第55話:海淵の底を縫い直す者
光の届かない漆黒の世界を、淡い瑠璃色の光球がゆっくりと下降していく。
水深三千メートル。南大陸の境界を成す大深淵——『海淵の裂け目』。
指先一つ動かせば即座に人間を圧し潰す数千トンの水圧を遮っていたのは、シープ・パッチ号の先頭を泳ぐ巨大な守護魔導獣——『機織りの鯨』が吐き出した、呼吸可能な巨大魔導気泡だった。
気泡の表面には、セラの氷晶の粒子と、ルークが手に入れた『原初の真珠針』から放たれる潮の魔糸が幾重にもパッチワークのように編み込まれ、外側の凄まじい水圧をしなやかに受け流している。
「すごい……水深三千メートルなのに、水圧をほとんど感じません……!」
気泡の内壁にそっと手を触れながら、ミーシャが驚嘆の声を上げた。
その隣で、ガレットが暗黒の深海を見下ろして唾を飲み込む。
「だがよ、不気味なんてもんじゃねえぞ。光が一筋も届かねえ……まるで世界の底の底に落ちていくみたいだ」
「世界の底、か。あながち間違いではないな」
ヴァルドがプラチナの雷光を指先に灯し、気泡の外の暗闇を照らし出した。
その光が捉えたのは、息を呑むほど壮絶な光景だった。
海底の大地が、まるで巨大な怪物の顎のように何十キロメートルにもわたってパックリと引き裂かれ、裂け目の奥底からは、大気中のそれとは比較にならないほど濃密な紫黒色の瘴気が、煙突の煙のように噴き上がっていた。
そして、その大裂け目の中心——天に向かってそびえ立つ、巨大な螺旋状の青い珊瑚樹。
「南大陸の海洋結節点……『青珊瑚の大紡機』!」
ルークの左の金瞳が、その大紡機を捉えた。
かつて原初の紡ぎ手・聖女ルキアが打ち立てたその巨大な珊瑚樹は、南の海を巡る海流の魔糸を整え、世界帷の南端を繋ぎ止める要の装置だった。
だが今、その美しかった青珊瑚の幹には無数の黒い亀裂が走り、結節点全体が巨大な黒い影によってギリギリと締め上げられていた。
全長百メートルを優に超える、深海の主——『海淵の喰らい手』。
無数の巨大な触手には鋭利な魚骨の棘がびっしりと並び、頭部には人間の顔が何百も溶け合って蠢く巨大な単眼が、濁った赤色に発光していた。
大紡機から漏れ出る純粋な海洋魔力を、貪り食い尽くそうとしているのだ。
『ギシャァァァァァァァッ!!』
超弩級ほつれが、侵入者であるルークたちに気づいた。
深海全体を揺るがす強烈な怪音波が走り、気泡の内壁がビシビシと音を立てて波打つ。
同時に、太さ数メートルもある八本の巨大触手が、高圧の水流を纏って気泡を圧し潰そうと襲いかかってきた!
「来ます! 全方位からの水圧触手攻撃!」
ミーシャが叫ぶ。
「散開しろ! 気泡の維持は鯨に任せ、俺たちで触手を引き剥がす!」
ヴァルドの号令とともに、五人は気泡の境界膜をすり抜けて、超深海の戦場へと飛び出した。
ルークの左手に宿った『原初の真珠針』が、水中で眩い瑠璃色の光を放ち、五人の全身に薄い水の膜——水流適応の結界を瞬時に纏わせる。
深海の冷気も、巨大な水圧も、真珠針の力によって完全に無害な浮力へと変換されていた。
「っしゃあァァァッ! 水の中でも俺の炎は消えねえぞォッ!!」
ガレットが剛剣を構え、突進してきた触手のど真ん中へ突撃した。
深海の中で解き放たれた紅蓮の魔力が、周囲の海水を一瞬で超高熱へと沸騰させる。
「『剣織り・過熱蒸気斬』——ぶった斬れェッ!!」
ドゴォォォォンッ!!
高圧の蒸気爆発が深海を白く染め上げ、迫り来る触手二本がボロボロに引き裂かれて吹き飛んだ。
「再生する前に、神経系を麻痺させる!」
続いて跳躍したヴァルドが、両手を前方に突き出した。
真珠針から伸びる潮の魔糸を導線として、海水に拡散することなく、超高圧のプラチナ雷撃が一本の槍となって収束する。
「『雷織り・蒼雷の神槍』——穿てッ!!」
バチィィィィィンッ!!
プラチナの雷槍が、怪物の巨大な単眼の縁を正確に射抜いた。
激しい閃光と高圧電流が怪物の巨体を駆け巡り、クラーケン・アンレイヴが苦悶の咆哮を上げて身悶えする。
「再生させないわ! 『極氷織り・海淵の氷牢』——ッ!!」
セラの銀髪が海中で優雅に広がり、千切れた触手の傷口と怪物の胴体へ向けて、絶対零度の冷気が叩きつけられた。
深海の超低温と相まって、怪物の傷口が一瞬にしてカチコチの巨大な氷塊へと凍結され、細胞の再生が完全に封じられる。
「ルークさん、今です!」
ミーシャが魔導ペンで大紡機の周囲を指し示した。
「怪物の拘束によって、青珊瑚の大紡機の中心核が露出しました! ですが、結節点の魔糸がすでに八割以上破断しています! あと三分以内に縫合しなければ、大紡機ごと大渓谷が崩落します!」
「わかった……今行くよ!!」
ルークは機織りの鯨の背を蹴り、青珊瑚の大紡機の中心部へと一直線に泳ぎ出した。
* * *
大紡機の幹に取り付いたルークの眼前には、悲惨な光景が広がっていた。
数千年の風雪と、ほつれの侵食によって、かつて美しい幾何学模様を描いていた珊瑚の魔導回路は、ズタズタに引き千切れていた。
黒紫色の瘴気が傷口からドクドクと噴き出し、海底の割れ目をさらに広げようと軋んでいる。
ルークは右手に母ステラの革の指貫を、左手に聖女ルキアの『原初の真珠針』を構えた。
そして、手首にはギルフォードの『原初の裁断刃』。
三つの原初の遺物が、ルークの体内で一つに共鳴し、全身の血潮が黄金と白銀、そして瑠璃色の三色に燃え上がった。
「解糸——大海洋の断裂を見極めよ!」
カッ……!!
ルークの両目が神性を帯びて見開かれた。
深海の暗黒の中、ルークの視界には、青珊瑚の大紡機を取り巻く海流の魔糸が、一本一本鮮明な光の筋となって浮かび上がっていた。
数万、数十万本もの引き千切れた糸。
そしてその千切れた糸の先端には、かつてこの海で嵐に飲まれ、難破し、命を落としていった無数の人々の、悲痛な記憶と残留意識がこびりついていた。
「このほつれは……敵じゃないんだ」
ルークの胸に、熱い涙が込み上げてきた。
「暗い海の底で……冷たくて、息もできなくて……ずっと一人で、寂しかったんだね」
ルークの温かな魔力が、指貫と真珠針を通じて海中へと広がる。
痛みを切り捨てるのではない。
敵として滅ぼすのでもない。
千切れて狂気に沈んでいたすべての魂の傷跡を、優しく、柔らかく、世界の布へと抱きしめて還す。
「裁糸——憎しみの絡まりを解き放て!」
ザシュッ……!
原初の裁断刃が、怪物の執着と呪縛の糸だけを、優しく解きほぐすように切り離した。
大紡機を締め上げていたクラーケンの巨体から、どす黒い怨嗟のオーラがフッと消え去り、安らかな光の粒子となって海中へと漂い始める。
「そして……僕たちの世界を、もう一度繋ぐんだ!!」
ルークは真珠針を天へと突き上げた。
右手の指貫から噴き出した七色の魔糸が、真珠針の先端を通ることで、極限まで滑らかで強固な『蒼海万象の縫い糸』へと昇華される。
「原初大縫合——『|海淵修繕・蒼海のパッチワーク《アビス・リメンディング》』ッ!!!!」
ピカァァァァァァァァァァッ!!
漆黒の深海三千メートルが、昼の太陽よりも眩いエメラルドグリーンと七色の光で満たされた。
ルークの放った真珠針が、光の尾を引いて大紡機の周囲を縦横無尽に舞い踊る。
千切れていた青珊瑚の魔力回路が、一針、一針、力強く縫い合わされていく。
さらに、その縫い目は大紡機だけに留まらず、海底の巨大な割れ目そのものへと広がっていった。
パチンッ! パチンッ! カチィィィィンッ!!
心地よい針の音が深海に木霊するたび、海底の大裂け目が、美しい七色のパッチワーク模様の結晶層となって縫い合わされ、閉ざされていく。
数万トンに及ぶ深海圧を受け流し、海流のエネルギーを世界帷の自己修復力へと反転させる、奇跡の海洋防護壁。
大紡機の青珊瑚が、かつてないほど清らかな瑠璃色の輝きを放ち、海底全体に温かな生命の波動を解き放った。
怪物の巨体だったほつれは、最後の一筋の怨嗟も消え去り、数千匹の光る熱帯魚の群れとなって、感謝を告げるようにルークの周りを優雅に泳ぎ回った後、深い眠りへと還っていった。
* * *
ザバァァァァァンッ!!
朝の光が眩しく照りつけるコーラルポートの海上へ、シープ・パッチ号と機織りの鯨が誇らしげに浮上した。
水飛沫を浴びながら甲板へ降り立ったルークたちの前に広がっていたのは、奇跡のような光景だった。
港を覆っていた黒濁したヘドロは一滴残らず消え失せ、海は水底の珊瑚の粒まで透き通る、息を呑むほど美しいクリスタルブルーへと生まれ変わっていた。
防波堤に縫い留められていた津波の氷壁は、穏やかな波とともに七色の光の粒子となって海へ溶け出し、大気中には清らかな潮風が満ちていた。
「お……おお……!」
船着き場に詰めかけていた最高司祭バルトロメオと、何千人もの群島の住民たちが、言葉を失って海を見つめていた。
やがて、誰からともなく、地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。
「海が……海が、かつてないほど澄み渡っている!」
「結節点が……世界帷が直ったんだ!」
「パッチワークの英雄たち万歳!!」
「ルーク様! 仕立て屋の皆様、ありがとう!!」
住民たちが花びらと真珠の首飾りを投げ込み、港中が祝祭の歓喜に包まれる。
バルトロメオはルークの前に進み出ると、恭しく頭を下げ、自らの胸に手を当てた。
「ルーク殿……いや、世界の継ぎ手たる偉大なる仕立て屋よ。……そなたたちの不揃いなパッチワークこそが、この海で最も神聖で、最も温かな奇跡であった。……我が教団の至宝『原初の真珠針』は、名実ともにそなたのものだ。どうか……この世界を、その温かな針で縫い繋いでくだされ」
「バルトロメオ司祭……ありがとうございます。大切に、世界のために使います!」
ルークが頭を下げると、隣に立ったセラがそっとルークの腕に自らの腕を絡め、幸せそうに微笑みかけた。
「やったわね、ルーク。これで三本目よ」
「うん! セラさんたちがいてくれたからだよ」
ガレットが豪快にルークの背中を叩き、ミーシャが涙を拭いながら手帳に完了印を押し、ヴァルドが満足げに潮風を吸い込んだ。
青く澄み渡る南の海。
指貫、裁断刃、そして真珠針——三つの原初の遺物を手にした少年たちは、壊れた世界を愛し、繋ぎ直すための旅を、さらに力強く前へと進めていく。




