第6話:繕組の一日
王立紡術院の敷地の最果て。本校舎から遠く離れた場所に、ひっそりと佇む古い木造の離れがある。
壁の塗料は所々剥がれ落ち、歩くたびに床板が悲鳴のような軋み音を上げる。
この忘れ去られたような小さな教室が、俺の新しい居場所だった。
「――やはり、何度やっても単糸すら編み上げることはできないようですね、ルーク」
紡術院に入学してから一週間。
俺、ルーク・アスキスはたった一人の生徒として、この特設クラス「繕組」の教室で授業を受けていた。
黒髪を短く切り揃えた女性教官、レイラ・ファーストが、手元のバインダーに何事かを書き込みながら、静かに息を吐き出す。
彼女は鋼のように強靭な魔糸を操る鋼織り《はがねおり》の達人であり、絶望的だった俺の特例入学を上に掛け合ってくれた大恩人でもあった。
ピンと背筋を伸ばした彼女の佇まいは厳格だが、その眼差しにはどこか温かな光が宿っている。
「すみません、レイラ先生。見よう見まねでやってはいるんですが……どうにも、魔力が糸の形を保ってくれなくて」
「謝る必要はありません。あなたの魔術特性が『測定不能・等級外』であることは、入学試験の時点から分かっていたことです。ただ、少しばかり未練がましく通常の織紋の基礎を試してみただけですから」
通常、この世界テクストゥーラの魔術である「紡術」は、体内の魔力を魔糸として抽出し、それを空間に織り上げることで発動する。
単糸から始まり、双糸、織紋、錦繍、そして伝説とされる天衣へと至る階位が存在し、上位になればなるほど複雑で強力な事象を引き起こすことができる。
優秀な生徒であれば、入学時点で美しい織紋を空中に描き出すことができる。
だが、俺の魔力はどう頑張っても一本の滑らかな糸すら形成できない。体から空中に引き出した途端、ボロボロとひび割れ、まるで古いチョークの粉のように塵となって崩れ去ってしまうのだ。
「無から有を織り上げることができない。それがあなたの現状です。ならば――」
レイラ教官はバインダーを閉じ、真っ直ぐに俺の目を見た。
「織れないのなら、繋ぐ力を極めなさい。それが、この繕組の存在意義であり、私があなたに教えられる唯一の道標です」
「繋ぐ力……俺の『継ぎ接ぎ《つぎはぎ》』ですね」
「ええ。あなたは新しい糸を織り上げることはできない。しかし、壊れ、千切れた魔糸の断片を縫い合わせるという、通常の魔術理論から逸脱した規格外の技法を持っています。これからの授業は、その『継ぎ接ぎ』の応用と精度向上に特化します」
レイラ教官の言葉に、俺は深く頷いた。
左手の親指で、人差し指にはめた古い革の指貫をそっと撫でる。
物心ついた時から、俺はこの力を使って辺境のエッジタウンの孤児院で、壊れたおもちゃや農具、古びた魔道具を直してきた。
泣いている小さな子供たちに、直ったおもちゃを渡した時の笑顔が好きだった。
壊れたものを放っておけない。それが俺の性分であり、俺の魔法の全てだ。
これが世界最高峰の魔術機関でどう通用するのか、まだ分からない。でも、やるしかないのだ。
午前中の授業が終わり、昼休みを告げる鐘の音が広大な学院内に響き渡った。
俺は本校舎にある大食堂へと足を運んだ。
高い天井には色鮮やかなステンドグラスが嵌め込まれ、偉大な魔術師たちの歴史を描き出している。厨房からは香ばしいローストミートとスパイスの香りが漂い、数百人の生徒たちの笑い声が満ちていた。
だが、俺が食堂の入り口に足を踏み入れた瞬間、周囲の喧噪が潮を引くように静まり返った。
「おい、見ろよ。あいつだろ……例の『等級外』って」
「最下位の繕組どころか、まともな魔術が一切使えない出来損ないなんだってね。どうしてこんな神聖な学院に……」
「近づかない方がいいわよ。あいつに触れると『出来損ない』が移るって噂だから」
ひそひそとした、しかし確かな棘を持った囁き声が、あちこちから突き刺さってくる。
俺が歩を進めると、まるで汚物でも避けるかのように、誇り高き青と白の制服を着た生徒たちがさっと道を空けた。
辺境の孤児院育ちの俺にとって、冷たい視線を向けられることには慣れている。言い返したところで状況が良くなるわけでもない。
俺は適当な空き席を見つけ、配給された硬い黒パンと薄いスープが乗ったトレイを静かに置いた。
ガシャンッ!
突然、目の前のテーブルに、乱暴な音を立てて山盛りの肉料理が乗ったトレイが叩きつけられた。
顔を上げると、燃えるような赤毛と、長身でがっしりとした体格の少年がニッと白い歯を見せて笑っていた。
入学試験の日、誰からも無視されていた俺に、唯一声をかけてくれた同級生、ガレット・ドーンだ。
「よお、ルーク! 相変わらず湿っぽいツラして飯食ってんな! もっと肉を食え、肉を!」
「ガレット……いいのか? 俺と一緒にいると、お前まで変な目で見られるぞ」
「はっ、あいつらの言うことなんか気にするな。俺はお前の味方だ」
ガレットは周囲の冷ややかな視線など全く意に介さず、豪快に骨付き肉に齧りついた。
「だいたいな、俺自身も平民の出だってんで、あの気取った貴族の連中からは馬鹿にされてるんだよ。俺の使う『剣織り』なんて野蛮な技だ、泥臭い、美しくないってな。だから俺とお前は、ある意味似た者同士ってわけだ。気にするだけ無駄ってもんよ」
ガレットのカラッとした明るさと、裏表のない性格に、俺の胸の中にあった小さな澱がスッと溶けていくのを感じた。
「ありがとう、ガレット」
「おう! 気にすんな。それより午後からは実習だろ? 気合い入れていけよ!」
放課後。
俺は学院が誇る巨大な大図書館の片隅にいた。
天井まで届く無数の本棚の間に夕日が差し込み、黄金色の埃が宙を舞っている。古い羊皮紙と魔力インクの匂いが満ちる静寂の空間。
俺の目の前には、廃棄予定のラベルが貼られた「壊れて使えない」古い魔道具が積まれたカートがあった。
実習の代わりに、レイラ教官から「壊れた魔道具の構造を観察してきなさい」という課題を出されていたのだ。
俺はその中から、手のひらサイズの小さな真鍮製の魔術灯を取り出した。
本来なら魔力を注げば柔らかな光を放つはずの道具だが、今はどれだけ魔力を込めてもウンともスンとも言わない。
俺はそっと、右目を閉じ、金色の瞳を持つ『左目』だけを開く。
視界が反転し、世界が全く別の姿を現す。
物質の表面が透け、その奥にある魔術の構造、空間の結合、あらゆるものを構成する「糸目」が鮮明に可視化される。
魔術灯の内部には、光を生み出すための黄色の魔糸と、それを安定させるための青の魔糸が回路として緻密に織り込まれていた。
だが、その回路の中心部分で、糸がプツリと千切れ、無残にほつれてしまっている。これでは魔力が漏れ出してしまい、光るはずがない。
「これくらいなら……直せる」
俺は指貫をはめた右手の指先を、魔術灯の内部へと差し込んだ。
空中に漂う微小な魔力の残滓をかき集め、極細の魔糸の断片を形成する。
通常の魔術師のように、長く美しい糸を一本に織り上げることはできない。だが、俺にはこの短く不格好な糸の断片を、極限の精度で『結ぶ』ことができる。
千切れた黄色の魔糸の端と端を寄せ、俺の魔糸の断片を縫い合わせるように結びつける。
きゅっ、と糸が引き結ばれる確かな感触。
「継ぎ接ぎ《つぎはぎ》」
小さく呟いた瞬間。
修復された回路に魔力が走り、魔術灯がカッと眩い光を放った。
それは元の設計図通りの光ではない。継ぎ接ぎによって回路の抵抗が極限まで減り、より効率的に魔力が循環した結果、本来の何倍も明るい、太陽のような暖かな光だった。
俺は目を丸くして、その光を見つめた。
「そ、その技法……!」
突然、背後の本棚の陰から、甲高い声が響いた。
驚いて振り返ると、小柄な少女が立っていた。
薄紫色の髪をお下げにし、顔の半分ほどもある大きな丸眼鏡をかけている。彼女の両手には自分の背丈ほどもある大量の古い文献が抱えられていた。
「ひゃあっ!」
バランスを崩した少女が前のめりに倒れ、抱えていた本がドサドサと床に散らばった。
「だ、大丈夫か!?」
俺が慌てて駆け寄り、本を拾うのを手伝おうとすると、少女は床に這いつくばったまま、俺の腕をガシッと掴んだ。
その大きな眼鏡の奥の瞳が、異様なほどの熱を帯びてギラギラと輝いている。
「原初文献に記述があるんです! 今の、今の魔術……!」
「え? あ、いや、俺のはただの継ぎ接ぎで……魔術なんて立派なものじゃ……」
「ち、違います! 私、ミーシャ・レニエっていいます! 古代語と、原初の紡ぎ手の研究をしていて……」
ミーシャと名乗った少女は、普段は引っ込み思案なのだろうに、今は興奮のあまりものすごい早口でまくしたててきた。
「その文献の中に、『繋ぎの術』という失われた技法の記述があって……千切れた理を縫い合わせる、奇跡の御業。今のあなたの魔術の構造と、まったく同じなんです!」
「原初の紡ぎ手……?」
聞き慣れない言葉に、俺は首を傾げた。
「この世界テクストゥーラを作ったと言われる、伝説の魔術師たちです。私たちが空を見上げた時、そこにある目に見えない境界膜『世界帷』も、彼らが織り上げたと言われています。あなたの力は、その人たちと同じかもしれない……!」
ミーシャは震える手で、散らばった本の中から一冊の酷く古びた革表紙の分厚い本を取り出し、バサッとページを開いた。
そこには、古の時代の魔法陣のような、複雑な紋様が描かれている。
俺は息を呑んだ。
その紋様の中心に描かれている結び目の形は、俺がたった今、魔術灯の内部で無意識に編み上げた『継ぎ接ぎ』の結び目と、寸分違わず同じだったのだ。
「これが、原初の紡ぎ手が世界を作った時に使ったとされる技法の紋様です。そして……」
ゴクリ、と唾を飲み込み、ミーシャが次のページをめくる。
そこには、色褪せた顔料で描かれた「七人の紡ぎ手」の姿があった。
神々しいローブを纏った七人の中心、先頭に立って杖を掲げている人物。
その人物の顔のアップの挿絵を見て、俺の心臓が大きく跳ねた。
描かれたその人物の瞳。
それは、左目が金色で、右目が銀色に輝く——俺と全く同じ、オッドアイだったのだ。




