第62話:エメラルド・ネストと枯れゆく世界樹
カトレアに導かれ、原生林の奥深くへと分け入った一行の眼前には、地上の常識を遥かに超越した光景が広がっていた。
「ここが……私たちの郷、『エメラルド・ネスト』よ」
カトレアが誇らしげに腕を広げたその場所は、地上から数十メートルも上空——数十本もの神話級の巨木の幹と枝を繋ぎ合わせて築かれた、息を呑むほど壮麗な樹上都市だった。
巨木の幹を螺旋状にくり抜いた階段、太い藤蔓を強靭な植物魔糸で編み上げた吊り橋が、緑の雲海のような樹冠の間を縦横無尽に結んでいる。枝の窪みには、生きた木の葉と樹皮を織り合わせたドーム状の住居が幾百と連なり、それぞれの窓辺には、淡く発光する苔のランプが柔らかな燐光を灯していた。
「すげえええっ……! 木の上に街が丸ごと乗っかってるじゃねえか!」
ガレットが吊り橋の手すりから身を乗り出し、遥か足下に広がる緑の絨毯を見下ろして叫んだ。
ミーシャも手帳を取り出し、吊り橋を編み込んでいる植物の結び目を食い入るように見つめている。
「素晴らしいです……! 釘や金具を一切使わず、生きた木の繊維同士を『接糸』の技法で結束させています! 木が成長するにつれて橋の強度も増していく……まさに自然と完全に調和した究極の紡術建築です!」
「ふふ、よく分かっているじゃない、眼鏡の娘さん」
カトレアが小さく微笑んだ。だが、その表情はすぐに引き締まる。
吊り橋を渡る一行に向けられる、住人たちの視線が決して穏やかなものではなかったからだ。
木々の窓やバルコニーから、頭部に小さな若葉の角を生やした翠織りの民たちが、息を潜めてルークたちを見下ろしていた。その手には弓や吹き矢が握られ、特にヴァルドが纏う帝都風の上等な外套を見るや、激しい敵意と恐怖の囁きが風に乗って伝わってくる。
「……カトレア様、なぜ地上の人間などを連れてこられたのだ?」
「しかも、あの男の衣服の紋章……帝都の紡術士ではないか!」
「大織樹を枯らした悪魔の手先を、神聖な郷へ招き入れるなど……!」
ざわめきが波紋のように広がり、弓の弦が軋む音が響く。
ガレットが反射的に大剣の柄に手を伸ばしかけたが、カトレアが一歩前に進み出ると、頭上の樹冠へ向けて鋭い口笛を鳴らした。
「みんな、武器を収めなさい! この方々は、私たちが警戒すべき敵ではありません! 森の下層で暴れていた『根喰らい』を……一本の若木へと繕い直し、命を救ってくださった恩人です!」
「「「なっ……!?」」」
住人たちの間に、信じられないという驚愕のどよめきが走った。
根喰らい——大織樹の病んだ根から生まれ、翠織りの戦士たちを何十人も屠ってきた凶悪な怪異を、殺すのではなく「木に戻した」などという話は、彼らの数千年の歴史の中にも存在しなかったからだ。
「マザー・オルファも、すでにお待ちよ。ついてきて」
カトレアはルークたちを促し、郷の中心にそびえ立つ、ひときわ巨大な御神木の幹へと案内した。
* * *
御神木の内部は、外観からは想像もつかないほど広大な空洞となっていた。
木の幹の内壁には、神話の時代から続く壮大な絵巻が、植物の繊維の織り分けによって緻密に描かれている。
その神聖な広間の最奥——緑色に輝く湧き水の泉の前に、一人の老巫女が静かに座していた。
老巫女は、地面に届くほど長い白銀の髪を編み込み、新緑の蔦で織られた厳かな祭服を纏っていた。両の瞼は固く閉じられており、その瞳が光を失って久しいことが窺えた。
「マザー・オルファ。外よりの客人をお連れいたしました」
カトレアが深々と膝を突き、額を床に擦りつけて報告する。
盲目の老巫女——マザー・オルファは、ゆっくりと顔を上げた。
その閉じられた瞼が、正確にルークの立つ方角へと向けられる。
「……風が、泣き止みましたね。荒れ狂っていた森の波紋が、まるで生まれたての赤子を包む揺り籠のように、静まり返っておる」
オルファの声は、掠れていながらも、大地の底鳴りのように深く、温かかった。
老巫女は杖をつきながら、震える足取りで一歩、また一歩とルークへと近づいてくる。
セラが微かに息を呑み、ルークは動かずにその歩みを受け止めた。
オルファの節くれだった手が持ち上がり、ルークの頬、そしてその右手中指に嵌められた黒ずんだ銀の指貫へと触れた。
「ああ……やはり。この、素朴で、決して威張ることのない、土と愛の温もり……千年の時を超え、再びこの森に『真の継ぎ手』が立たれたのですね」
オルファの目尻から、一筋の澄んだ涙が零れ落ち、老いた頬を濡らした。
「長老様……僕のことが分かるのですか?」
「ええ、見えますとも。わしの肉の目は光を失いましたが、心の目は、そなたが紡ぎ出す魔糸の祈りを見逃しはしませぬ。……そして、そなたの指貫に残る、あの懐かしい残り香もな」
「えっ……? 残り香……?」
ルークが目を見開く。オルファは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、優しくルークの手を包み込んだ。
「十六年前……まだわしがこの大織樹の声を若々しく聴いていた頃、一人の人間の女性がこの森を訪れました。黒髪に、澄んだ瞳を持った……ステラという名のお方でした」
「母さんが……!? 母さんが、このシルク・フォレストに来ていたんですか!?」
ルークの心臓が激しく跳ね上がった。
幼い頃に病で亡くなり、ただ村の片隅で静かに布を繕っていた記憶しかなかった母。
その母が、帝都から遥か数千キロも離れた東大陸の秘境を訪れていたというのだ。
「ええ。ステラ様は、傷ついていた大織樹の小さな綻びを、その指貫と優しい針で繕ってくださいました。そして去り際、こう仰ったのです。『私には、まだ世界をすべて救う力はない。けれどいつか……私の命を継いだ子が、壊れた世界のすべてを繋ぎ直すために、この森を訪れるでしょう』と」
オルファは深く息を吸い込み、ルークの顔を愛おしそうに見つめた。
「そなたの面影、そして何よりその魂の糸目が、ステラ様と生き写しです。ルーク殿……よくぞ、戻ってきてくださいました」
ルークは言葉を失い、自らの指貫を見つめた。
母は、ただの村の仕立て屋ではなかった。世界の崩壊を予見し、自らの命を削りながら各地の傷口を繕い、そしてその未来を、息子のルークへと託していたのだ。
隣で聞いていたセラが、そっとルークの肩に手を添え、優しく微笑みかけた。
ガレットも目頭を熱くし、ヴァルドは深く息を吐いて天を仰いでいた。
「マザー・オルファ」
ヴァルドが進み出て、静かに問いかけた。
「母君の足跡がここにあったことは奇跡だ。だが……今、この大織樹に起きている異変の真相を教えていただきたい。僕たちが森に入った際、木々の命を吸い上げる凶悪なほつれ魔獣と遭遇した。大織樹の衰弱は、単なる自然の寿命ではないはずだ」
ヴァルドの言葉に、オルファの表情が痛ましげに曇った。
「……帝都の若き公子よ。そなたの言う通りです。この森が病に侵されたのは、三ヶ月前のことでした」
オルファは重い足取りで広間の中央にある泉へと歩み寄り、水面を手で撫でた。
すると、澄んでいた水が波打ち、底に沈む巨大な樹木の幻影が浮かび上がった。
それは、樹海全土に根を張る大織樹の全貌だった。
だが——その巨大な主根の周囲に、無数の漆黒の棘のようなものが突き刺さっていた。
「あれは……何ですか!?」
ミーシャが叫ぶ。
「三ヶ月前、帝都紡術院の特務部隊を名乗る者たちが、森の結界を破って侵入してきました。奴らは、大織樹の最も神聖な主根に、金属で鋳造された巨大な杭——『魔糸抽出器』を幾本も打ち込んだのです」
「なっ……魔糸抽出器だと!?」
ヴァルドが拳を握り締め、激しい怒りを露わにした。
「父上め……! 帝都を包む天蓋の維持、そして『大織直し』とやらの儀式のために、霊峰だけでなく、この世界樹の生命力まで無理やり吸い上げていたというのか!」
「それだけではありませんでした」
カトレアが悔しげに歯を食いしばる。
「杭を打ち込まれた主根の傷口から……見たこともないどす黒い魔糸が森の血管へと逆流し始めたの。帝都の連中が去った後、傷口は腐り果て、世界樹の心臓部——五本目の神体『原初の絹糸針』が祀られている最深部の洞が、巨大な悪夢に呑み込まれてしまったのよ」
「巨大な悪夢……?」
ルークが問うと、オルファが水面を指差した。
水中の幻影が切り替わり、大織樹の胎内——樹液が川のように流れる巨大な空洞の映像が映し出された。
その中心には、巨大な紫黒色の繭が脈打っていた。
繭の表面からは何万本もの腐った毒糸が伸び、世界樹の心臓であるエメラルドの核を、蜘蛛の巣のように締め上げている。
「あれは……『深淵の繭怪異——シルク・コクーン』。大織樹の傷口から湧き出たほつれの母体です。あの怪異が『原初の絹糸針』に寄生し、針が紡ぎ出すはずの生命の魔糸を、すべて腐食の毒糸へと変えさせているのです」
オルファの声が震えた。
「このままでは、あと数日で大織樹の心臓は完全に壊死し、シルク・フォレストは枯れ果てます。世界樹が死ねば、東大陸全体の気候が崩壊し、大陸の東半分が不毛の荒野へと変わってしまうでしょう……」
重苦しい沈黙が広間を支配した。
帝都が犯した傲慢のツケが、今まさに東大陸の数百万の命を奪おうとしているのだ。
「ルーク殿。そなたに頼むのは、あまりにも過酷な試練です。あの繭は、大織樹の生命力そのものを盾にしており、外からの攻撃では世界樹ごと破壊してしまう。……繭を殺さず、寄生された毒の魔糸だけを解きほぐし、神体『絹糸針』を救い出すことなど……神話の織り手でも不可能に近い」
「いいえ」
ルークの声は、静かだったが、微塵の迷いもなかった。
少年は一歩前に進み出ると、深々とオルファに一礼した。
「やらせてください、マザー・オルファ。母さんが守ろうとしたこの森を、絶対に枯らさせはしません。それに……僕には、世界で一番頼りになる仲間たちがいます」
ルークが振り返ると、そこには力強く微笑む仲間たちの姿があった。
「へっ、ここまで来て退がれるかよ! 樹の心臓だろうが何だろうが、俺の炎で道を切り拓いてやるぜ!」
「父の犯した罪を清算するのは僕の義務だ。雷の力、すべてルークに預ける」
「ルークさん、大織樹の繊維構造のデータは完璧に頭に入っています! 最短ルートをナビゲートします!」
「ルーク。……あなたの針を、絶対に毒糸に触れさせはしないわ。氷の盾で、あなたを守り抜く」
四人の言葉に、ルークの瞳が温かく潤んだ。
自分は一人ではない。母の願いを継ぎ、仲間たちと共に、壊れた世界を繕うためにここにいるのだ。
「……おお……」
マザー・オルファは胸を打たれ、泉の底から一筋の澄んだ翠緑の光を取り出した。
それは、大織樹が数千年の歳月をかけて生み出した、生命の雫——『翠露の魔糸』の束だった。
「これをお持ちなさい。大織樹の最も清らかな純粋魔糸です。そなたの『継ぎ接ぎ』にこの糸を交えれば、世界樹の細胞を傷つけることなく、深部へと潜ることができるでしょう」
「ありがとうございます!」
ルークは翠露の魔糸を恭しく受け取り、自らの指貫へと結びつけた。
指貫が心地よい共鳴音を響かせ、エメラルド色の光の粒子がルークの全身を淡く包み込む。
「カトレア、そなたが案内役を務めなさい。大織樹の胎内へ至る『樹液の回廊』は複雑怪奇。そなたの弓と森の勘が必要じゃ」
「はい、マザー! 命に代えても、ルーク様たちを心臓部へお連れします!」
カトレアが力強く返答し、長弓を背負い直した。
大織樹の最深部、毒糸に締め上げられた五本目の神体『原初の絹糸針』。
母の足跡が眠る世界樹の心臓へ向けて、少年少女たちの次なる戦いが、今まさに始まろうとしていた。




