第70話:白織兵と親友の剣
湿った苔と冷たい石積みに囲まれた古代の排水路を駆け抜け、一行は紡術院の地下保管庫の隠し扉を押し開けた。
そこは、かつてルークが落ちこぼれとして通い、壊れた魔道具の修理や古い外套の繕いに明け暮れていた見慣れた校舎——だが、いま目の前に広がっていたのは、かつての賑やかさなど微塵も存在しない、死のように冷え切った白い回廊だった。
石造りの壁も、磨き抜かれていた床も、高いアーチ天井も、すべてが蜘蛛の巣よりも細い白い魔糸の膜でびっしりと覆い尽くされていた。
窓から差し込む日光すらも影を落とさず、足音を立てても反響一つ返ってこない。
廊下の隅にあった掲示板には、生徒たちが貼った楽しげな行事のポスターが無残に破り捨てられ、ルークたちが所属していた『繕組』の古い部室の木製看板は、真っ白な漆喰のような魔糸で塗り潰されていた。
「ひどい……私たちの通っていた学舎が……まるで巨大な棺桶のようだわ」
セラが足音を忍ばせながら、冷徹な怒りを込めて呟いた。
その銀色の瞳が、前方の曲がり角の先——中央講堂へと続く大回廊を鋭く捉えた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……
寸分の乱れもない、まるで一体の巨人が歩いているかのような機械的な軍靴の響きが迫ってくる。
曲がり角の向こうから現れたのは、真っ白な儀礼服を纏い、顔の下半分を白い布で覆った二十名ほどの生徒たちだった。
その胸元のバッジには、帝都紡術院の最高峰——特級クラスの黄金の織紋が刻まれていた。
だが——その両目は生気を失って白濁し、頭頂部からは肉眼で見えるほどの太い『白い操り糸』が、天井を突き抜けて上空の天蓋へと伸びていた。
「あれは……特級クラスの連中だ! 先頭にいるあいつ……エリオットじゃねえか!」
ガレットが歯噛みし、大剣の柄を握り締めた。
先頭に立つ金髪の少年——エリオット。
かつてヴァルドの取り巻きの筆頭として、ルークを「出来損ない」「ゴミ拾い」と散々見下し、納屋へと追いやった張本人だった。
だが今、その傲岸だった少年の顔には怒りも嘲笑もなく、ただ感情を漂白された機械のような冷酷さだけが張り付いていた。
「侵入者……検知……不完全ナル異分子ハ……完全ナル天蓋ノ……糧ト成ルベシ……」
擦れ合った重金属のような声。
エリオットたちが一斉に両手を掲げた。
瞬間、二十名の魔力が完全に一つの波長へと同調し、大回廊の空間全体を埋め尽くすほどの巨大な白い槍衾——『均質魔槍陣』が展開された。
個人の癖も、迷いも、恐怖もない。純度百パーセントの均一魔糸で編み上げられた、完全無欠の合体魔術。廊下の端から端までが白い刃で覆い尽くされ、避ける隙間など一寸たりとも存在しない。
「下がっていろ、みんな!」
ヴァルドが一歩前に踏み出し、両手を広げた。
「ヴァルド、お前一人じゃ受け止めきれねえぞ! 二十人分の合体魔術だぞ!」
「僕が受ける。……かつて彼らを率い、完璧という名の歪んだ序列の中に閉じ込めていたのは、僕の傲慢さだ。彼らをこの冷たい呪縛から解き放つのは、僕の義務だ!」
ヴァルドの全身から、凄まじい紫電が噴き上がった。
金髪を激しく逆立て、青年の双眸が神話の雷神のごとく輝く。
「『紫電演武・雷光の城壁』ッ!!」
ドガガガガガガガッ!! バチチチチチッ!!
無数の白い魔槍が、ヴァルドの展開した雷壁に正面から激突した。
激しい閃光と衝撃波が大回廊を激震させる。かつての紡術院主席の圧倒的な魔力操作により、槍は一本として背後のルークたちへは届かない。
だが、完全同調した二十人の魔力の質量は凄まじく、ヴァルドのブーツがギチギチと音を立てて床の大理石を深く削り取っていく。
「エリオット! 聞こえるか!」
ヴァルドが雷壁を支えながら、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「これが君の目指した紡術の極致なのか! 自分の心を殺し、感情を奪われ、父上の操り人形に成り下がることが、君の誇りだったのか! 思い出せ! 君が初めて自分の魔糸を紡ぎ出した日の、あの震えるような喜びを!」
「排除……異分子ハ……排除……」
エリオットの白濁した瞳は揺らぐことなく、さらに魔力を注ぎ足そうとする。
「クソ野郎がッ! 目を覚ましやがれぇぇぇッ!!」
ガレットが業火を纏って横から飛び出した。
大剣の刃ではなく、分厚い峰を力いっぱい振り抜き、生徒たちの槍衾の結節点を強引に叩き折る。
「出来損ないだの落ちこぼれだの喚き散らして、俺たちに突っかかってきてた頃のお前らの方が、何千倍も生きててマシだったぜ! こんな冷たい人形になってんじゃねえよ!」
ガレットの放った熱風が、生徒たちの陣形を大きく吹き飛ばした。
そこへ、セラが鋭い氷の軌跡を描いて滑り込む。
「『氷壁演武・六花氷牢』ッ!」
極薄の氷柱が生徒たちの足元を正確に凍結させ、その身動きを封じた。
「ルークさん、今です! 生徒たちの頭上に伸びる操り糸……天蓋からの一方的な精神支配回線です!」
後方からミーシャの研ぎ澄まされた導きが飛ぶ。
「任せてください! みんなの心を、絶対に奪わせはしない!」
ルークは空へと跳び上がった。
その左手には、白銀に輝く神話の大鋏——『原初の裁断刃』。
金銀のオッドアイが、二十名の頭上に繋がれた操り糸の「結び目」を一瞬で見定めた。
「人を縛る偽りの糸を断て——『神技・広域群裁糸』ッ!!」
シャキィィィィィンッ!!
澄み渡る大鋏の音が大回廊に轟き渡った。
ルークの放った無数の白銀の刃が、二十名の生徒たちの頭上に伸びていた白い操り糸だけを、髪の毛一本傷つけることなく一斉に切り落としたのだ。
「ぐあっ……!?」
「あ……あたまが……割れる……!?」
操り糸を切断された生徒たちが、激しい拒絶反応に頭を押さえて床へと崩れ落ちる。
長期間に及ぶ天蓋の洗脳魔糸は、すでに彼らの精神の奥底にまで毒のように根を張っていた。このままでは自我の崩壊を起こしてしまう。
「母さんの指貫、カナンの金砂、大織樹の命……! 彼らの心を、本来の時間へ戻して!」
ルークは右手から『原初の金砂針』と『原初の絹糸針』を同時に放った。
黄金と新緑の光の雨が、苦悶にあえぐ生徒たちを優しく包み込む。
金砂針が精神の傷を洗脳前の時間へと巻き戻し、絹糸針の瑞々しい生命魔糸が、乾き切っていた彼らの魂の結び目をふんわりと潤していく。
サァァァァッ……
生徒たちの両目から白濁した膜が剥がれ落ち、生きた人間の瞳の輝きが戻ってきた。
「お、俺は……? 一体、何を……?」
エリオットが自らの震える両手を見つめ、次いで目の前に立つルークたちの姿を捉えた。
「ヴ、ヴァルド様……? ガレット……? それに……出来損ない……いや、ルーク……?」
エリオットの目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「俺は……俺たちは……大院長の圧倒的な魔力に逆らえなくて……心を売り渡して……お前たちを、殺そうと……」
「もう大丈夫だよ、エリオット君」
ルークは膝をつき、エリオットの震える肩に優しく手を置いた。
「君たちの心は、ちゃんと戻ってきた。……あとは、僕たちに任せて」
「ルーク……っ! すまない……! 俺はずっと、お前を馬鹿にして……傷つけてきたのに……! すまない……本当に、すまなかった……!」
かつてルークを嘲笑っていた生徒たちが、涙を流して床に額を擦りつけた。
分断されていた絆が、痛みを乗り越えて、今再び一つの温かな布として結び直された瞬間だった。
「お礼なら後でたっぷり聞きなさい。今は一刻を争うわ」
セラが中央講堂の大扉を氷の息で押し開けた。
「行きましょう。大院長のいる『創世の祭壇』は、この中庭の向こうの大聖堂よ!」
エリオットたちに見送られ、一行は中庭へと通じる大扉を蹴破った。
外に出た瞬間、吹き込んできたのは、肌を切り裂くような冷徹な白銀の風だった。
中庭に広がる大噴水広場——かつて四季折々の花が咲き乱れていたその場所は、今やすべてが純白の石板と魔糸の幾何学模様へと敷き詰め直されていた。
そして、大聖堂の巨大なステンドグラスを背にして、一人の異様な人影が静かに佇んでいた。
身長二メートルを超える威容。
全身を隙間なく純白の金属鎧で覆い、手には天衣の魔糸を編み込んで鋳造された巨大な処刑用の戦斧を携えている。
帝都紡術院の最強の守護者にして、大院長アーヴェルの忠実なる懐刀——『天衣の処刑人・白銀のバルバロッサ』。
「よくぞここまで辿り着いたな、出来損ないの鼠ども」
兜のスリットの奥から漏れ聞こえた声は、人間らしい抑揚を完全に削ぎ落とした、冷酷な機械の駆動音そのものだった。
「だが、ここから先は完全なる神の世界。……不揃いで、歪んで、見苦しい端切れの命どもが、一歩たりとも踏み入ることは許さん」
ズズズズズズズズッ……!!
バルバロッサがその巨大な戦斧を石畳へと叩きつけた瞬間、中庭全体が眩い白光に包まれた。
敷き詰められた白大理石が幾千本もの鋭利な「天衣の結界刃」へと再構成され、ルークたちの周囲を取り囲むように一斉に隆起したのだ。
「『白銀天衣・断頭領域』……我が刃の領域に足を踏み入れた不完全者は、その存在の魔糸をすべて均一にスライスされ、天蓋の糧となるのみ」
処刑人の双眸が、兜の奥で冷酷に赤く発光した。
逃げ場はない。大聖堂への唯一の道を、この圧倒的な暴力が完全に塞いでいた。
「端切れだと……? ふざけるな」
ガレットが大剣を構え、獰猛な笑みを浮かべた。
「色んな端切れが寄り集まってるからこそ、俺たちは強いんだ! ルーク、こいつは俺たちに任せて先に行け……なんて言わねえぜ! 全員でこいつをブチ破って、大院長のツラ拝みに行くぞ!」
「ええ、その通りよ」
セラがルークの隣に並び立ち、白銀の氷華を宙に咲かせた。
「私たちの紡いできた絆が、どれほど温かくて頑丈か……その鉄の身体に刻み込んであげるわ!」
「行こう、みんな!」
ルークは胸の六本の遺物を光らせ、仲間たちと共に、白銀の処刑人が支配する絶対の領域へと、力強く踏み出した。




