第63話:樹液の回廊と毒糸の蜘蛛
御神木の根元に穿たれた古代の結界門を潜ると、そこには地上のいかなる洞窟とも異なる、生命の熱気と神秘に満ちた異空間が広がっていた。
「ここが……大織樹の胎内……『樹液の回廊』よ」
先頭を駆けるカトレアが、長弓を構えたまま低く告げた。
視界のすべてが、生きた木の巨壁によって囲まれている。
天井からは人の胴回りほどもある柔らかな気根が無数に垂れ下がり、足下には琥珀色とエメラルドグリーンに発光する粘性の高い樹液が、清らかな小川となって激しく流れていた。内壁全体が巨大な心臓のようにドクン、ドクンと規則正しく拍動し、植物特有の甘く濃厚な香気が大気中に充満している。
「すごい……まるで巨大な生き物の血管の中を歩いているみたいだ」
ルークは思わず息を呑んだ。
左目の金銀の虹彩で見つめると、内壁の繊維の一本一本が、極細の緑色の魔糸となって幾重にも密に編み込まれているのが分かる。世界樹そのものが、太古の神が編み上げた壮大な生命の織物なのだ。
だが——深部へと進むにつれて、その神聖な光景は急速に不気味な変貌を遂げていった。
「くっ……! 空気が重くなってきやがったぞ。鼻がツンとしやがる」
ガレットが鼻を覆い、険しい表情で周囲の壁を睨みつけた。
発光していた樹液の川は淀んだ黒紫色に濁り、壁面には無数の毛細血管のような、どす黒い「毒糸の巣」がびっしりと張り巡らされていた。
健康な樹皮を食い破り、内側から細胞を壊死させていくほつれの侵食痕——帝都の魔糸抽出器が主根を抉ったことで招き入れた、腐食の爪痕だった。
「ルークさん、気をつけてください!」
背後で羊皮紙の測定器を握りしめていたミーシャが、鋭く叫んだ。
「大気中の魔力濃度が異常です! 世界樹が苦痛のあまり自衛のために分泌した揮発性の樹液が、ほつれの毒糸と反応して、吸い込むだけで神経を麻痺させる猛毒の霧に変わっています!」
「『氷壁演武・清冽の天幕』ッ」
セラの澄んだ詠唱と共に、五人とカトレアの全身を、極薄の透き通るような冷気の被膜が包み込んだ。
漂っていた紫色の毒霧が瞬時に結晶化してパラパラと足下に落ち、一行の呼吸が保たれる。
「ありがとう、セラ! 助かったぜ!」
「礼はまだ早いわよ、ガレット。……私たちの侵入に、森の侵食者たちが気づいたみたいだわ」
セラの銀色の瞳が、回廊の前方——樹液の滝が流れ落ちる巨大な吹き抜けの空間を捉えた。
カサカサカサカサカサッ……!
ギチギチギチギチッ……!!
背筋を凍らせるような、無数の硬質な節足が樹皮を引っ掻く音が、全方位から響き渡った。
天井の気根の間から、壁の亀裂から、そして濁った樹液の底から——次々と這いずり出してきたのは、馬ほどもある巨大な蜘蛛の群れだった。
だが、通常の魔獣ではない。
その八本の脚は枯死して黒ずんだ木の枝で形成され、腹部はドクドクと紫黒色の毒糸を脈動させる巨大な樹瘤。頭部には無数の血走った複眼が並び、顎からは樹液を溶かす緑色の溶解液が滴り落ちていた。
「『樹骸蜘蛛』……! 世界樹の死んだ細胞にほつれが宿って生まれた、樹海の掃除屋……いや、生きた組織まで食い荒らす寄生虫どもよ!」
カトレアが長弓を引き絞り、叫んだ。
その数は、瞬く間に五十、百を超え、回廊の前後を完全に埋め尽くしていた。
「キシャァァァァァァッ!!」
先頭の蜘蛛たちが一斉に跳躍し、腹部から鋼鉄よりも強靭な紫黒色の毒糸を、投網のように吐き出してきた。
一本でも掠れば、肉体を縛り上げられ、魔力を瞬時に吸い尽くされる必殺の拘束糸だ。
「俺が焼き払ってやる! 『炎刃・大爆破——』」
「ダメだ、ガレット! その炎を使っちゃいけない!」
大剣を振り上げたガレットを、ルークが必死に制止した。
「この回廊の内壁は、大織樹の最も繊細な導管なんです! ここで大規模な爆発を起こしたら、世界樹の血管が破裂して、心臓に辿り着く前に森全体が死んじゃいます!」
「なっ……!? じゃあどうすりゃいいんだよ! この数、通常攻撃じゃ捌ききれねえぞ!」
「僕がやる」
前に進み出たのは、ヴァルドだった。
青年の全身から、静謐で鋭利な紫電が立ち上る。
「広範囲の爆発が禁じ手なら、極小の範囲に超高密度の熱を集中させればいい。世界樹の壁に触れず、蜘蛛の核だけを穿つ! 『雷織り・連鎖紫針』ッ!」
ヴァルドが両手を薙ぎ払うと、十指の先から放たれたのは、髪の毛よりも細い数百本の紫電の針だった。
針は空中で生き物のように軌道を変え、飛来する毒糸の網の結び目、そして突進してくる蜘蛛たちの眉間を、正確無比に撃ち抜いた。
パスッ! パスパスパスッ!!
乾いた音と共に、前衛の蜘蛛たちが頭部を貫かれ、樹液の川へと沈んでいく。周囲の内壁には、煤一つ残っていなかった。
「す、すごい……! あれほど強力な雷を、これほど繊細に針先へ収束させるなんて……!」
カトレアが目を見張る。
「感心している暇はないわ! 後方からも湧いてくる! カトレア、天井の支点を!」
「任せて! 『翠風の薙ぎ払い矢』ッ!」
セラの指示に合わせ、カトレアが真上へ向けて風の矢を連射した。
天井から垂れ下がっていた毒糸の束が寸断され、飛びかかろうとしていた蜘蛛たちがボロボロと落下してくる。そこへ、セラが足下の樹液を瞬間凍結させて強固な氷の足場を作り出し、怪異たちの動きを縫い止めた。
「ガレット、氷の上なら炎を刃の輪郭だけに抑えられるはずよ! 足止めされた敵を叩いて!」
「合点承知ッ! これなら樹を焦がさずに刻めるぜ! 『炎牙・乱れ斬り』ッ!!」
ガレットの大剣が閃光を描き、氷漬けになった蜘蛛たちを一刀両断していく。
極北で培われた四人の完璧な連携に、カトレアの森の知識が加わり、圧倒的な数の怪異を確実に殲滅していく。
だが、倒しても倒しても、奥の闇から無尽蔵に新たな蜘蛛が湧き出し、毒糸の網は回廊全体を完全に塞ぎつつあった。
「キリがありません! このままでは魔力が底をつきます!」
ミーシャが悲鳴を上げる。
その時、ルークの左目が、回廊の壁面に眠る無数の微かな光の粒を捉えた。
「……世界樹自身も、戦おうとしているんだ」
ルークは胸のポケットから、マザー・オルファから授かった『翠露の魔糸』を取り出し、右手の指貫に通した。
「大織樹の細胞の中に、まだ眠っている命の糸がある。毒糸に怯えて閉じこもっている樹の精霊たち……目を覚まして!」
ルークは指貫を回廊の生きた内壁へとそっと押し当てた。
母ステラの形見から紡ぎ出された七色の光と、オルファの翠露の魔糸が混ざり合い、美しい緑青色の波紋となって、壁面の繊維を通じて回廊全体へと駆け巡った。
「『接糸』——世界樹の免疫よ、再び目覚めてその傷口を護れ!」
トクン……ッ!
回廊全体が、まるで深く息を吸い込むように震えた。
次の瞬間、内壁の至るところから、淡い新緑の光を放つ無数の小鳥のような樹精霊たちが、一斉に飛び出してきたのだ。
「ピピピピピッ!」
「チチチチッ!」
樹精霊たちの清らかな光の粒子が降り注ぐと、蜘蛛たちが吐き出した紫黒色の毒糸が、見るみるうちに瑞々しい若蔓へと浄化され、自らの吐いた糸に蜘蛛自身が絡め取られて無力化されていく。
「森の精霊たちが……ルーク様の呼びかけに応えて、自ら回廊を浄化している……!?」
カトレアが震える声で叫んだ。
「みんな、今です! 精霊たちが道を拓いてくれました! 一気に最奥へ駆け抜けましょう!」
ルークを先頭に、六人は緑の光が照らし出す一本の回廊を全力で疾走した。
* * *
やがて、回廊の果てに現れたのは、これまでの通路が小さく思えるほど広大な、ドーム状の巨大な地下空洞だった。
「ここが……大織樹の心臓……『結節の玄室』……!」
カトレアの息を呑む声が、静寂に包まれた玄室に小さく響いた。
そこは、世界樹の根が幾千本も集まり、大陸の霊脈と直接結びついている神聖な中心地だった。
本来であれば、エメラルドグリーンと黄金の神聖な光に満たされているはずの空間。
だが今、玄室を支配していたのは、息が詰まるほどの死の静寂と、どす黒い紫色の妖気だった。
玄室の中央——宙に浮かぶ巨大な植物の根の交差点に、それは鎮座していた。
直径二十メートルを超える、巨大な紫黒色の繭。
繭の表面は、何億本もの腐った毒糸がびっしりと編み込まれ、心臓のようにドクン……ドクン……と醜悪に拍動している。
そして、その繭の最深部——毒糸の隙間から、ひときわ眩い、しかし今にも消え入りそうな碧緑の燐光が漏れ出していた。
「あそこだ……! あの繭の芯に、五本目の神体『原初の絹糸針』が囚われている!」
ルークの叫びに、胸元の四本の遺物——指貫、裁断刃、真珠針、鋼骨針が一斉に共鳴し、激しい痛熱を放った。
四本の針が、囚われた仲間の悲痛な叫びをルークの魂へと伝えてくる。
助けて、と。息が苦しい、と。
「待って、ルーク! 繭の様子がおかしいわ!」
セラの鋭い制止の声が響いた瞬間——
ピキ……ピキピキピキッ……!!
玄室の中央で脈打っていた紫黒色の繭の表面に、巨大な亀裂が走った。
中から噴き出したのは、浴びるだけで魂を腐食させるほどの、濃厚なほつれの瘴気だった。
「グ……ア……ア……ア……ッ!!」
大気を震わせる、女の悲鳴にも似たおぞましい咆哮。
裂けた繭の内部から、ゆっくりと這いずり出てきたのは——人の上半身と、巨大な蜘蛛の胴体が融合した、禍々しくも妖艶な怪異だった。
白磁のように青白い肌の女性の胸元には、五本目の神体『原初の絹糸針』が、まるで心臓に突き刺さった短剣のように深く埋め込まれ、そこから溢れ出る生命の魔糸が、リアルタイムで黒い毒糸へと変換されていた。
「大織樹の怨念とほつれが融合した悪夢……『深淵の織り姫——シルク・コクーン』……!」
カトレアが弓を構えながら、恐怖に唇を震わせた。
織り姫の濁った紫色の瞳が、ゆっくりとルークたちを見下ろした。
その八本の長い爪から、虚空を切り裂く何千本もの死の毒糸が、扇状に展開される。
「壊レタ……世界ハ……モウ……縫エナイ……」
「スベテ……解ケテ……死ネバ……イイ……ッ!!」
ヒュオオオオオオオオオッ!!
玄室全体を圧殺するほどの毒糸の暴風が、ルークたちへ向けて一斉に解き放たれた。
「そんなこと、絶対にさせない!」
ルークは四本の遺物の力を解放し、仲間たちと共に、死の嵐の中へと力強く踏み出した。




