第61話:翠緑の機織り森
白銀の雪原と氷壁が支配していた極北の地を抜け、一行が乗る魔導馬車が東大陸の国境関所を越えた時、吹き抜ける風の香りは劇的に変化していた。
乾いて鼻腔を刺すような凍てつく冷気は消え失せ、代わりに漂ってきたのは、しっとりとした土の温もりと、青々とした若葉、そして古代の樹液が醸し出す甘やかな芳香だった。
「うわぁ……! 見てくださいルークさん、森の木々が……あんなにも巨大です!」
馬車の窓から身を乗り出したミーシャが、丸いメガネの奥の瞳をキラキラと輝かせながら歓声を上げた。
視線の先——地平線の彼方に広がっていたのは、緑の絨毯などという生易しい表現では到底言い表せない、圧倒的な質量を持った緑の巨壁だった。
一本一本の巨木が、まるで帝都の大聖堂の尖塔に匹敵するほどの太さと高さを誇り、幾重にも重なり合った枝葉が天を覆い尽くしている。木々の間には幾千筋もの木漏れ日がカーテンのように差し込み、幻想的な翠緑の燐光を宙に散らしていた。
「あそこが……『原初の樹海——シルク・フォレスト』か」
御者台で手綱を握っていたガレットが、息を呑んで巨木群を見上げた。
その隣で腕を組んでいたヴァルドも、金髪を微風に揺らしながら瞳を細める。
「噂には聞いていたが、想像以上だな。神話の時代、原初の紡ぎ手が世界の大地に最初の縦糸を通した場所……その生命力そのものが、数千年の時を経てこれほどまでに巨大な樹海を育んだというわけか」
「ええ。ですが……ただ美しいだけではないわ」
車内からルークの隣に座るセラが、静かに窓の外を見つめながら口を開いた。
その透き通った銀色の瞳には、すでに警戒の色が宿っている。
「風の匂いに、微かな腐臭が混じっている。……極北の天蓋で嗅いだ、あのほつれの臭いよ。木々の葉の先が、ところどころ黒ずんで縮れているわ」
「うん……僕の目にも見えているよ」
ルークは左目を軽く瞬かせた。
金銀のオッドアイの視界において、眼前に広がるシルク・フォレストは、無数の緑色と黄金色の植物の魔糸が編み上げられた、巨大で壮麗な『生きた織物』として映し出されていた。大地から吸い上げられた魔力が、幹を伝って枝葉へと循環し、美しい循環の波紋を描いている。
だが——その循環のあちこちに、どす黒く濁った紫緑色の「ほつれの瘤」がこびりつき、木々の命の糸をじわじわと食い千切っていた。
「森の呼吸が、苦しそうに乱れている。……ミーシャ、大織樹はどのあたりにあるの?」
「古代の地図によれば、この樹海の中心部……原生林の最も深い窪地に根を張っているはずです。ですが、そこへ至る道は古代の部族『翠織り(エメラルド・ウィーバー)』によって固く封鎖されていると言われています。馬車で行けるのはここまでですね」
馬車を森の入り口の開けた草地に停め、旅装を整えた五人は、いよいよシルク・フォレストの内部へと足を踏み入れた。
* * *
一歩樹海の中へと踏み込むと、頭上を完全に覆い尽くす樹冠によって外の光は遮られ、まるで深い水底に潜り込んだかのような薄暗い翠緑の静寂が広がっていた。
足下は幾重にも重なった腐葉土と苔でふかふかと柔らかく、踏みしめるたびに微かな湿り気と魔力の粒子が立ち上る。巨木の根は人の背丈よりも高く隆起し、天然の回廊や橋となって縦横無尽にうねっていた。
「すげえな……木陰に入った途端、音が一気に吸い込まれちまったみたいだ。自分の心臓の音まで聞こえてきそうだぜ」
ガレットが腰の大剣に手を添えながら、あたりを鋭く見回す。
ミーシャは手帳を開き、周囲の植物の葉脈を観察しながら小走りでついていく。
「気をつけてください、ガレットさん。シルク・フォレストの木々はそれ自体が防衛本能を持っています。『蔦織り(アイビー・ウィーブ)』と呼ばれる自生植物は、侵入者の魔力に反応して足首を絡め取ると言われていますから」
「へっ、そんな草っぱら、俺の炎の魔糸で一瞬で焼き払って——うわっ!?」
豪語した瞬間、ガレットの足下の地面から、太い蛇のような青黒い蔓がバネのように跳ね上がり、ガレットの右足首へと目にも留まらぬ速さで巻き付いた。
蔓の表面には鋭い棘がびっしりと生え、ガレットの頑丈な革靴の隙間から締め上げようとする。
「ちょ、おい! 本当に絡みついてきやがった! 燃やしてやる——」
「待って、ガレット! 燃やしちゃダメだ!」
ルークが瞬時に制止の声を上げ、右手を虚空に走らせた。
中指の『原初の指貫』が鋭く光り、ルークの指先から極細の銀色の魔糸が撃ち出される。
「この蔦は、ほつれに侵食されてパニックを起こしているだけです! 根元の緊張を緩めてあげるだけでいい——『解糸』ッ!」
ピシッ、と空気が鳴った。
ルークの放った銀糸が、蔓の結節点にある魔力の滞留箇所をピンポイントで突いた。
すると、硬直して鉄のように固くなっていた蔓が、ため息をつくようにふわりと力を抜き、ガレットの足からスルスルと解け落ちて地面へと戻っていった。
「ふぅ……助かったぜ、ルーク。危うく森ごとバーベキューにするところだった」
「森の魔術に対して破壊の力を使うのは下策よ。木々の怒りを買えば、樹海全体が敵に回るわ」
セラが静かに告げ、掌から微かな冷気を放って周囲の足場を固める。
だが、その時だった。
サァッ……
頭上の枝葉が、風もないのに不自然に揺れた。
ヴァルドの全身からバチッと鋭い紫電が弾け、青年の視線が一気に上方へと跳ね上がる。
「伏せろッ!!」
ヒュンッ! ヒュンヒュンヒュンッ!!
大気を切り裂く鋭利な飛翔音が四方八方から木霊した。
次の瞬間、樹冠の濃密な影から、緑色に輝く無数の矢が雨のように降り注いできたのだ。
ただの木や鉄の矢ではない。樹木の繊維と強靭な植物魔糸を幾重にも編み込み、高速回転によって風の刃を纏わせた、必殺の魔導矢だった。
「『氷壁演武・六花盾』ッ!」
セラの鋭い詠唱と共に、五人の頭上に六角形の氷の結晶盾が傘のように展開された。
ガガガガガッ!!
激しい衝突音と共に氷の破片が飛び散る。矢はセラの氷壁を数ミリメートル穿ち、凄まじい衝撃を伝えて止まった。
「くっ……! なんて重い矢なの……! 一本一本に、森の重量そのものが込められているわ!」
「どこから撃ってきてやがる!? 姿が見えねえぞ!」
ガレットが大剣を引き抜き、炎を纏わせようとする。
だが、それよりも早く、頭上の巨木の枝から、鈴を転がすような、しかし氷のように冷ややかな少女の声が響き渡った。
「そこまでよ。帝都の薄汚い紡術士ども」
ザッ、と軽やかな着地音。
ルークたちの前方十メートル、苔むした巨大な木の根の上に、一人の少女が音もなく舞い降りていた。
年はルークやセラと同じ、十五、六歳ほどだろうか。
日に焼けた健康的な小麦色の肌に、木漏れ日をそのまま織り込んだかのような鮮やかな深緑色の長髪。身に纏っているのは、樹皮と野獣の革、そして光沢のある植物の繊維を巧みに縫い合わせた、森の狩人の装束だった。
その背丈ほどもある長弓の弦には、すでに二本の緑の矢がつがえられ、寸分の狂いもなくルークの眉心を捉えている。
そして何より特徴的だったのは、彼女の頭部——両耳のあたりから、小さな若葉のような形をした愛らしい角が覗いていることだった。
「樹海を守護する古代の民……『翠織り』の末裔……!」
ミーシャが息を呑んで呟く。
少女の周囲には、樹上から音もなく現れた十数名の狩人たちが弓を構え、完全な包囲網を敷いていた。
「それ以上一歩でも足を踏み出せば、その喉笛を風の針で縫い留めるわ。……帝都の紡術院の連中が、何をしにこのシルク・フォレストへ来たの? また大織樹の繊維を強奪し、私たちの森を『完璧な織物』とやらの実験台にするつもり!?」
少女の若草色の双眸には、剥き出しの憎悪と、それ以上に深い警戒心が宿っていた。
「待ってください! 僕たちは帝都の紡術院の差し金じゃありません!」
ルークは両手を広げ、武器を持っていないことを示しながら一歩前に出た。
「僕の名前はルーク! 帝都の紡術院の横暴を止め、世界中に広がっている『ほつれ』を修繕するために旅をしているんです! あなたたちの森を傷つけるつもりなんて、絶対にありません!」
「黙りなさい、口先だけのペテン師!」
少女はルークの言葉を一蹴した。
「帝都の人間はいつもそうやって甘言を弄して私たちを騙してきた! 『世界の調和のため』と言って森の神域へ土足で踏み込み、大織樹の霊脈を勝手に切り刻んで帝都へ持ち去った! そのせいで……そのせいで、森は今、取り返しのつかない病に侵されているのよ!」
少女の叫びには、森を愛するがゆえの悲痛な血が滲んでいた。
その時、ヴァルドが一歩前に出て、静かに名乗りを上げた。
「……僕はヴァルド・クレイン。かつて帝都紡術院の大院長を務めていたアーヴェル・クレインの息子だ」
「なっ……大院長の息子ですって!?」
狩人たちの間に激震が走り、弓を引き絞る軋み音が一層鋭くなった。
「やはり敵だ! 森を荒らした張本人の血筋ではないか!」
「待て、話を聞け」
ヴァルドは眉一つ動かさず、毅然とした声で森の戦士たちを見据えた。
「僕が父の犯した罪を否定するつもりはない。帝都が『完璧な織り』を至高と信じ込み、自然の理を無視して各地の魔力を搾取してきたのは事実だ。だが……だからこそ、僕は父の道と決別した。この少年、ルークと共に、父が壊した世界の傷口を繕うためにここへ来たんだ。それは信じてほしい」
「信じるですって……? そんな言葉、どうやって信じろというのよ!」
少女の指先が、弓弦を限界まで引き絞る。
張り詰めた空気が爆発寸前まで達した——その瞬間だった。
ズズズズズズズズズッ……!!
地鳴りのような重い振動が、足下の腐葉土を大きく波打たせた。
ただの地震ではない。
ドロリとした悪意に満ちた魔力が、地下深くから急速に噴き上がってくる。
「な、何事だ!?」
「地下から何かが……!?」
狩人たちが動揺して樹上を見下ろす中、ルークの左目が激しく疼いた。
足下の土壌の中に張り巡らされていた無数の木の根が、真っ黒に変色し、苦悶の叫びを上げているのが見えたのだ。
「危ないッ! みんな、その場から離れてッ!!」
ルークの叫びと同時に、少女の足元の巨木の根が、凄まじい轟音と共に爆発した。
ドガァァァァァンッ!!
吹き飛ぶ土砂と木片の中から姿を現したのは、見るもおぞましい巨大な異形の怪物だった。
体長は十メートルを超え、全身が樹皮と腐った蔦で覆われている。だが、その頭部には無数の紫黒色の触手が蠢き、胴体の中央には、ドクドクと不気味に拍動する巨大な『ほつれの核』が埋め込まれていた。
「グギャァァァァァァァッ!!」
大気を震わせる絶叫。
それは、大織樹の枯死しかけた根に寄生し、森の生命力を吸い上げて肥大化した、樹海の悪夢——『寄生樹獣』だった。
「しまっ……『根喰らい』が現れた!?」
少女が体勢を崩しながらも空中で身を翻し、即座に矢を放った。
「『翠風の穿孔針』ッ!」
風を纏った緑の矢が、怪物の胸元へと突き刺さる。
しかし——カチンッ、と鈍い音が響き、矢は怪物の体表を覆う黒い魔糸に触れた瞬間、腐食するようにボロボロと解けて宙に散ってしまった。
「なっ……!? 私の矢の魔糸が……解かれた!?」
「グオォォォッ!!」
怪物は痛痒も感じぬ様子で巨大な樹皮の腕を振り上げ、体勢を崩して着地した少女へと、容赦なく叩きつけようと振り下ろした。
逃げ場はない。直撃すれば、一溜まりもなく圧殺される。
「カトレア様っ!!」
仲間の狩人たちの悲鳴が響き渡る。
だが、その破滅の一撃が少女に届くことはなかった。
キィィィィィンッ!!
「……させないわよッ!」
セラの鋭い声と共に、厚さ三十センチを超える白銀の氷柱が斜めに大地から突き出し、怪物の巨大な腕を寸前で受け止めたのだ。
氷の表面に激しい亀裂が走るが、完全には砕けない。
「な……氷の壁……!?」
「呆けている暇があるなら、退がりなさい! ガレット!」
「おうよッ! 『炎刃・薙ぎ払い《ブレイズ・スラッシュ》』ッ!!」
ガレットが巨躯を躍動させ、大剣に宿した猛烈な紅蓮の炎で怪物の触手を一刀両断する。ジュウッと肉の焦げるような異臭が漂い、怪物が苦悶の声を上げて後退した。
「あなたたち……なぜ私たちを助けるの……!?」
呆然と立ち尽くす少女——カトレアの前に、ルークが静かに歩み出た。
その瞳は、冷静に怪物の全身の『糸目』を見定めていた。
「助けるのは当然です。それと……カトレアさん、あなたの矢が効かなかったのは、腕前のせいじゃありません」
ルークは指貫を光らせ、怪物の中央で蠢く紫黒色の核を指差した。
「あの怪物は、大織樹の根から吸い上げた植物の魔糸を、外側の『ほつれの魔糸』で逆回転にねじ曲げて鎧にしています。だから、同じ植物の魔術をぶつけると、魔糸の位相が狂わされて一方的に解体されてしまうんです」
「魔糸の……位相……? そんなことまで見えるというの……?」
「はい。見えます」
ルークは胸のポケットから、シグルドから託された『白銀の留め針』を取り出し、左手に握りしめた。
そして右手を天へと掲げる。
「森の命の糸を、あんな風に乱暴にねじ曲げちゃいけない。……元の正しい織り目に戻して、森に返してあげます!」
ルークの全身から、金と銀の魔糸が奔流となって噴き上がった。
その神聖な輝きに、カトレアをはじめとする翠織りの戦士たちは、息を呑んで立ちすくんだ。
帝都の紡術士たちが誇る「白く均一な魔力」とはまるで違う。
そこにあるのは、森の木々や風、大地、そして人々の心に寄り添うような、温かく力強い、万象を繋ぐ光だった。
「『解糸』——ねじ曲げられた植物の結び目を解き放て!」
ルークの放った銀糸が、怪物の全身を網のように包み込んだ。
怪物の表面で高速回転していた紫黒色のほつれの魔糸が、ルークの繊細な解糸によって一本、また一本と強制的に停止させられ、結び目がスルスルと解かれていく。
「グガッ……!? ギャァァァッ!?」
鎧を奪われた怪物がパニックを起こして暴れ狂う。
「ヴァルドさん、核の周りの毒気を吹き飛ばしてください!」
「任せろ! 『雷槍・紫電一閃』ッ!」
ヴァルドの手から放たれた極小・超高速の雷光が、怪物の紫黒色の触手だけを的確に焼き切る。
「今です、ルークさん!」
ミーシャの記述魔術の光文字が怪物の足元を取り囲み、その動きを完全に封じ込めた。
「母さんの形見、ギルフォードさんの刃、ルキアさんの針、バルカン巨匠の骨……そしてシグルドさんの留め針! みんなの力を借ります!」
ルークは宙へと跳び上がった。
右手の指貫から繰り出された七色の魔糸が、怪物の胸元に露出した巨大な『ほつれの核』を貫く。
だが、ルークは核を破壊しなかった。
核に絡みついていた「病んだ植物の糸」を、丁寧に、優しく、本来の自然の循環の糸へと縫い直していったのだ。
「『原初縫合・翠緑の蘇生縫い《リバース・パッチワーク》』ッ!!!!」
パチンッ! カチィィィンッ!
美しい金属音が、樹海の大気を清らかに震わせた。
次の瞬間、怪物の全身から吹き荒れていた紫黒色の毒気が一気に浄化され、眩いエメラルドグリーンの光の粒子となって森全体へと降り注いだ。
怪物を構成していた腐った蔦や樹皮は、みるみるうちに瑞々しい若葉へと生まれ変わり、巨大な怪物の肉体は、一本の美しい新緑の若木となって、静かに大地へと根を下ろした。
「怪物を……殺さずに……木に戻した……?」
カトレアは弓を取り落とし、震える手でその若木に触れた。
そこからは、温かく穏やかな、森本来の清らかな生命の脈動がトクトクと伝わってきた。
「森の命を奪う必要なんてありません。ほつれを直せば、世界はちゃんと元の居場所へ帰れるんです」
静かに着地したルークが、息を整えながら微笑んだ。
「……信じられない」
カトレアはルークを見つめ、次いでその仲間たちを見渡した。
氷の令嬢は穏やかな顔でルークに駆け寄り、赤髪の剣士は豪快に笑い、金髪の貴公子は静かに頷き、眼鏡の少女は熱心に手帳へ記録を走らせている。
そこにあるのは、侵略者でも略奪者でもない。
ただひたすらに、傷ついた世界を救おうとする者たちの姿だった。
「あなたたちは……一体、何者なの……?」
「仕立て屋です」
ルークは胸の指貫を掲げ、真っ直ぐに答えた。
「壊れた世界の織物を繕う……ただの、仕立て屋です」
カトレアは深く息を吐き、静かに頭を垂れた。
「……失礼な非礼を許してほしい。あなたたちの力は、帝都の支配の魔術などではない。……大昔、私たちの先祖が語り継いでいた『原初の継ぎ手』そのものだわ」
カトレアは顔を上げ、真剣な眼差しでルークたちを見据えた。
「案内するわ。私たちの隠れ里……『エメラルド・ネスト』へ。大織樹の異変を止めるには、あなたたちの針が必要よ」
疑念の氷は解け、新たな絆の糸が結ばれた。
五本目の遺物が待つ世界樹の深奥へ向けて、ルークたちの足跡は、瑞々しい樹海の小道へと刻まれていく。




