドさんが信じてくれた! ミーシャが道を照らしてくれた! 不完全だからこそ、人は誰かの傷を繕い合えるんです! 色んな色や形の端切れを縫い合わせていくからこそ……世界は、どんな一枚の白い布よりも温かくて、絶対に引き裂けない強い布になれるんだ!」
「……不揃いな端切れの寄せ集め、か」
アーヴェルの目が、冷酷な神の光を帯びて細められた。
「哀れだな、少年。お前のその言葉こそが、不完全な人間の欺瞞なのだ。……ステラも、かつて同じことを言っていたよ」
「母さんが……!?」
「そうだ。あの女も、お前と同じように世界の傷口を繕おうと彷徨い……そして、何の救いもなく病に倒れ、朽ち果てていった。不完全な愛など、何の役にも立たぬのだよ。言葉で理解できぬなら、その魂ごと白紙へと還るがよい」
アーヴェルは両手を天へと広げた。
その胸元の『原初の虚無針』が、凄まじい黒銀の波動を放ち、玄室全体を激震させた。
「見せてやろう。完全なる神の機織りを。『創世天衣・白紙還元領域』——全魔糸強制均質化、起動ッ!!」
ゴオオオオオオオオオオオオッ!!
虚空の祭壇から、世界中のすべての色と魔力を飲み干す、巨大な白紙の嵐が噴き上がった。
祭壇の端から、大理石の床がサラサラと白い無の粒子となって消滅していく。
帝都の上空、そして大陸全土を覆い尽くす天蓋が、最終シークエンスの鼓動を始める。
夜明けまで、あとわずか数十分。
「全方位からの白紙化の津波……! 触れた魔糸を瞬時に消去する気よ!」
セラの叫びと共に、ガレットが紅蓮の炎を大剣に宿し、ヴァルドが紫電の刃を構える。
「ルーク、お前の背中は俺たちが絶対に護る! その針で、あの大院長の冷たい虚無を縫い止めてやれ!」
「はい! 母さんの形見、ギルフォードさん、ルキアさん、バルカンさん、大織樹、カナン……! 僕たちのすべての想いを、今ここに!」
ルークを取り囲む六本の神体が、白紙の暴風を切り裂いて眩い七色の円環を描き出した。
仲間たちの魂が一つに重なり合い、少年少女たちは、世界を統べる冷酷な神へと、真っ向から飛び出したのだった。




