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魔術の"出来損ない"と呼ばれた少年は、壊れた世界を繋ぐ唯一の【継ぎ手(リンカー)】でした  作者: 六井求真


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第45話:虚無の大渓谷

大地の裂け目は、まるで世界の傷口そのものだった。


 赤褐色の平原が突如として唐突に途切れ、視界のすべてを飲み込むような底知れぬ大深淵——『虚無の大渓谷(アビス・ガージ)』。

 谷底から吹き上げる冷気には、陽光を遮るほど濃密な紫色の瘴気と、無数のほつれ(アンレイヴ)の叫び声が混ざり合っていた。

 遥か谷底は見えず、ただ千尋の暗黒が広がるばかり。落ちれば二度と現世には戻れない、世界の裏側へと直結した奈落の底。


「止まりな、アイアン・キルト号! これ以上進むと崖ごと崩落に巻き込まれるよ!」


 オルカ・サージの鋭い号令とともに、移動要塞の八本の多関節脚が砂煙を上げて停止した。

 崖の縁に立ったルークたちの前で、突風が砂煙を吹き払う。


「……あそこです!」


 ミーシャが震える指で谷の中央を指し示した。

 深淵の断崖と断崖を繋ぐ、古代の超巨大な石造りのアーチ橋——『断絶の天橋』。

 その橋の中央、吹き荒れる暴風の中にそびえ立っていたのは、高さ三十メートルを超える巨大な黒水晶の角柱だった。


「原初の第二結節点……『黒水晶の大封印杭』!」


 ルークの左の金瞳が、その封印杭の周囲に渦巻く膨大な魔力を捉えた。

 かつて原初の紡ぎ手が打ち込んだその巨杭は、地下の裂け目を力づくで繋ぎ止め、西大陸の世界帷(せかいい)を支える要の結節点だった。

 しかし今、その黒水晶には無数の亀裂が走り、結晶の内部から七色の光の粒子が血のように噴き出していた。


「見て……杭の周りに、無数の魔術結界が張られているわ」


 セラの銀髪が風に乱れる。

 黒水晶の杭の周囲を取り囲むように、漆黒の外套に身を包んだ数十人の紡術師たちが布陣していた。

 帝国紡術院直属・執行特務隊の本隊。

 彼らが展開する魔導増幅器から、何千何万本もの銀色の極細ワイヤーが杭へと巻き付けられ、ギリギリと締め上げられている。


 そして、その中心——黒水晶の杭の直下に、一人の男が静かに佇んでいた。


 仕立ての良い漆黒の礼装に、純白の手袋。

 整えられた銀灰色の短髪と、冷たい怜悧な切れ長の瞳。

 腰には細身の魔導指揮刀を佩き、男が細い指先を微かに動かすたびに、空間そのものが鋭い金属音を立てて微細に軋んでいた。


「……ギルフォード叔父様」


 セラの声が、恐怖と嫌悪でかすかに震えた。

 執行特務隊総隊長にして、ヴァルシュタイン公爵家の筆頭処刑人。

 かつてヴァルシュタインの屋敷で、少しでも魔術の規律を乱した使用人や門弟を、一言の弁明も許さずにその場で解雇、あるいは『処分』してきた冷酷の権化。


「あいつが……『絶対切断』のギルフォードか」

 ガレットが唾を飲み込み、紅蓮の剛剣の柄を握り直す。


「親父の手足となって、数々の汚れ仕事をもみ消してきた男だ」

 ヴァルドがプラチナの雷光を瞳に宿らせ、低く唸った。

「感情を一切持たず、任務の遂行効率のみを神聖視する殺人人形。……かつて俺の雷織りの模擬戦でも、一切の容赦なく俺の手足を切り裂いた男だ」


「ルーク、作戦はどうする?」

 背後からオルカが太い煙管を口にくわえ、巨大な魔導擲弾筒を担ぎながら歩み寄ってきた。


「橋の上の特務隊本隊はざっと五十。全員が刃糸魔術を極めた一級の暗殺者だ。それに加えて、あのギルフォードの旦那は天衣級の化け物だ。普通に正面から突っ込んだら、橋を渡り切る前に全員ミンチにされちまうよ」


「……僕たち五人が、橋へ突入します」

 ルークはまっすぐに黒水晶の杭を見つめて答えた。


「オルカさんたちは、アイアン・キルト号の重火器で、橋の周囲の特務隊を牽制してください。結界を展開している増幅器を狙い撃ちにしてほしいんです」


「いい度胸だ。援護は任せな! ウチの野郎どもの火力は、帝国の正規艦隊にも引けを取らないよ!」

 オルカがニヤリと笑い、ルークの背中をバチンと叩いた。


「おい、お坊ちゃんたち! 死ぬんじゃないよ! 世界を直す前にくたばったら、ステラ様にあの世でぶん殴られるからね!」


「はい! 行こう、みんな!」


 ルークの号令とともに、五人は移動要塞からワイヤーを射出し、断崖を滑り降りて『断絶の天橋』の袂へと着地した。


     * * *


 ドガァァァァァンッ!! ズドォォォォンッ!!


 着地と同時に、頭上のアイアン・キルト号から猛烈な一斉射撃が開始された。

 魔導擲弾の雨が橋の両脇の崖を砕き、特務隊の展開していた外郭結界を激しく揺るがす。


『敵襲ッ! 反逆者どもが降りてきたぞ!』

『迎撃しろ! 杭の切断作業を止めるな!』


 特務隊の兵士たちが一斉にワイヤーカッターを構え、黒煙を切り裂いて殺到してくる。


「散れッ!」

 ガレットの剛剣が火花を散らし、突撃してきた三人の特務隊員のワイヤーを強引に叩き折る。

「ここは俺とヴァルドで食い止める! ルーク、セラ、ミーシャ! お前らは杭へ走れッ!!」


「無様な雑兵どもが……道を開けろッ!」

 ヴァルドの全身から解き放たれた高圧のプラチナ雷糸が、網のように天橋の幅いっぱいに広がり、特務隊の兵士たちを次々と感電させて薙ぎ倒していく。


「ありがとうございます! 行きます、セラさん!」


 ルークはセラの背中を守りながら、黒水晶の杭へと続く石畳を疾走した。

 その行く手を阻むように、三本の不可視の刃糸が虚空を切り裂いて迫る。


「『記述魔術・障壁符(スクリプト・シールド)』!」

 ミーシャの放った青白い魔導文字が盾となって刃糸を受け止め、パァンッと弾け飛ぶ。


「ルークさん、今です!」


 黒煙を抜けた先——黒水晶の巨大な封印杭の正面へ、ルークとセラは辿り着いた。


 そこには、周囲の爆炎と怒号などまるで存在しないかのように、冷然と佇むギルフォード・ヴァルシュタインの姿があった。

 男の足元には、黒水晶から引き剥がされた膨大な魔力の残滓が、銀色の削り屑となって散乱していた。


「……無様な足掻きだな、セラ」


 ギルフォードがゆっくりと振り返った。

 その声には、怒りも驚きも一切含まれていなかった。ただ、冷え切った絶対零度の軽蔑だけが宿っていた。


「出来損ないの落ちこぼれに誑かされ、一族の誇りを捨てて反逆者の汚名に塗れるとは。兄上……ヴァルシュタイン公爵の判断は正しかった。貴様のような規格外の不良品は、一族の系譜から切除されるべきだ」


「……不良品、ですか」

 セラは一歩前へ進み出た。

 その瞳には、かつて叔父の前で震えていた弱々しさは微塵もなかった。


「完璧であることだけを求め、少しの歪みも許さず、切り捨てることしかできない……そんな冷たい一族の系譜など、こちらから願い下げです、ギルフォード叔父様」


「口が減らないな」

 ギルフォードは純白の手袋をはめた右手を、スッと胸の高さへと掲げた。


「完璧とは、無駄な縫い目をすべて削ぎ落とした先にある。感情、温情、迷い……そうした夾雑物を完全に切除してこそ、世界は真の美しさを得る。大院長アーヴェル様が目指す『大織直し』こそが、この不完全な世界を救う唯一の絶対律だ」


「違う!」

 ルークが叫び、セラの隣へと並び立った。


「世界は、綺麗な布だけでできているんじゃない! 色んな人がいて、不揃いな糸が交じり合って、破れたら誰かが繕って……そうやって繋がっているから、生きているんだ! 切り捨てるだけの世界なんて、ただの冷たい死骸だ!」


 ルークの言葉に、ギルフォードの冷徹な眼差しが向けられた。


「……貴様が、ステラ・アスキスの遺児か。なるほど、母親と同じく、下劣な『継ぎ接ぎ』の妄言を吐く」


 ギルフォードが右手の指先を、微かに弾いた。


 キィィィィィィィン……ッ!!


 大気が悲鳴を上げた。

 目に見える魔力など何もない。しかし、ルークの左の金瞳には、信じがたい光景が映し出されていた。


 男の指先から放たれたのは、一本の糸ではない。

 空間の魔力粒子そのものを分子結合の隙間に沿って完全に断ち切る、絶対の切断概念——『断絶の天衣』。


「ルーク、危ないッ!!」


 セラが咄嗟に氷の防壁を三重に展開した。

 しかし——


 スパァァァァンッ!!


 何百層もの密度で圧縮されたセラの最高強度の氷壁が、まるで熱したナイフで撫でられたバターのように、音もなく真っ二つに両断された。

 切断面は分子レベルで鏡のように滑らかに磨き上げられ、崩壊した氷の破片がパラパラと石畳へ散らばる。


「なっ……私の氷織りが、一瞬で……!?」


「私の刃糸の前に、繋がった物質など存在しない」

 ギルフォードが静かに歩を進める。

「分子の結合、魔力の編み目、空間の歪み……すべてを切り離す。それが私の天衣——『絶対切断《アブソリュート・シザーズ》』だ」


 ギルフォードが両手を広げた。

 その瞬間、天橋の上空全体に、目に見えない無数の死の刃が張り巡らされた。

 ルークの皮膚が、触れてもいないのにピリピリと裂けるような痛みを覚える。

 これまで戦ってきたどんな敵とも違う。

 敵の魔術を「解体して再構成する」というルークの戦術すら、触れた瞬間に思考の糸ごと切り刻まれるような、圧倒的なまでの『断絶』の暴力。


「消え去れ、出来損ないども」


 ギルフォードの手が振り下ろされた。


 虚空から降り注ぐ、全方位からの不可視の切断刃。

 逃げ場のない死の結界の中で、ルークは右手にはめた母の古い指貫を、強く、強く握りしめた。


「切られたって……何度でも繋ぐ!!」


 絶望的な切断の嵐の中、ルークの瞳が黄金の光を爆発させた。

 西の深淵を揺るがす、命を懸けた真の激闘の幕が上がった。

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