第54話:怒濤の海を縫い止めて
防波堤を乗り越えた黒い大津波が、まるで夜空そのものが崩落してきたかのように、コーラルポートの市街地へと覆いかぶさっていた。
海水に混ざり合うのは、ヘドロのようにドロドロとした紫黒色の瘴気と、耳を塞ぎたくなるような無数の怨嗟の咆哮。
波頭から飛び降りてきたのは、巨大な甲殻類の爪と、白骨化した魚の牙を無数に生やした、体長四メートルを超える深海型の上位ほつれだった。
その血走った赤眼が捉えたのは、崩れた珊瑚の瓦礫に挟まれ、抱き合って震える母親と小さな少女。
骨の爪が、空気を引き裂く甲高い音を立てて振り下ろされる。
「きゃあぁぁぁぁぁっ!!」
「——誰に手を出そうとしてやがる、生臭い魚の骨野郎がァッ!!」
ドガァァァァァンッ!!
突風とともに横合いから跳び込んできた紅蓮の巨影が、振り下ろされた骨の爪を真正面から叩き折った。
ガレット・ウォーカー。
赤毛を逆立て、筋肉を限界まで膨張させた少年が、ルークに修繕された剛剣から灼熱の爆炎を解き放つ。
「『剣織り・剛炎一閃』——消し飛びなァッ!!」
バァァァンッ! と爆発的な炎が上位ほつれの胴体を両断し、炭化させた肉片が砂浜へと転がり落ちた。
「今です、お母さん! こちらへ!」
即座に駆け寄ったミーシャが、魔導ペンを素早く振るい、母子の足元に青白い光の防護結界を展開した。
「『記述魔術・退避回廊』! 高台の避難所まで、この光の道を辿って走ってください!」
「あ、ありがとう……ありがとうございます……!」
母親が少女を抱き上げ、涙を流しながら高台へと駆け出していく。
だが、安堵の息を吐く暇など一瞬たりともなかった。
頭上を見上げれば、ガレットが倒したほつれなど氷山の一角に過ぎなかった。
高さ三十メートルを超える黒い大津波の壁の中に、数百匹もの深海ほつれが蠢き、防波堤を完全に粉砕して街全体を丸呑みにせんと迫っていたのだ。
「チッ……数が多すぎる! 街の半分が水没するぞ!」
ガレットが剣を構え直すが、その額には焦りの汗が滲む。
「狼狽えるな、ガレット! 面で受けるのが無理なら、線で焼き払うまでだ!」
プラチナの閃光とともに、ヴァルドが波止場の突堤の先端へと躍り出た。
両手を虚空へと突き出し、大気中の水分と魔力を超高圧の雷糸へと瞬時に変換していく。
「『雷織り・天網白銀』——ッ!!」
バリバリバリバリッ!!
眩いプラチナ色の雷光が、津波の全幅数百メートルにわたって蜘蛛の巣のように張り巡らされた。
津波の中に潜んでいた小柄なほつれの大群が、高圧電流に呑み込まれて次々と青白い火花を散らし、黒い灰となって霧散していく。
しかし——
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
数万トンに及ぶ海水そのものの質量と、深海の海淵から押し寄せる強烈な水圧は、雷撃を以てしても止まることはなかった。
黒い水の壁が、ヴァルドの雷網を押し破り、轟音を立てて市街地の目と鼻の先まで迫り来る!
「ぐっ……水圧が重すぎる……! 雷では、質量そのものは止められん……!」
ヴァルドが足を踏ん張り、唇から血を滲ませる。
「——なら、凍らせるわ!!」
凛とした、銀鈴のような叫びが、暴風の吹き荒れる波止場に木霊した。
セラ・ヴァルシュタイン。
少女は麦わら帽子を投げ捨て、海風に銀髪を乱舞させながら、ルークの隣へと躍り出た。
セラの青い瞳が、極限の集中によって白銀の光を放つ。
右手にはめた氷水晶の指輪から、これまでの人生で放ったことのない、途方もない絶対零度の冷気が海面へと叩きつけられた。
「海よ……波よ……私の氷の型に従いなさい! 『極氷織り・海神鏡華』——ッ!!」
ピキキキキキキキキッ……ドォォォォォォンッ!!
信じがたい光景が広がった。
津波として立ち上がっていた高さ三十メートルの黒い波頭が、セラの指先から走った冷気によって、水飛沫の形を保ったまま一瞬にして凍結を開始したのだ。
エメラルドグリーンの氷が急速に広がり、津波は巨大な氷の城壁となって、その場に縫い留められる。
「す、すげええええっ!? 津波が丸ごと凍りついたぞ!!」
避難していた港の漁師たちから、どよめきが上がる。
だが、セラの顔には歓喜の色はなかった。
その白い頬には苦痛の脂汗が流れ、細い肩が激しく上下していた。
「くっ……あぁぁぁぁぁっ……!!」
バキバキッ! メキメキメキメキッ!!
凍りついた津波の氷壁の奥から、不吉な破砕音が響き渡る。
背後にある海淵の深海圧は、一人の人間の魔力で受け止められる限界を遥かに超えていた。
氷壁の根元から、太い亀裂が無数に走り始める。
硬く凍らせれば凍らせるほど、膨大な水圧との真っ向勝負になり、限界を超えた瞬間に粉々に破裂して、氷の礫となって市街地を襲うことになるのだ。
「だ、ダメよ……! 水圧を受け流せない……! これじゃあ、あの司祭たちの結界と同じ……硬すぎて、折れちゃう……!」
セラの膝がガクガクと震え、氷の維持が解けそうになる。
「折らせるもんかッ!!」
セラの震える背中を、温かな、力強い両手がしっかりと支えた。
ルーク・アスキスだった。
「ルーク……!」
「セラさんの氷は、絶対に折らせない! 硬い氷が割れそうなら……僕の糸で、全部繕うんだ!!」
ルークの左の金瞳と、右の銀瞳が、太陽よりも眩く見開かれた。
原初の『解糸』が、三十メートルの巨大な氷壁に走る数万本の亀裂と、背後から押し寄せる水圧のベクトルを、鮮明な光の編み目として解き明かす。
「水圧が集中している結節点は、右下に十二箇所、中央に二十四箇所……! ギルフォードさん、力を貸してください!」
ルークの手首に輝く『原初の裁断刃』が、神々しい白銀の輝きを放った。
「広域裁糸——水圧破断刃ッ!!」
ザシュッ! ザシュゥゥゥッ!!
ルークが両腕をクロスさせて振り抜くと、不可視の銀の光刃が氷壁の内部へと侵入し、氷を押し破ろうとしていた巨大な水圧の魔力結び目だけを、ピンポイントで切り離した。
氷壁にかかっていた過剰な負荷が、一瞬にして半減する。
「そして……千切れたなら、繋ぐ!! 万象の縫い糸——展開ッ!!」
カァァァァァッ!!
ルークの右手のはめた母の指貫から、赤、青、緑、黄、白、紫、金——七色の光を放つ無数の魔糸が、星屑の奔流となって吹き上がった。
魔糸は、セラの氷壁に走っていた数万本の亀裂の隙間へと、まるで生き物のように滑り込んでいく。
「接糸——『|七色万象縫合・氷海のパッチワーク《パッチワーク・ダム》』ッ!!!!」
パチンッ! パチンッ! パチパチパチパチッ!!
大気中に、心地よい無数の縫合音が鳴り響いた。
七色の魔糸が、割れかけた氷と氷の切断面を、幾重にも、強固に、そして驚くほどしなやかに縫い合わせていく。
ただ穴を塞いだのではない。
ルークの温かな魔糸が、セラの冷たい氷の結晶構造と完全に融合し、波の衝撃に合わせて微細に伸縮して圧力を受け流す、究極の柔軟多層防壁へと進化させたのだ!
ズゥゥゥゥゥン……
激しい鳴動が、嘘のように止まった。
三十メートルの大津波は、七色に輝く美しいパッチワークのステンドグラスのような巨大な氷壁となって、コーラルポートの浜辺に完全に鎮座した。
どれほど背後の水圧が押し寄せようと、柔軟な縫い目がその力を逃し、氷壁はビクともしない。
「う……そ……だろ……」
丘の上からその光景を見下ろしていた最高司祭バルトロメオが、呆然と両膝を突いた。
自分たちが何百年も守り継いできた至高の海神結界が一撃で砕け散ったというのに、大陸から来た出来損ないと呼ばれていた少年と少女が、割れかけた氷をその場で『縫い合わせ』、天変地異のような大津波を完全に封じ込めてしまったのだ。
「な、なんという技だ……不完全な布切れを繋ぎ合わせたような術が……我が至高の海神織りよりも、遥かに頑丈で……遥かに美しいだと……!?」
浜辺に、静寂が広がった。
やがて、避難していた街の住民たち、漁師たち、子供たちから、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
「すげええええっ!! 津波が止まったぞ!」
「あの子たち、街を救ってくれたんだ!」
「パッチワークの魔術師万歳!!」
大歓声の中、ルークとセラは肩を寄せ合い、荒い息を吐きながら顔を見合わせた。
「……ふふ。やっぱり、あなたの縫い目は世界一ね、ルーク」
セラが汗で濡れた前髪をかき上げ、最高の笑顔を見せる。
「ううん、セラさんの氷が津波を受け止めてくれたからだよ。ありがとう、セラさん!」
* * *
だが、戦いはまだ終わっていなかった。
ゴボボボボボボボボッ……!!
七色に縫い合わされた氷壁の向こう側——遥か沖合の海淵の裂け目から、先ほどの津波など比較にならないほどの、禍々しい巨大な魔力反応が立ち昇り始めたのだ。
海面が巨大な擂鉢状に凹み、底知れぬ深海から、山岳ほどもある超巨大な触手と、黒く濁った巨大な単眼が姿を現しつつあった。
「海底の結節点を喰らい尽くそうとしている、超弩級の深海ほつれ本体です!」
ミーシャが駆け寄って叫ぶ。
「あの氷壁で津波は防げましたが、海淵の底にある結節点そのものが破壊されたら、この群島国家全体が海の底へ沈んでしまいます!」
「チッ、あんなバカデカいタコ野郎が海の底に居座ってやがるのか!」
ガレットが剣を握り直す。
「海中深くでは、俺の雷も拡散して威力が落ちる。……どうする、ルーク」
ヴァルドが問う。
「あの海淵の底へ潜って、直接結節点を縫い直すしかありません!」
ルークが答えた、その時だった。
「——待ってくれ! 頼む、待ってくれ!!」
息を乱し、泥だらけの法衣の裾を引きずりながら、最高司祭バルトロメオが珊瑚の石段を駆け下りてきた。
その背後には、生き残った神殿騎士や神官たちが、恥じ入るように頭を垂れて従っていた。
「バルトロメオ司祭……?」
ルークが振り返る。
老司祭はルークたちの前に辿り着くと、躊躇うことなく白砂の上に両膝を折り、深々と額を砂に擦り付けた。
「すまなかった……! すべて、私の傲慢だった……!」
バルトロメオの声は、後悔の涙で激しく震えていた。
「過去の栄光と純潔に囚われ、現実の綻びから目を背け、あまつさえ世界を救おうとするそなたたちを侮辱した……! 我が教団の至宝などと言って隠していたが、真珠針の魔力が尽きかけていたことにも、私は気づいていながら認めたくなかったのだ……! どうか……どうか愚かな私を許し、この海を救ってくれ……!!」
「司祭様、顔を上げてください」
ルークは静かに歩み寄り、老人の肩に手を置いた。
「僕たちは、怒ってなんていません。誰だって、大切にしてきたものを守りたいと思うのは当然ですから。……僕たちの力が必要なら、喜んで貸します!」
「お、おお……なんという慈悲だ……」
バルトロメオが涙を拭い、震える手で立ち上がった。
「ついて参られよ! 大聖堂の地下至聖所……『原初の真珠針』の元へ案内いたす!」
* * *
白亜の大聖堂の真下、何百年もの間、歴代の最高司祭以外は足を踏み入れることを禁じられていた地下至聖所。
天井から垂れ下がる無数の真珠母貝が青白い燐光を放ち、中央には清らかな湧き水で満たされた円形の神聖なる泉が湛えられていた。
そしてその泉の中央、光り輝く巨大な白真珠の台座の上に、それは静かに安置されていた。
長さ三十センチほどの、白銀と虹色に透き通る美しい細身の針——『原初の真珠針』。
しかし今、その針の表面には無数の微細な曇りが生じ、放たれる潮の魔力は風前の灯のように弱々しく明滅していた。
「あれが……聖女ルキアの真珠針……!」
ミーシャが息を呑む。
「ルーク、行きなさい」
セラがそっとルークの背中を押した。
ルークは一歩一歩、神聖な泉の中へと進み出た。
台座の前に立ち、右手にはめた母ステラの革の指貫を掲げ、手首の原初の裁断刃を共鳴させる。
「聖女ルキア様……僕に、力を貸してください。この美しい海を、みんなの生きる世界を、もう一度繋ぎ直すために!」
ルークが真珠針の柄へと指先を伸ばした、その瞬間だった。
キィィィィィィィン……ッ!!
至聖所全体が、眩いばかりの瑠璃色の光で満たされた。
母の指貫、手首の裁断刃、そして台座の真珠針が、まるで数千年ぶりの再会を歓喜するように激しく共鳴し、歌うような高周波の音色を響かせた。
真珠針から放たれた虹色の魔糸が、ルークの左手へと優しく巻き付き、その手のひらへと吸い込まれるように収まった。
カッ……!
ルークの左目に宿る黄金の光と、右目の白銀の光が、真珠針の瑠璃色の光と完全に混ざり合い、ルークの全身を清らかな潮のオーラが包み込んだ。
三本目の原初の遺物——『原初の真珠針』の継承。
「針が……輝きを取り戻した……! 真珠針が、自ら継ぎ手を選んだのだ……!」
バルトロメオが感涙にむせび、祈りを捧げる。
「みんな!」
ルークは真珠針を掲げ、仲間たちへと振り返った。
その瞳には、どんな深海の暗黒をも照らし出す、不屈の決意が宿っていた。
「行こう! 海淵の底へ……海の結節点を、僕たちの手で仕立て直すんだ!!」
「「おおおおおッ!!」」
守護聖獣たる機織りの鯨が、港の外で高らかに応じるように潮を吹いた。
南の海の深淵を救うための、真の決戦の幕が上がった。




