第43話:繕い屋の砦
装甲馬車が砂塵を巻き上げながら進む百裂の谷は、まるで巨人の爪痕のように鋭く切り裂かれた赤褐色の岩山が延々と続いていた。
風が谷を吹き抜けるたび、魔力の残滓を含んだ赤い砂が車体を激しく叩き、甲高い軋み音を立てる。
「おいおい、舌を噛むなよ! ここからが本番の難所だ!」
御者台からオルカ・サージの野太い声が飛ぶと同時に、馬車は急激に左へと舵を切り、人一人通るのがやっとに見える狭い岩の裂け目へと突入した。
両脇にそびえ立つ断崖絶壁が太陽の光を遮り、視界が一気に薄暗い青紫色の闇へと沈む。
「きゃっ……!?」
激しい揺れにセラがバランスを崩し、咄嗟にルークの腕を掴んだ。
ルークはしっかりとセラの体を抱き留め、車内の手すりに片手を回して踏ん張る。
「だ、大丈夫ですか、セラさん」
「え、ええ……ありがとう、ルーク。情けないわね、これくらいで慌てるなんて」
セラは頬を微かに染めながら姿勢を正したが、掴んだルークの服の裾は離そうとしなかった。
先ほど大院長から下された「永久追放」と「指名手配」、そして実家であるヴァルシュタイン公爵家からの「勘当」。その衝撃の痛手は、完璧主義を貫いてきた少女の心に、依然として深い影を落としていた。
「へへっ、お嬢さん、気にするこたぁねえよ! 王都の温室育ちがこの悪路で吐かねえだけでも大した根性だ!」
煙管をくゆらせながら笑うオルカの言葉に、隣で踏ん張っていたガレットが口を開いた。
「なあ、オルカの姐さん! さっき言ってた『繕い屋』の本拠地ってのは、一体どこにあるんだ? こんな岩だらけの谷底に、街なんかあるようには見えねえけどよ」
「街だと? そんな定住地なんぞ構えてたら、とっくの昔に帝国の魔導憲兵隊に焼き払われちまってるよ」
オルカは不敵に片目を細め、煙管の先で前方を指し示した。
「アタシらの家は、常に動くのさ。——ほら、見えてきたよ。アタシらの誇り、鉄と布の動く城がね!」
狭い岩の回廊を抜けた瞬間、突如として視界が大きく開けた。
そこは、四方を天を突く赤壁に囲まれた、巨大なカルデラ状の盆地だった。
そしてその盆地の中央に鎮座していた巨大な影を目にした瞬間、ミーシャが手帳を取り落としそうになりながら悲鳴のような声を上げた。
「な……なんですか、あれ……!? 信じられません……! 巨樹……いえ、船……!?」
そこにいたのは、全長百メートルを優に超える、超巨大な多脚装甲移動要塞だった。
無数の巨大な鉄の車輪と、八本の魔導駆動の多関節脚。
装甲の至る所が、異なる色合いの鋼板、真鍮の歯車、さらには様々な防護織布を継ぎ合わせた巨大なパッチワークによって覆われている。
甲板の上には無数のテントや煙突が立ち並び、真っ黒な蒸気と七色の魔導煙を空へと吐き出していた。
「——移動城塞『アイアン・キルト号』。アタシら流浪紡術師団『繕い屋』の心臓部さ」
オルカが誇らしげに胸を張った。
「帝国から追われた職人、規格外の魔力を持っちまって故郷を焼かれたはみ出し者、そして……壊れた世界を直す術を捨てきれなかった馬鹿者たちの、動く巣穴だよ」
馬車が巨大要塞の真下へと滑り込むと、要塞の下部ハッチが重々しい音を立てて開いた。
スロープを駆け上がり、要塞の内部へと入った瞬間、外の荒涼とした砂嵐とは打って変わり、熱気と喧騒が五人を包み込んだ。
「オルカの頭が帰ってきたぞー!」
「追手を撒いたのか!?」
「怪我人はいるか! 布と針を用意しろ!」
要塞の内部は、まるで巨大な職人の市場だった。
鉄を叩く鍛冶の音、布を織る機織り機の軽快なリズム、魔導回路を溶接する青白い火花。
誰もが煤に汚れ、破れた服を色鮮やかな布で補修した作業着を身にまとっているが、その瞳には王都の貴族たちが決して持たない、生き生きとした力強い光が宿っていた。
「全員、よく聞きな!」
オルカが馬車から飛び降り、大声で要塞内に響かせた。
「今日からこの子たちはアタシらの大事な客人……いや、新しい仲間だ! 王都から追われてきたお尋ね者だが、アタシらの大恩人、ステラ様の息子とその仲間たちだよ!」
その言葉が響いた瞬間、作業をしていた職人たちが一斉に手を止め、驚愕の表情でルークを見た。
「ステラ様の……!?」
「あの、十六年前にこの船を救ってくれた、あのステラ様の息子さんかい!?」
「本当だ……! あの右手の指貫、ステラ様が昔使っていたのと同じ細工だ!」
どよめきが歓声へと変わり、屈強な職人たちが次々とルークたちの周りに集まってきた。
王都の紡術院では「出来損ない」「異端」「反逆者」と罵られ、石を投げられた彼らを、ここでは誰もが温かい歓迎の眼差しで迎えていた。
「おい坊主、よく生きてここまで来たな!」
「腹は減ってねえか? 温かいシチューがあるぞ!」
「嬢ちゃんたちも、服がボロボロじゃねえか。新しい布を見繕ってやるよ!」
次々と差し出されるパンや毛布に、ガレットが呆気にとられながら頭を掻いた。
「な、なんだよこれ……指名手配犯を歓迎する奴らが、この世にいるのかよ」
「ふん……理解に苦しむな」
ヴァルドが腕を組み、冷ややかな視線を周囲に向けた。
「国家への反逆者として追われる身を匿えば、この要塞ごと帝国の魔導爆撃で消し炭にされるリスクがある。合理的な判断とは言えんな」
「合理的、ねえ」
オルカがヴァルドの前に歩み寄り、その胸板をドスンと指先で突いた。
「お前さん、大院長の息子だろ。金髪の雷織り……顔立ちがアーヴェルの若い頃にそっくりで反吐が出るが、その目の光だけは腐っちゃいないようだ」
「……何だと」
「損得や効率ばかりで測れる世界なら、とっくの昔に世界帷は崩壊してんだよ。壊れた布切れを繋ぎ合わせ、泥を啜りながらでも明日へ生き延びる。それがアタシら『繕い屋』の流儀さ。大院長の息子だろうが、腹が減ってりゃメシを食わせる。文句があるかい?」
ヴァルドは言葉に詰まり、フンと鼻を鳴らして視線を逸らした。
しかし、その表情からは先ほどまでの尖った険しさが微かに薄れていた。
* * *
要塞の最上層にある司令室。
丸い天窓から薄暮の星空が見えるその部屋で、ルークたちは湯気の立つ温かい羊肉のシチューと堅焼きパンを口にしていた。
冷え切った体に染み渡る濃厚な温もり。
ルークは匙を止め、向かいの席に座るオルカを見つめた。
「オルカさん……聞かせてください。僕の母さんのこと……ステラ・アスキスのことを」
部屋の中の空気が、静まり返った。
セラも、ガレットも、ミーシャも、そして壁際に立つヴァルドも、全員がオルカへと視線を集中させた。
オルカは静かに煙管を置き、自らの黒革の眼帯にそっと手を当てた。
「……十六年前、アタシらは帝国の東部国境で、巨大な『大裂け目』の暴走に巻き込まれた」
オルカの低くハスキーな声が、静寂に満ちた部屋に染み渡る。
「アタシらの船は半分引き裂かれ、仲間は次々とほつれに飲み込まれた。アタシのこの右目も、その時に食いちぎられたのさ。……万事休す、全員が死を覚悟したその時、空から舞い降りてきたのが、ステラ様だった」
「母さんが……」
「ああ。当時のステラ様は、帝国紡術院の歴史上最年少で最高位——『天衣紡術師』の称号を授与された、名実ともに帝国最強の紡術師だった。だが、彼女は豪華絢爛な宮廷を捨て、たった一人で世界中の裂け目を巡り、命を削って繕い続けていた」
「どうして……そんな最高峰の地位にいた方が、宮廷を捨てたのですか?」
ミーシャが身を乗り出して尋ねる。
「アーヴェル・グランの野望に、気づいちまったからさ」
オルカの言葉に、ヴァルドの肩がピクリと跳ねた。
「アーヴェル大院長が提唱する『大織直し』……一見すれば、傷だらけの世界を完全無欠の美しい布で包み直す、救済の計画のように聞こえる。だが、その実態は違う。アーヴェルがやろうとしているのは、現在の世界を構成する何億もの人々の命、土地、記憶の魔糸をすべて『規格外のゴミ』として強制的に解体・消去し、自らが設計した絶対統制の魔術結界に置き換えるという、狂気のジェノサイドだ」
「な……なんですって……!?」
セラが息を呑み、青ざめた手で胸元を押さえた。
「ステラ様は、アーヴェルに猛反対した。『世界は不完全だからこそ、人々が手を取り合って繕い、生きていけるのだ』とね。だが、院長選定で敗れ、逆に反逆の濡れ衣を着せられそうになったステラ様は、紡術院の奥底に封印されていた秘宝——『原初の七針』の一つを持ち出して出奔した」
オルカの琥珀色の瞳が、ルークの右手へと向けられた。
「その指貫だよ、ルーク。それは、数千年前にこの世界を初めて縫い合わせた『原初の紡ぎ手』の遺物さ」
「この指貫が……」
ルークは自らの右手を持ち上げ、革の表面に刻まれた無数の細かい縫い目を見つめた。
エッジタウンを出る朝、孤児院のマルタ院長から手渡された、たった一つの形見。
「ステラ様は言っていたよ。『私の子は、きっと世界の誰よりも出来損ないと呼ばれるでしょう』ってね」
「え……?」
ルークは驚いて目を見開いた。
「母さんが……僕のことを、出来損ないって?」
「ああ。だがね、それは嘲笑じゃない。深い祈りだったのさ」
オルカは優しく目を細めた。
「『あの子は、ひとつの綺麗な魔術を織り上げることができない。火も、水も、雷も、単体では何の役にも立たない不揃いな糸しか出せない。……けれど、だからこそ、あの子は他人の痛みがわかる。千切れた糸を、捨てられた布端を、決して見捨てずに繋ぎ合わせることができる唯一の継ぎ手になる』……そう言って、ステラ様は笑っていたよ」
胸の奥が、熱く焼けるように疼いた。
幼い頃から、誰もが当たり前にできる「織る」という行為ができず、何百回、何千回と毛玉のような魔糸を散らかしては、無能だと笑われてきた。
けれど、母は知っていたのだ。
自分が「織れない」のは欠陥ではなく、世界中の壊れたものを抱きしめ、繋ぎ合わせるための「器」なのだと。
「ルーク……」
セラが隣から、そっとルークの手の上に自らの白い手を重ねた。
その温もりが、ルークの強張っていた心をじんわりと解きほぐしていく。
「ありがとう、セラさん。……僕、母さんの言葉を聞けて、本当によかった」
ルークが前を向くと、オルカは満足げに頷き、机の上に一枚の古びた羊皮紙の地図を広げた。
そこには、帝国全土と未踏の荒野が詳細に記され、三つの地点に赤い印がつけられていた。
「感傷に浸るのはここまでだ。これを見な」
五人が机を囲み、地図を覗き込む。
「帝国の大地を支える、原初の『三大結節点』……一つ目は、お前さんたちが死闘を演じて修繕した、東の果て『天蓋の灯台』だ」
「はい。あそこの大結節点は、ルークさんが完璧に縫い合わせました」
ミーシャが頷く。
「ああ。だが、アーヴェルの計画は止まっちゃいない。むしろ、東の結節点の奪還に失敗したことで、奴らは焦って次の手を打ってきた」
オルカの太い指が、地図の西側——広大な山岳地帯に刻まれた、巨大な亀裂を指した。
「西方の深帷域——『虚無の大渓谷』。第二の結節点だ」
「虚無の大渓谷……」
ガレットが眉をひそめる。
「噂に聞いたことがあるぜ。そこら中がほつれだらけで、足を踏み入れた探索隊が誰一人戻ってこねえっていう、死の谷だろ?」
「そうだ。そして現在、その大渓谷の最深部に向けて、紡術院の最高執行機関——『執行特務隊』の大部隊が進軍している」
「特務隊だと……!?」
ヴァルドが険しい声で割り込んだ。
「父直属の、汚れ仕事を専門とする冷酷な戦闘集団だ。連中を動かしたということは……」
「ああ、アーヴェルは力づくで第二の結節点を爆破・切断し、世界帷の崩壊を一気に加速させる気だ。奴の計算では、三つの結節点のうち二つを壊せば、世界帷の自己修復機能は完全に死に、大織直しの強制起動が可能になる」
部屋の中に、ピリリとした緊張が走る。
追手から逃げるだけでは、世界は救えない。
大院長の目論見を阻止するには、敵よりも先に虚無の大渓谷へと到達し、第二の結節点を防衛・修繕しなければならないのだ。
「オルカさん。僕たちを、その渓谷へ連れて行ってくれませんか」
ルークがまっすぐにオルカの隻眼を見つめて言った。
「言われなくてもそのつもりさ。アタシら『繕い屋』も、世界の終わりを指をくわえて待つつもりはねえからね」
オルカはニヤリと笑ったが、すぐにその表情を引き締めた。
「だが、今のままじゃ渓谷へ着く前に全滅だ。渓谷の守備隊には、特務隊の総隊長——『絶対切断』の異名を持つ天衣紡術師、ギルフォード・ヴァルシュタインが陣頭指揮を執っている」
ビクッ、とセラの肩が大きく跳ね上がった。
「ギルフォード……叔父様が……!?」
「セラの親戚なのか?」
ガレットが問う。
「……父の弟よ」
セラの唇から、血の気が失せていた。
「ヴァルシュタイン家で最も冷徹で、完璧な規律の信奉者……刃糸魔術の極致に達し、感情を持たない処刑人として、紡術院の裏社会で恐れられている男よ。……もし叔父様が相手なら、以前の暗殺者たちとは次元が違うわ」
「完璧主義の処刑人、ねえ」
オルカが鼻を鳴らし、ルークの肩を叩いた。
「なら丁度いいじゃないか。不揃いで不完全な継ぎ接ぎが、どれだけ頑丈で折れないか……その分からず屋の貴族サマの鼻っ柱に、たっぷり教えてやろうじゃないか!」
豪快なオルカの笑い声が、司令室の空気を明るく吹き飛ばした。
恐怖に震えていたセラの瞳にも、微かに闘志の光が宿る。
「……ええ。負けません。私はもう、あの冷たい一族の人形じゃないわ」
「よし、決まりだ!」
ルークは拳を握りしめ、仲間たちを見渡した。
「行こう、みんな。西の大渓谷へ……壊れかけた世界を、僕たちの手で繋ぎ止めるために!」
「「おおッ!!」」
アイアン・キルト号の汽笛が、夜の荒野に高らかに鳴り響いた。
追われる者たちの反撃の旅路が、今、西の空へ向けて力強く動き出した。




