第69話:白き天蓋と閉ざされた帝都
西大陸のアラクネ大砂漠を離れたルークたちは、巫女ナディルから託された古代カナンの駿馬が引く快速馬車を駆り、不眠不休で大陸を東へと取って返していた。
かつて砂の底に眠っていた失われた王国は、いまや清らかな伏流水に満たされ、新たな希望のオアシスとして息を吹き返している。
だが——車窓を流れる景色が、砂漠から岩山、そして帝都近郊の豊かな田園地帯へと移り変わるにつれて、少年少女たちの胸を締め付ける異様な気配は、次第に無視できない息苦しさとなって膨れ上がっていった。
「……空が、死んでいるわ」
馬車の窓から天を見上げたセラが、冷たく震える声で呟いた。
その銀色の瞳が見つめる先——本来ならば夕暮れの茜色や澄み切った青空が広がっているはずの天空は、完全に異界のものへと変貌を遂げていた。
帝都の上空数百キロメートルにわたって展開されていたのは、絵の具の純白を無理やり塗りたくったかのような、均質で、無機質で、影の一つすら落とさない巨大な「偽りの天蓋」だった。
雲の揺らぎも、風のさざめきもない。
鳥のさえずりすら途絶え、空を行き交うはずの渡り鳥の群れは、白い天蓋を恐れるように低空を狂乱して旋回していた。
太陽の光すらも白濁した極小の魔糸の膜に濾過され、地上に落ちる木々や建物の影は輪郭を失って白茶色にぼやけている。
世界全体が、音のない巨大な無菌室の内部に閉じ込められたかのような、肌を粟立たせる死の静寂が大地を覆い尽くしていた。
「あれが……父上の目指した『完全無欠の天蓋』……」
ヴァルドが拳を握り締め、憎悪と深い哀しみの籠もった瞳で白い空を睨みつけた。
その長身の青年が身に纏う外套の裾に、パラパラと微小な白い粉のような光の粒子が降り注ぐ。
「街道沿いの宿場町を通るぞ。……おい、見ろよ、あれ……!」
御者台で手綱を握るガレットが、息を呑んで街道の脇を指差した。
そこは、帝都へと向かう旅人や商人たちで常に賑わっていたはずの、風光明媚な宿場町だった。
だが——広場を行き交う数十人の町民たちの様子は、正気を疑うほどに異様だった。
誰も、言葉を発していない。
道端で露店を開く商人たちも、畑で農作業をする男たちも、まるで寸分の狂いもなく設計された時計仕掛けの精密機械のように、完全に均一な速度と歩幅で手足を動かしていた。
道端のベンチでは、母親が胸に赤ん坊を抱いていた。
だが、その母親は我が子の顔を見つめることも、優しく微笑みかけることもなく、ただ一定のリズムで腕を左右に揺らしているだけだった。そして何より恐ろしいことに——その腕の中の赤ん坊すらも、泣きも笑いもせず、光のない灰色の瞳で虚空の白い天蓋を見つめ続けていたのだ。
「感情の……魔糸の揺らぎが、完全に消去されています……!」
車内で羊皮紙の魔導測定器を握りしめていたミーシャが、悲鳴に近い声で告げた。
「『世界大織直し』の前哨波です……! 天蓋から降り注ぐ無数の極細の白い魔糸が、地上に生きるすべての命の表面を覆い、喜び、怒り、哀しみ、愛おしさといった心の凹凸を『平坦に均質化』しているんです……! 摩擦をなくし、争いをなくすという美名の下に、人間の魂そのものを漂白している……! このまま大織直しが完了すれば、数日で大陸中のすべての人類が、自我を失った生きた人形になってしまいます!」
「こんなの……生きてるんじゃないわ」
セラの唇が激しい怒りに震えた。
「泣くことも、笑うことも、誰かを愛することも奪われて、ただ呼吸だけを繰り返す歯車にされるなんて……! そんなの、ただの生ける標本よ! アーヴェル大院長は、世界を救うどころか、世界を殺そうとしているのよ!」
「うん……絶対に止めなきゃいけない」
ルークは胸元の六本の遺物を強く握り締めた。
母ステラの『原初の指貫』、ギルフォードの『原初の裁断刃』、ルキアの『原初の真珠針』、バルカンの『原初の鋼骨針』、大織樹の『原初の絹糸針』、カナンの『原初の金砂針』。
六つの神体は、上空の白い天蓋から降り注ぐ不気味な均質魔糸を激しく拒絶するように、七色の温かな燐光を放ってルークと仲間たちを包み込んでいた。
不完全だからこそ温かく、傷ついているからこそ強く結び合える——ルークたちの紡いできたパッチワークの意志が、帝都を覆う冷酷な漂白の波に抗っていた。
「帝都の防壁が見えてきたぞ! ……だが、正面突破は絶望的だな」
ガレットが馬車を街道沿いの丘の影へと滑り込ませた。
視線の先——帝都を囲む高さ三十メートルの白亜の外郭防壁の上空には、幾千重もの白い魔糸で編み上げられた巨大な半球状の結界ドーム——『天衣の障壁』が隙間なく展開されていた。
巨大な正門は鋼鉄の閂で固く閉ざされ、門前には、白銀の甲冑と仮面で感情を隠した数十名の紡術士たちが、槍を構えて微動だにせず警備に就いている。鳥一羽すら通さぬ完全封鎖だった。
「レイラ教官の手紙にあった、西の古代水路へ向かいましょう」
ルークの言葉に全員が力強く頷いた。
馬車を深い森の窪地に隠し、五人はフードを深く被って、城壁の西側の鬱蒼とした雑木林へと潜り込んだ。
* * *
雑木林の最深部、かつて数百年前に放棄された古代の石造り排水溝の前に辿り着いた時だった。
サァッ……
頭上の枯れ木から、風もないのに微かな金属の擦れ合う音が響いた。
瞬間、髪の毛よりも細い鋼鉄の魔糸で編まれた鋭利なワイヤーが四方八方から音もなく降り注ぎ、ルークたちの足元をミリ単位の狂いもなく完全に取り囲んだ。
「そこまでです。……合言葉を」
暗がりの中から、静かに姿を現したのは、擦り切れた黒い革のロングコートを纏い、両手に鋼の糸巻を構えた一人の女性だった。
肩口で切り揃えられた藍色の髪、夜の森の中でも研ぎ澄まされた鳶色の瞳、そして厳格でありながらも深い慈愛を秘めた佇まい。
「『繕い屋の針は、折れた糸を捨てない』」
ルークが真っ直ぐにその瞳を見つめて答えると、女性の張り詰めていた表情がふっと解け、周囲に張り巡らされていた鋼のワイヤーが一瞬で指先へと巻き取られた。
「……合格です。よくぞ無事に戻ってきましたね、ルーク」
「レイラ教官……ッ!」
ルークたちが駆け寄ると、レイラはどこか安堵したように息を吐き、教え子たちの顔を一人一人、確かめるように見つめた。
「ガレット、ヴァルド、ミーシャ、セラ……全員、以前とは見違えるほど引き締まったいい顔をしていますね。……遠く帝都の地下に潜伏していても、あなたたちがペルラ諸島で海を鎮め、極北で天蓋を支え、東方の世界樹を蘇らせ、西の砂漠で時間を繋ぎ止めた噂は届いていましたよ」
「へへっ、教官にそんな風に褒められるなんて、紡術院に入学して以来初めてだぜ!」
ガレットが照れくさそうに鼻を擦る。
レイラはルークの腰に佩かれた六本の神体を見つめ、震える手で自らの胸を押さえた。
「信じられません……本当に、失われた六本の神体をすべて集めてくるとは。……かつてステラ様が成し遂げられなかった奇跡を、あなたたちが成し遂げたのですね」
「母さんの……?」
「ええ。ステラ様もかつて、世界を繕うためにこれらの針を集めようとしていました。ですが、アーヴェル大院長の謀略によって阻まれ、最後の針を奪われてしまったのです」
「最後の針……『原初の虚無針』ですね」
ヴァルドが進み出て、硬い声で問いかけた。
レイラの表情が一気に険しいものへと変わる。
「そうです。帝都の現状は、手紙に記した以上に切迫しています。アーヴェル大院長は、紡術院の最深部——かつて初代大院長が世界の裂け目を封じた神聖な地下洞『創世の祭壇(天衣の玄室)』に立て籠もっています。そして、そこに安置されていた『原初の虚無針』を、自らの心臓の魔力核と完全に直結させました」
「虚無針を……自らの心臓に直結……!?」
ミーシャが息を呑む。
「虚無針は、万象の魔糸を一度『白紙』へと解体・還元する力を持つ神体。大院長はその力を心臓の鼓動と同調させ、帝国全土、ひいては大陸全土の魔糸を強制的に白紙化しようとしているのです。すべてを白紙に戻し、自分という唯一の神の設計図に従って、争いも不揃いもない『完璧な織物』として世界を織り直す……それが『世界大織直し』の正体です。儀式の完了予定時刻は、明日の夜明け……残された時間は、もう数時間もありません」
「帝都の生徒たちや教官たちはどうなっているの?」
セラの問いに、レイラは痛ましげに唇を噛んだ。
「大院長の均質化に抗おうとした者は、すべて地下牢へ投獄されました。私も間一髪で逃走し、地下水路に潜伏して機会を窺っていたのです。そして……残された生徒や教官たちは、天蓋からの魔糸によって心を奪われ、大院長の操り人形——『白織兵』として洗脳され、紡術院の各防衛ラインに配置されています」
「同胞同士で……殺し合いをさせようっていうのかよ……!」
ガレットが激しい怒りで拳を石壁に叩きつける。
「いいえ。殺す必要はありません」
ルークの声は、静かだったが、どんな剣よりも力強く響いた。
少年は自らの腰にある『原初の裁断刃』と『原初の金砂針』に手を添え、仲間たちを見つめた。
「僕たちには、解糸と金砂針があります。洗脳の白い糸だけを裁ち切り、時間を巻き戻して本来の心を繋ぎ直すことができるはずです。誰も殺させません。僕たちの母校を、あの温かな紡術院を取り戻します!」
「……ルーク」
レイラは息を呑み、次いで眩しいものを見るように目を細めた。
「本当に……立派な『仕立て屋』になりましたね。……分かりました。あなたたちの背中は、私が鋼の糸で護りましょう。案内します、紡術院の地下へと直結する古代の密通路へ!」
レイラを先頭に、決死の覚悟を秘めた六人は、暗い地下水路の奥へと力強く足を踏み入れた。




