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魔術の"出来損ない"と呼ばれた少年は、壊れた世界を繋ぐ唯一の【継ぎ手(リンカー)】でした  作者: 六井求真


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第60話:オーロラの下の誓い

極北の霊峰エターナル・ピークを包み込んでいた数千年来の猛吹雪は、まるで嘘のように晴れ渡っていた。

 天蓋の裂け目がルークの『原初の鋼骨針』と七色の魔糸(まし)によって完全に縫い留められたことで、吹き荒れていた極低温のほつれ(アンレイヴ)の嵐は消滅し、霊峰の中腹に築かれた鋼織りの砦には、数十代ぶりに穏やかな朝の光が降り注いでいた。


「戻られたぞ! ルーク様とシグルド様が、霊峰の天蓋を直して戻られたぞッ!」


 砦の見張り台から響き渡った叫び声を合図に、厚い鉄の城門が軋んだ音を立てて左右に開かれた。

 待ち構えていた鋼織りの民たちが、雪崩を打つように広場へと駆け出してくる。毛皮を纏った男たち、子供を抱いた女たち、そして傷を負って砦に残っていた老兵たち——その誰もが、信じられないものを見るかのように空を見上げ、次いでルークたちを囲んで歓喜の涙を流していた。


「見てみろ、あの空を……! 氷の刃のような黒雲が、跡形もなく消えている……!」

「何百年も砦を脅かしていた吹雪が止んだ! 太陽の光が……こんなにも暖かいなんて!」

「長老! 伝説は真実でした! 『継ぎ手』が、本当に世界の骨を繋いでくださったのです!」


 広場の中央で杖をついて待っていた長老バロルは、白銀に輝く天蓋と、仲間たちに支えられながら歩み寄るルークの姿を交互に見つめると、大粒の涙をその深い皺に刻まれた頬に伝わせ、雪の上に深々と跪いた。


「……おお、おお……神代の奇跡を、この老いた両目で拝むことができるとは……ルーク殿、そして異郷の若き英雄たちよ。鋼織りの一族を代表し、心よりの感謝と敬意を捧げます。あなた方は、我らの凍てついた命を救ってくださった」


「ば、バロル長老、頭を上げてください! 僕一人の力じゃありません。シグルドさんが道を切り拓いてくれて、セラさんやガレット、ヴァルドさん、ミーシャ……みんなの糸が一つに合わさったから、天蓋の骨組みを縫い止めることができたんです」


 ルークが慌てて駆け寄り、老人の骨太な手を両手で包み込んで立たせようとする。

 その謙虚な物腰に、鋼織りの頑強な戦士たちは口々に感嘆の声を漏らし、シグルドは誇らしげに豪快な笑声を雪原に響かせた。


「はははっ! 相変わらず謙虚だな、ルーク! だが長老、ルークの言う通りだ。俺たちの鋼の魔術は、誰かを拒み、寒さに耐えるためだけに固く閉ざされていた。それを解きほぐし、温かな布として繋ぎ直してくれたのは、この少年の手だ。……今宵は砦を挙げての宴としようではないか! 極北の夜を、太陽よりも熱く燃え上がらせるんだ!」


「「「うおおおおおおおおっ!!」」」


 砦全体を揺るがすような怒濤の歓声が巻き起こり、過酷な防衛戦を生き延びた戦士たちの笑顔が、銀世界の砦いっぱいに弾けた。


     * * *


 その夜、鋼織りの砦の大広間では、開闢以来初となる規模の大祝宴が執り行われていた。


 石造りの頑丈な大広間の中央には、巨大な暖炉が三基据えられ、極北特産の松の薪がパチパチと爆ぜながら、心地よい赤褐色の炎を噴き上げている。

 長テーブルの上には、極北の雪羊の丸焼きや、分厚い干し肉と根菜を煮込んだ香草シチュー、凍結させた果実を溶かして造られた黄金色の発泡酒、そして焼き立ての黒麦パンが所狭しと並べられていた。


「おいおいおいっ! このシチュー、めちゃくちゃ美味いぞ! 肉がホロホロに解けて、香草のピリッとした辛みが腹の底からカッと熱くしてくれるぜ!」


 ガレットはすでに三杯目の大皿を抱え込み、山盛りのシチューをスプーンで豪快にかき込んでは、木樽から注がれた発泡酒をぐびぐびと喉を鳴らして飲み干していた。その豪快な食べっぷりに、周囲の鋼織りの男たちも大喜びで杯を掲げる。


「いい食いっぷりだ、赤髪の坊主! そいつは雪羊の脛肉を三日間コトコト煮込んだ砦自慢の逸品よ! まだまだ樽はあるぞ、遠慮なく腹に詰め込め!」


「おうよ! 戦いの後の飯ほど美味いもんはねえからな! ヴァルド、お前ももっと食えよ! さっきからパンをちびちび齧ってばかりじゃねえか!」


「……僕は君のように無作法に胃袋へ詰め込む趣味はない。だが……確かにこの料理は美味いな。極北の冷気で引き締まった肉の旨味と、塩加減が絶妙だ」


 ヴァルドは苦笑混じりにグラスを傾けながらも、どこか穏やかな笑みを浮かべていた。かつて紡術院で眉間に皺を寄せていた傲岸な貴公子の面影はすっかり薄れ、過酷な死線を共に乗り越えた仲間としての自然な寛ぎがその横顔に宿っている。


 その隣では、ミーシャが分厚い羊皮紙のノートを広げ、暖炉の火にメガネを光らせながら猛烈な勢いでペンを走らせていた。


「ミーシャ、せっかくのご馳走なんだから、少しはペンを置いたらどうだ?」


「ふふっ、ダメですよルークさん! この砦に残されている壁画の記述、そしてバロル長老から聞き取った極北の口承詩……これらは帝都の紡術院にも存在しない、超一級の歴史的資料なんです! 『原初の巨匠バルカンは、空の骨を鍛え、大地の背骨を打ち込み、世界を強靭ならしめた』……まさに、ルークさんが修繕した天蓋の構造そのものです!」


 ミーシャは興奮で頬を上気させ、一口だけ果実酒を舐めては、再びカリカリとペンを走らせる。


「それに……四本目の遺物『原初の鋼骨針』が修繕されたことで、各地の結節点から伝わってくる波動の解析が、劇的に進んだんです。五本目の遺物が眠る場所の糸口が、もうすぐ完全に特定できそうなんですよ!」


「本当かい、ミーシャ?」


「はい! 宴が終わったら、詳しい分析結果を皆さんにお伝えしますね!」


 ルークは嬉しそうに頷くと、自らの胸元に手を当てた。

 そこには、母ステラの形見である『原初の指貫』、ギルフォードから託された『原初の裁断刃』、南大陸のペルラ諸島で授かった『原初の真珠針』、そして先ほど霊峰の天蓋を貫いて天の骨を縫い留めた白銀の針——『原初の鋼骨針』が、互いに共鳴し合うように淡い温もりを放っていた。


 四本の遺物。

 かつて出来損ないと呼ばれ、村の納屋で一人ボロ布を縫い合わせていた少年が、今や世界の四分の一以上の傷口を塞ぎ、人々の命を繋いできたのだ。

 だが、ルークの心にあるのは誇りや傲慢ではなく、ただ「間に合ってよかった」という静かな安堵だった。


「ルーク殿、少々よろしいかな」


 声をかけてきたのは、バロル長老と数人の砦の住民たちだった。

 手には、長年の吹雪と魔物との戦いでボロボロにほつれた防寒用の毛皮外套や、刃こぼれして魔糸の通りが悪くなった鋼の作業具が抱えられている。


「厚かましいお願いであることは重々承知しておるのだが……もし差し支えなければ、砦の者たちの道具や衣類を、そなたの『継ぎ接ぎ』で見繕っていただけぬだろうか。天蓋を救っていただいた上に、このような細々とした頼み事をするなど恥じ入るばかりなのだが……砦の寒さは和らいだとはいえ、冬を越すための装備が底をついておりましてな」


「頼む、ルーク様! この毛皮の外套は亡き父の形見なんだが、ほつれが酷くて袖を通せなくなっちまったんだ!」

「私の機織り機の鋼の針も、魔力詰まりを起こして折れかけていて……!」


 申し訳なさそうに身を縮こまらせる村人たちを見て、ルークの顔にパッと明るい笑みが広がった。


「もちろんです! 喜んでやらせてください! 僕はもともと仕立て屋の端くれですから、こういう手仕事が一番落ち着くんです」


 ルークは席を立ち、指貫を右手中指にはめ直すと、テーブルの端に小さな作業場を作った。

 左目の金銀の虹彩が微かに煌めき、差し出された外套や道具の魔糸の「糸目」を瞬時に読み取る。


「この外套は、獣皮の繊維の繋ぎ目に冷気の魔糸が絡みついて固くなっていますね。ここを少し解いて……それから、ガレットの炎の魔糸をひと針だけ混ぜて縫い合わせれば、ずっと暖かくなりますよ」


 シャッ、シュッ、トン。

 心地よい針音が鳴り響く。

 ルークの指先から紡ぎ出された金色の魔糸が、傷んだ毛皮の裂け目を優しく包み込み、まるで新品のようにふんわりと柔らかく繋ぎ合わせていく。


「す、すげえ……! 触っただけで指先がポカポカする! 父さんの外套が、前よりずっと温かくなった!」


「こちらの機織り機の針は、鋼の結晶配列が少し疲弊しているだけです。シグルドさんの砦の鋼糸を少しお借りして、骨組みを補強しますね——『接糸』!」


 カチリ、と澄んだ金属音が鳴り、鈍く曇っていた鋼の針が、朝日のような輝きを取り戻した。


「直った……! 魔力の通りが嘘みたいに滑らかだわ! ありがとう、仕立て屋のルーク様!」


 次から次へと持ち込まれる破れ外套、欠けた長靴、歪んだ手袋、緩んだベルト。

 ルークは嫌な顔一つせず、一人一人の話に耳を傾けながら、丁寧に、真心を込めてそれらを繕っていった。

 その姿は、神話の英雄というよりも、下町の片隅で誰かの日常をそっと支える、心優しい本物の「仕立て屋」そのものだった。


「……ふふっ。あの子ったら、あんな大仕事を成し遂げた直後だというのに、本当に繕い物が好きなのね」


 暖炉の傍らで、静かに果実水を口に含んでいたセラが、柔らかく目を細めて呟いた。

 その隣に、木樽の酒を持ったシグルドが腰を下ろす。


「どうやら、噂通りの少年だったな、セラの嬢ちゃん。……最初は、帝都から来た温室育ちの子供たちが世界を救うなどと、到底信じられなかった。だが、あの少年は違う。力を見せつけるためではなく、ただ目の前にある『壊れたもの』を見捨てられないから、針を執っている」


「ええ……彼は最初からそうでした。紡術院で誰もが『完璧な織り』を競い合っていた時も、彼だけは、捨てられた端切れや、ほつれた誰かの心を拾い集めていた」


 セラは自らの胸元にそっと触れた。

 かつて冷徹に凍りつき、誰にも触れさせまいと閉ざしていた彼女の心。その歪みを「完璧じゃなくても美しい」と解きほぐし、温かな糸で繋ぎ直してくれたのが、あの少年だった。


「シグルド殿、あなたの鋼織りも素晴らしかったわ。氷と鋼……頑なになりがちな私たちの魔術が、あんなにも雄大に世界を支えることができるなんて、私自身、今日初めて知った気がするの」


「よしてくれ。俺はただ、意地を張って死のうとしていた愚か者だ。それを叩き直してくれたのは、あんたの氷であり、ガレットの炎であり、ルークの針だ。……嬢ちゃん、あいつを頼んだぞ。あの少年の背負っている運命は、あまりにも重い。あいつ自身が綻びてしまいそうになった時、支えてやれるのは……あんたしかいない」


「……ええ。分かっているわ」


 セラは静かに頷き、ルークの楽しげな横顔を見つめながら、その銀色の瞳に決意の光を宿したのだった。


     * * *


 宴が夜更けを迎え、砦の戦士たちが心地よい酔いの中で雑魚寝を始めた頃。

 ルークは熱気配の残る大広間を抜け出し、砦の最上階にある見晴らし台のバルコニーへと一人足を運んでいた。


 ひんやりとした夜気が、火照った頬を心地よく撫でる。

 だが、肌を刺すような極北特有の殺人的な冷たさは、もうどこにもなかった。

 見上げれば——そこには、言葉を失うほどの絶景が広がっていた。


「……綺麗だなぁ……」


 ルークの口から、感嘆の息が白く零れた。

 満天の星々を背景に、修繕されたばかりの北の天蓋を、巨大な光の織物が覆い尽くしていた。

 エメラルドグリーン、白銀、淡い菫色、そして柔らかな黄金色。

 幾重にも重なり合う光の帯が、まるで生き物のように夜空を優雅に揺らめいている。

 それは、ルークが縫い合わせた万象の魔糸と、巨匠バルカンの鋼の骨組みが、世界の息吹と溶け合って生み出した奇跡——パッチワークのオーロラだった。


「一人で抜け出すなんて、ずるいわよ。ルーク」


 背後から、衣擦れの音と共に澄んだ声が届いた。

 振り返ると、銀髪を夜風になびかせたセラが、白い毛皮のショールを羽織って静かに歩み寄ってくるところだった。


「あ……セラさん。起こしちゃいましたか?」


「いいえ。大広間の男たちのいびきが凄まじくて、とても眠れそうになかったのよ。……特にガレット。あの人、熊のように大きな音で寝息を立てているわ」


「あはは、ガレットは昔からそうなんです。お腹いっぱい食べて安心すると、どこでも丸太みたいに眠っちゃうんですよ」


 二人は顔を見合わせて小さく笑い合った。

 セラはルークの隣に並び、石造りの手すりに両手を預けて、静かに夜空を見上げた。

 オーロラの淡い光が、彼女の白磁のような横顔と透き通るような銀髪を、幻想的に照らし出している。


「……本当に、息を呑むほど美しい空ね」


「はい。僕、こんなに広くて綺麗な空を見たの、生まれて初めてです。……僕の生まれた村の空は、いつも狭くて、灰色で……いつ『ほつれ』に呑み込まれるか分からなくて、怖かった。でも、この世界は……こんなにも美しかったんですね」


「ええ。この美しさを取り戻したのは、あなたよ。ルーク」


 セラがそっとルークの方を向き直った。

 その瞳は、霊峰を登る前よりも、ずっと深く、温かな光を湛えていた。


「ねえ、ルーク。霊峰の天頂で、巨神の魔糸と対峙した時……私、本当は少し怖かったの」


「セラさんが……ですか?」


「ええ。私の氷織りは、かつて家督を継ぐためだけに鍛え上げた、他人を拒絶するための冷たい刃だったわ。『完璧でなければ価値がない』と自分を追い詰めて、誰の助けも拒んで……でも、今日あの天頂で、あなたの針が私の氷を包み込んでくれた時、私、生まれて初めて感じたの。『誰かと繋がる温かさ』を」


 セラは自らの右手を胸に当て、静かに言葉を紡ぐ。


「私の氷は、もう誰かを傷つけるための孤独な氷じゃない。あなたの縫い目を守り、壊れそうな世界を固めて支えるための氷なの。……ルーク、あなたの隣にいるとね、私の氷はちっとも冷たくないのよ。むしろ、胸の奥が熱くなるくらい」


「セラさん……」


 ルークの胸が、トクンと跳ねた。

 かつて紡術院の講堂で、氷のように冷たい視線を向けていた令嬢が、今はこれほどまでに近くで、自らの弱さと温もりを打ち明けてくれている。


「僕の方こそ、セラさんがいなかったら、とっくに心が折れていました。巨神の攻撃から僕を守ってくれた氷の盾も、天蓋を縫う時に足場を固めてくれた氷の道も……全部、セラさんが僕を信じてくれたからできたことです。セラさんの魔術は、世界で一番強くて、優しいです」


「……ばかね。そんな風に真っ直ぐ言われたら、照れてしまうじゃない」


 セラは頬を赤らめ、少しだけ俯いた。

 だが、すぐに意を決したように顔を上げると、夜風に冷えたルークの右手を、自らの両手でそっと包み込んだ。

 指貫の嵌められた少年の手は、無数の針傷と胼胝に覆われていたが、どんな名剣よりも逞しく、温かかった。


「ルーク。これから先、私たちはもっと過酷な地へ向かうことになるわ。世界の傷口は深く、アーヴェル大院長の企みも、まだ全貌は見えていない。……でも、何があっても約束して。決して一人で抱え込まないで。あなたが世界を縫うなら、私はその針先を護る盾になる。あなたの背中を、絶対に誰にも傷つけさせないわ」


「はい……! 約束します、セラさん。僕も、絶対にセラさんの手を離しません。どんなに世界が壊れかけていても、僕たちみんなで、全部縫い直してみせます」


 二人の手が、オーロラの下でしっかりと重ね合わされた。

 指先を通じて伝わってくるのは、魔糸の波動だけではない。

 言葉にせずとも伝わる、魂の奥底で結ばれた強固な絆だった。


 夜空を流れる七色のオーロラが、まるで二人を祝福するように、ひときわ眩い光のカーテンを広げていた。


     * * *


 翌朝。

 澄み渡る青空の下、砦の城門前には旅立ちの準備を整えたルークたちの姿があった。


「皆さん、お待たせしました! 昨晩の解析と、砦の古代記録の照合が完全に完了しましたよ!」


 駆け寄ってきたミーシャが、羊皮紙の地図を広げて仲間たちに見せた。

 そこには、テクストゥーラの大陸全図が描かれており、南のペルラ諸島、そしてここ極北のエターナル・ピークに、青と銀の完了印が刻まれていた。

 そして今、ミーシャの指先が示しているのは、大陸の遥か東方に広がる広大な緑の領域だった。


「五本目の原初の遺物が眠る結節点……それは、東大陸の深奥に広がる『原初の樹海——シルク・フォレスト』です!」


「シルク・フォレスト……! 機織りの森か!」


 ガレットが身を乗り出す。


「はい! 記録によれば、そこには神話の時代から続く巨大な世界樹『大織樹《たいしょくじゅ》』が聳え立ち、森そのものが生きている織物として大陸東方の気流と生命力を循環させているそうです。そして、その世界樹の深奥に祀られているのが、五本目の神体——『原初の絹糸針(シルク・ニードル)』です!」


「原初の絹糸針……!」


 ルークが呟く。

 指貫(縫合)、裁断刃(切断)、真珠針(水流と潮の結束)、鋼骨針(空間と骨組みの補強)。

 そして五本目は、生命と自然を育む『絹糸針』。


「ですが……シルク・フォレストには深刻な異変が起きているようです」


 ミーシャの表情が引き締まる。


「砦に届いていた東方商人の情報によれば、数ヶ月前から大織樹の葉が急速に枯れ始め、森全体に『翠緑のほつれ』が蔓延しているとのことです。さらに……森を守護する古代の部族『翠織り(エメラルド・ウィーバー)』たちが、外からの侵入者を激しく拒絶し、完全な閉鎖状態に入っているとか……」


「外界を拒絶している、か。無理もないな」


 ヴァルドが腕を組み、冷静に分析する。


「帝都の紡術院が『完璧な織り』を名目に各地の自然魔術を弾圧してきた歴史を考えれば、東方の民が警戒するのも当然だ。力づくで押し通るわけにはいかないぞ」


「ええ。でも、森がほつれに侵食されているなら、放っておくわけにはいかないわ。私たちが敵ではないこと、そして世界を繕うために来たのだと、直接伝えるしかない」


 セラの言葉に、全員が力強く頷いた。


「ルーク」


 背後から、見送りに現れたシグルドが声をかけてきた。

 シグルドの手には、極北の霊鉄で鍛え上げられた、頑丈な留め具が握られていた。


「これを受け取ってくれ。エターナル・ピークの霊鉄と、俺の鋼糸で編み上げた『白銀の留め針』だ。旅の途中で服が破れたり、荷物が解けそうになったら使ってくれ。……霊峰の加護が、いつでもお前たちと共にある」


「シグルドさん……! ありがとうございます、大切にします!」


 ルークは差し出された留め針を両手で受け取り、自らの胸ポケットに大切に収めた。


「シグルド、砦のことは任せたぞ。今度は、帝都の決着がついたら……みんなで美味い酒を飲もう」


 ガレットが拳を差し出すと、シグルドもニヤリと笑って、自らの鋼の拳をガツンと打ち合わせた。


「ああ、約束だ! いつでも戻ってこい、俺たちの誇り高き友よ!」


 バロル長老をはじめ、砦の民全員が手を振る中、ルークたちは一歩、また一歩と雪を踏みしめ、極北の大地を後にした。


 見上げれば、青空の彼方、東の地平線には、緑豊かな新緑の大地が待っている。

 胸にある四本の針が、次なる運命の結節点へ向けて、静かに、力強く脈動していた。


「行こう、みんな! 東の樹海へ!」


 少年少女たちの旅路は、新たな希望を胸に、世界の東方へと縫い進められていく。

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