第44話:不完全な強さ
重厚な金属の軋みと、巨大なピストンが蒸気を吐き出すリズミカルな振動が、移動要塞『アイアン・キルト号』の床を通じて足裏に伝わってくる。
八本の巨大な多関節脚が赤褐色の荒野を踏みしめ、要塞は西の空——黒雲が渦巻く『虚無の大渓谷』へと向けて、着実に進軍を続けていた。
「おいおい、坊主! そっちの第三脚の魔導油圧パイプ、もうちょいなんとかならねえかい!?」
要塞下層の機関部。油と石炭の匂いが充満する整備場で、巨大なスパナを担いだドワーフの機関長バッカスが、頭を掻きむしりながら叫んでいた。
配管の継ぎ目から、高圧の青白い魔力蒸気がシューシューと勢いよく噴き出している。
「待ってください、今やります!」
ルークは右手にはめた古びた革の指貫に意識を集中させた。
左の金瞳がカッと見開かれ、配管の破損部を取り巻く魔力の流れ——ほつれ、引き千切れた金属繊維の魔糸が、鮮明な光の筋となって視界に浮かび上がる。
「解糸——余分な歪みを解いて……接糸!」
ルークの指先から放たれた白銀の魔糸が、目にも留まらぬ速さで配管の裂け目を縫い合わせていく。
異なる金属同士の繋ぎ目に、ルーク自身の温かな魔力がパッチワークのように織り込まれ、一瞬で強固な強化結節が形成された。
ピタリ、と蒸気の漏れが止まる。
それどころか、修繕された配管からは以前よりも滑らかで純度の高い魔導エネルギーが脈打ち始めた。
「が、ガハッ!? なんだこりゃあ! ただ穴を塞いだだけじゃねえぞ! 圧力の伝達効率が三割も跳ね上がってやがる!」
バッカスが目を丸くしてメーターを叩いた。
周囲で作業していた職人たちからも、どよめきと口笛が上がる。
「すげえぞ、ステラ様の坊主!」
「おいおい、ウチの機織り機の駆動軸も直してくれよ!」
「こっちの装甲板のリベットも頼む!」
「あはは……順番に見ますから、ちょっと待ってくださいね!」
汗を拭いながら笑顔で応じるルークの姿を、通路の入り口からセラとミーシャが微笑ましそうに眺めていた。
「……ふふ。ルークはどこへ行っても、あっという間にみんなの『仕立て屋』さんになってしまうのね」
セラが手にした麻布のタオルをルークに手渡す。
「ありがとうございます、セラさん」
「少しは休みなさいよ。さっきから要塞中の壊れた魔道具を片っ端から直して回っているでしょう。いくら魔力消費が少ないと言っても、集中力を持っていかれるわ」
「うん、でもね……すごく楽しいんだ」
ルークはタオルで額の汗を拭いながら、機関部の職人たちを見渡した。
「王都にいた時は、僕の力は『出来損ない』の役立たずだって言われてばかりだった。でも、ここでは僕の『継ぎ接ぎ』が、みんなの役に立ってる。……壊れたものを直して、みんなが笑ってくれる。それだけで、僕の全部が満たされる気がするんだ」
ルークの澄んだオッドアイに見つめられ、セラは胸の奥がキュッと締め付けられるような温かさを覚えた。
完璧であることを強要され、少しの綻びも許されなかったヴァルシュタイン公爵家での息苦しい日々。
失敗を恐れ、常に氷のような仮面を被っていた自分が、この少年と出会ってどれほど救われたことだろう。
「……私も、役に立たなくちゃね」
セラは自らの白い指先を見つめた。
その薬指には、ルークが以前修繕してくれた、小さな氷水晶の指輪が光っていた。
かつては冷徹な完璧さだけを求めていた彼女の氷織りは、今やルークの継ぎ接ぎの温もりを知り、しなやかで折れない強さを宿し始めていた。
* * *
要塞の屋上甲板。
荒野の砂風が吹き荒れる中、ガレットとヴァルドが激しい剣戟を交わしていた。
ギィィィンッ! バチバチバチッ!
ガレットの剛剣が、重厚な大気を切り裂いてヴァルドの肩口へと振り下ろされる。
対するヴァルドは、全身にプラチナ色の雷糸を纏い、最小限の体捌きでそれを覘すと、雷を凝縮させた短剣の切っ先でガレットの喉元へ鋭い突きを放った。
「甘いぞ、ガレット! 大振りすぎる!」
「へっ、これくらい豪快じゃねえと、分厚い装甲は叩き割れねえんだよッ!」
ガレットが剣の柄を握り直すと、ルークが以前修繕した「結び目」から、眩いばかりの紅蓮の魔力が爆発的に吹き出した。
力任せの強振が、空気を爆縮させながらヴァルドの雷剣を弾き飛ばす。
「ぐっ……!?」
ヴァルドが後方へ跳び退き、甲板に靴底を擦りながら着地した。
手首にかかる強烈な痺れに、ヴァルドは驚きの色を隠せない。
「……貴様、以前よりも剣の魔力伝達速度が上がっているな」
「おうよ! さっきルークが剣の重心と魔糸の結び目をちょいと調整してくれたんだ。信じられねえくらい手に馴染むぜ!」
ガレットが得意げに笑う。
「ふん……あいつの手にかかれば、どんな無骨なナマクラも名剣に化けるというわけか」
ヴァルドは自らの雷装具を見つめ、自嘲気味に呟いた。
「ヴァルド様も、見てもらったらいかがですか?」
甲板のベンチで魔導書を開いていたミーシャが、丸眼鏡を押し上げながら声をかけた。
「ルークさんの『裁糸』と『接糸』は、ヴァルド様の雷織りの微細な負荷も緩和できるはずです」
「……断る」
ヴァルドは冷たく背を向けた。
「俺の魔術は、父から……アーヴェルから叩き込まれたものだ。完璧な雷織りの体系に、他人の手を加える必要はない」
「本当に、そう思ってるのかよ?」
ガレットが剣を担ぎ、ヴァルドの背中に言葉を投げかけた。
「お前、さっきからずっと西の空を睨んでるじゃねえか。……大院長の特務隊と戦うのが、本当は怖いんじゃねえのか? 父親を裏切った実感が、今になって押し寄せてきてるんだろ」
「黙れッ!!」
バチィッ!! と激しい青白い火花がヴァルドの周囲に爆発した。
その瞳には、隠しきれない怒りと、それ以上に深い苦悩が渦巻いていた。
「俺は……父の創る『完璧な世界』を信じていた。弱者を淘汰し、綻びのない絶対の秩序こそが、この引き裂かれた世界を救う唯一の道だと信じて疑わなかった! だが……父がやろうとしているのは救済などではない。ただの破壊と虐殺だ! 俺が誇りにしてきた十七年間は、一体何だったのだ……!?」
叫ぶヴァルドの肩が、微かに震えていた。
幼い頃から大院長の息子として、常に完璧なエリートであることを求められ、父の期待に応えることだけを生きがいにしてきた少年の、魂の叫びだった。
「……ヴァルドさん」
甲板への階段を上がってきたルークが、静かに歩み寄った。
「ルーク……貴様まで、俺を憐れみに来たのか」
「憐れむだなんて、そんなことしません」
ルークは首を横に振った。
「僕には、ヴァルドさんの苦しみのすべてはわかりません。でもね……壊れてしまった過去は、消すことはできないけれど、新しく縫い合わせることはできると思うんです」
「縫い合わせる……?」
「はい。ヴァルドさんが積み重ねてきた努力も、誇りも、決して無駄じゃありません。信じていたものが間違っていたと気づいたなら、そこから新しい糸を紡げばいい。……僕たちの服だって、泥で汚れたら洗い、破れたら当て布をして、もっと頑丈に仕立て直すんです。人間だって、きっと同じですよ」
「……当て布、か」
ヴァルドは呆れたように息を吐き、それから空を仰いだ。
「どこまでも、仕立て屋の理屈だな。……反吐が出るほど、おめでたい奴だ」
そう言いながらも、ヴァルドの拳の力は静かに抜けていた。
完璧な雷織りの天才が、初めて自らの「不完全さ」を受け入れた瞬間だった。
* * *
その時だった。
ギィィィィィィィン……ッ!!
耳を劈くような金属の擦過音が、遥か前方の荒野から響き渡った。
同時に、アイアン・キルト号の装甲全体がガタガタと激しく共振し、前進速度が急激に鈍る。
『敵襲ゥッ! 全員、戦闘配置につけ!!』
拡声魔導器から、オルカの切迫した怒号が轟いた。
ルークたちが甲板の手すりに駆け寄り、前方を見下ろすと、荒野の地平線から信じがたい光景が迫っていた。
赤褐色の荒野を覆い尽くす、銀色の無数の『糸』。
それは単なる糸ではない。
触れるものすべてを分子レベルで切り刻む、超極細の魔導刃糸——『断ち糸』の波だった。
荒野の巨大な岩塊が、刃糸の波に触れた瞬間、豆腐のようにスパスパと賽の目に切り裂かれ、砂塵となって崩れ落ちていく。
「なっ……大地の岩が、切り刻まれている……!?」
ガレットが戦慄する。
「この刃糸……間違いありません!」
セラの顔が、一瞬にして凍りついた。
「紡術院直属・執行特務隊の斥候部隊……! そして、この冷酷な糸の配置は……叔父様の直弟子たちよ!」
刃糸の群れの向こうから、十数騎の漆黒の魔導バイクに跨った部隊が、砂塵を切り裂いて猛スピードで接近してきていた。
全員が顔の半分を覆う鉄のバイザーを装着し、手には長大なワイヤーカッターのような魔導兵装を構えている。
『ヒハハハッ! 見つけたぞ、反逆者のネズミども!』
『ギルフォード総隊長より特令! 貴様らを細切れにして、虚無の大渓谷への肥やしにしてやる!』
「迎撃するぞ!」
ヴァルドが雷を滾らせ、真っ先に甲板から飛び降りようとした。
「待ってください、ヴァルドさん!」
ルークが叫び、ヴァルドの腕を制止した。
「あの刃糸の波……ただ突っ込んだら、どんな雷の防壁でも切り刻まれます!」
「なら、どうする! このままでは要塞の脚が切断されるぞ!」
「僕とセラさん、そしてミーシャで道を作ります!」
ルークはセラと視線を合わせた。
「セラさん、僕の『裁糸』に合わせて、氷の保護膜を織れますか? 切った糸の反動を、氷で受け止めてほしいんです!」
「……ええ、任せて!」
セラは迷いなく頷いた。
かつての恐怖は消え去り、その瞳には凛とした決意が満ちていた。
「ミーシャ、記述魔術で刃糸の結節点の座標を割り出して!」
「了解です! 『解析術式・天の網』——座標、右三、上十二、結節点三十六箇所をマーキング!」
ミーシャの放った光の文字が、虚空の刃糸の弱点を次々と浮かび上がらせる。
「行くよ、セラさん!」
「『氷織り・千花繚乱』——!」
セラの銀髪が舞い上がり、要塞の前方に巨大な氷の花弁が何重にも咲き誇った。
刃糸が氷に触れ、激しい火花を散らしながら速度を落とす。
その一瞬の隙を、ルークは見逃さなかった。
「僕たちの仲間を……絶対に切らせはしない! 万象の縫い糸——展開ッ!!」
ルークの両目から金と銀の光が溢れ出した。
右手の指貫から射出された七色の魔糸が、ミーシャが示した三十六箇所の結節点へと正確無比に突き刺さる。
「裁糸……そして、反転接糸!!」
パツンッ! パツンッ! と心地よい切断音が連鎖した。
特務隊が誇る不可視の刃糸が次々と解体され、宙に漂う無害な魔力の残滓へと還元されていく。
さらにルークは、解体した刃糸の魔力を瞬時に縫い合わせ、逆に特務隊のバイクの足元へと絡め取らせた!
『な……馬鹿な!? 俺たちの刃糸が、勝手に結び合わされて……動けない!?』
「今だ、ガレット! ヴァルドさん!」
ルークが叫ぶ。
「っしゃあァァァッ! 叩き割れェェッ!!」
ガレットが甲板から大跳躍し、紅蓮の剛剣を大地へ叩きつけた。爆炎が特務隊の陣形を粉砕する。
「消えろ、亡霊どもめが!」
続いて舞い降りたヴァルドが、プラチナの雷撃を一閃。
拘束され身動きの取れない特務隊の魔導バイクが、次々と青白い雷光に呑み込まれ、爆散していった。
わずか数分の出来事だった。
紡術院が恐れる執行特務隊の精鋭斥候部隊は、ルークたちの完璧な連携の前に、一人残らず無力化され、荒野に倒れ伏していた。
「……見事な連携だね、まったく」
要塞の屋上に現れたオルカが、感服したように煙管を鳴らした。
息を整えるルークたちの前で、拘束された特務隊の隊長が、血を吐きながら忌々しそうに嘲笑った。
「ぐ、ぐふっ……喜ぶのは……今のうちだぞ……」
「何だと?」
ヴァルドが冷たく踏みつける。
「ギルフォード総隊長は……すでに『虚無の大渓谷』の最深部……第二結節点の『大封印杭』に到達している……あと数刻もすれば……結節点は完全に切断され……世界帷の西半分が……崩壊する……! 貴様らが辿り着いた時には……すべて手遅れだァッ!」
隊長の叫びが、不気味に荒野に木霊した。
西の空を見上げれば、大渓谷の上空に渦巻く黒雲の中心から、不吉な紫色の亀裂が天へと走り始めていた。
時間がない。
第二の結節点が完全に断ち切られるまで、残された猶予はごく僅かだった。
「ルーク!」
セラがルークの手を強く握りしめた。
「うん……急ごう! ギルフォード総隊長のところへ!」
アイアン・キルト号の全脚部が最大出力で駆動音を轟かせた。
五人と『繕い屋』を乗せた移動要塞は、黒雲渦巻く虚無の大渓谷へと向けて、砂煙を蹴立てて全速力で突入を開始したのだった。




