第41話:追われる者たち
天蓋の灯台のレンズ室に、朝の柔らかな光が差し込んでいた。
東の水平線から昇る太陽は、穏やかな波間を黄金色に染め上げていた。
空を裂き、海を吸い上げていた天変地異は嘘のように鎮まり、崩壊寸前だった断絶の岬には、何千年も昔のような潮騒の音だけが静かに寄せては返している。
水晶の残骸の上に座り込み、肩で息をするルークの隣で、セラは破れた外套の裾を気にすることもなく、安堵の息を吐いていた。
「……終わったのね」
「うん。直せたよ、セラさん」
ルークが笑いかけると、セラはフッと頬を緩め、それから手持ちの魔導水筒から冷たい水をコップに注ぎ、ルークへと差し出した。
指先が触れ合うと、ほんのりと温かな魔力の余韻が伝わってくる。
「まったく、無茶ばかりするんだから。……空を縫い直すだなんて、教科書のどこを探しても載っていないわよ」
「へへっ、教科書に載ってねえからこそ、うちのルークの魔術なんだろ!」
ガレットが包帯の巻かれた腕を回しながら笑う。
その隣では、ミーシャが手帳に今回の修繕データの数値を興奮気味に書き留めていた。
「驚異的です……! 七色の『万象の縫い糸』を触媒にして、敵の天衣の魔力をそのまま世界の境界膜の修復資材に反転させるなんて……! これ、論文にして学会に提出したら、世界中の紡術の常識がひっくり返りますよ!」
「学会に提出、か」
窓辺で腕を組んでいたヴァルドが、自嘲気味に口元を歪めた。
その瞳は、昇る朝日の眩しさではなく、西の空——王都グランディスの方角を、深く険しい眼差しで見つめていた。
「その学会とやらが、まだ存在していればの話だがな」
「え……? ヴァルド様、どういうことですか?」
ミーシャがペンを止め、首を傾げた、その時だった。
ピピピピピ……ッ! ジジッ、ジジジ……ッ!
ミーシャの腰の革鞄の中で、厳重に封印されていたはずの『特級緊急魔導通信機』が、突如として狂ったように赤い警告灯を明滅させ、けたたましい電子音を鳴り響かせた。
王立紡術院の最高幹部と、各小隊長のみに配備される超長距離の秘匿通信具。
「な、何でしょう……!? この通信コード、第一教官室のレイラ教官直属の緊急周波数です!」
ミーシャが慌てて魔導ペンで通信機の封印水晶を叩いた。
パッと空中に浮かび上がったのは、青白い光で投影された立体映像——肩を激しく上下させ、額に脂汗を滲ませたレイラ・ファーストの鬼気迫る表情だった。
通信の向こう側からは、けたたましいサイレンの音と、何十人もの兵士の怒号、そして重い鉄扉が打ち破られる破壊音が混ざり合って響いてくる。
『——全員、聞きなさい! 私の声が聞こえているかしら!?』
「レイラ教官!?」
ルークが思わず身を乗り出した。
『よかった、繋がったわね……! 時間がありません、単刀直入に言います! 今すぐ断絶の岬から離れなさい! 王都へ戻ろうとしては絶対にダメよ!』
「教官、一体何が起きているのですか!」
ヴァルドが通信機の前に進み出る。
『大院長アーヴェル・グランが、動き出したのよ!』
レイラは背後を鋭く振り返りながら、早口で告げた。
『天蓋の灯台の天衣が解体された瞬間、大院長は臨時最高審議会を強制招集し、全会一致で特別非常大権を発動したわ。……あなたたち五人は、帝国結節点の破壊、および古代異端術を用いた反逆の首謀者として、紡術院より永久追放、ならびに帝国全土への指名手配通達が出されたわ!』
「なっ……!?」
セラの顔から、すっと血の気が引いた。
「ふざけるなッ!」
ガレットが叫ぶ。
「俺たちは世界を壊そうとしていた大院長の部隊を止めて、空を直したんだぞ!? なんで俺たちが反逆者なんだよ!!」
『真実など、権力者の前には紙切れ一枚の価値もないのよ、ガレット!』
レイラの悲痛な声が響く。
『大院長は、オルソンの事件も、パッチタウンの異変も、そして断絶の岬の崩壊も、すべて「ルーク・アスキス率いる異端組織のテロリズム」として帝国議会と民衆に発表したわ。……さらに、ヴァルシュタイン公爵家も、セラの身柄拘束と勘当を公式に受諾した』
「お父様が……私を、勘当……」
セラの唇が震え、その場に崩れ落ちそうになった。
完璧であることを求められ、その期待に応えられなくなった瞬間、実の父親からゴミのように切り捨てられた現実。
ルークは咄嗟にセラの肩を抱き寄せ、しっかりと支えた。
「セラさん、大丈夫だよ……! 僕たちがいる!」
「ルーク……」
セラはルークの胸元に縋り付き、震える指先でその服を強く握りしめた。
『通達には、最も凶悪な条項が付与されているわ』
レイラが声を一段低く落とした。
『「生死を問わず。見つけ次第、その場で解体・処分せよ」……帝国全土の魔導憲兵隊、ならびに紡術院の直属暗殺部隊が、すでにあなたたちの討伐へ向けて動員されているわ!』
ドガァァァンッ!!
通信の向こうで、教官室の扉が吹き飛ぶ轟音が響いた。
『貴様か、レイラ・ファースト! 反逆者への内通容疑で拘束する!』
『動くな! 魔力を解け!』
『……ここまでね』
レイラは通信機の向こうで、侵入してきた憲兵たちを一瞥し、それからルークたちへ向けて、慈愛に満ちた誇らしげな微笑みを浮かべた。
『ルーク、セラ、ヴァルド、ガレット、ミーシャ。……あなたたちは、私の最高の生徒よ。どんなに泥を投げつけられようと、あなたたちが成し遂げたことは、世界で一番誇らしい真実よ。……生き延びなさい。そして、いつかこの狂った世界を、あなたたちのその手で……!』
プツンッ……!!
通信が途絶えた。
レンズ室に、重苦しい沈黙が落ちた。
「レイラ教官……!」
ミーシャが口元を押さえ、涙を零した。
「……クソがァッ!!」
ガレットが床の石畳を力任せに殴りつけた。
「なんでだよ……! なんで正しいことをした俺たちが追われて、世界を壊そうとしたあの野郎がふんぞり返ってやがるんだよォッ!!」
「それが、父上の創り上げた『完璧な秩序』という名の牢獄だ」
ヴァルドは冷たく言い放ったが、その瞳の奥には、血の涙を流すような激痛が渦巻いていた。
「父上にとって、自らのシナリオ通りに動かない人間は、人間ですらない。……俺たちが生きている限り、あの男は大陸の果てまで刺客を放ち続けるだろう」
風が吹き込んできた。
レンズ室の窓から外を見下ろすと、断崖の絶壁の麓——岬へと通じる唯一の街道の向こうから、無数の砂煙が立ち上っていた。
何十頭もの魔導軍馬と、純白の天衣の旗を掲げた帝国軍の装甲魔導艇。
その数は、ゆうに数百を超えていた。
「もう……囲まれているわ」
セラが青ざめた顔を上げ、窓の外の包囲網を見つめた。
「退路はない。……私たち、どこへ行けばいいの?」
全員の視線が、自然とルークへと集まった。
かつて「魔力測定不能の出来損ない」と呼ばれ、最底辺の繕組に放り込まれた少年。
だが今、仲間たちの中心に立つその背中は、どんな英雄よりも頼もしく、温かな光を放っていた。
ルークは右手の人差し指にある、母の革の指貫を見つめた。
そして、ポケットから取り出した『万象の縫い糸』をギュッと握り締めた。
十六年前、母ステラもまた、こうして大院長アーヴェルによって追放され、孤独な逃避行を強いられたのだ。
けれど母は、決して絶望しなかった。
追われながらも、世界各地の裂け目を繕い、人々の命を繋ぎ続けた。
「逃げるんじゃないよ」
ルークの澄んだ声が、静まり返ったレンズ室に響いた。
仲間たちが目を見張り、ルークを見つめる。
「僕たちは、逃げるんじゃない。……直しに行くんだ」
ルークは窓の外、包囲網の向こうに広がる広大な大陸の地平線を見据えた。
「大院長は、この世界を『壊れた欠陥品』だって言った。だから、全部解体して新しく作り直すんだって。……でも、そんなの間違ってる。傷があっても、歪んでいても、この世界には僕たちが愛する人たちが生きているんだ」
ルークの金と銀の瞳が、力強く瞬いた。
「大院長が狙っている結節点は、まだ他にもある。……僕たちが先回りして、全部縫い直してみせる。世界の綻びを全部繕って、大織直しの計画を完全に止めてみせる。……そしたら、僕たちの無実も、レイラ教官の正しさも、全部証明できるはずだ!」
ルークの言葉が、凍りついていた四人の心に、消えることのない炎を灯した。
「……フッ、違いないな」
ヴァルドが腰の雷剣に手をかけ、不敵な笑みを浮かべた。
「指名手配の反逆者が、世界を救う旅に出るか。……面白い。乗ったぞ、ルーク」
「へっ! 最初からそのつもりだぜ!」
ガレットが大剣を担ぎ上げ、獰猛に笑った。
「世界中を相手に喧嘩を売るなんて、繕組の看板にゃピッタリじゃねえか!」
「はい! 大陸中の古代結節点の座標、私の頭の中にすべて入っています!」
ミーシャが涙を拭い、眼鏡を押し上げて力強く頷いた。
「……そうね」
セラが立ち上がり、白い外套を翻した。
その瞳から迷いは完全に消え去り、誇り高き氷の令嬢の輝きが戻っていた。
「ヴァルシュタインの名なんて、最初からいらなかったわ。……私は、あなたの隣で氷を紡ぐ、ただのセラよ。どこまでも付き合ってあげるわ、ルーク」
「みんな……ありがとう!」
ルークは大きく頷き、指貫を構えた。
階下から、包囲軍の足音と、突入を告げる号令が響いてくる。
「行くよ! 僕たちの、新しい旅へ!」
天蓋の灯台の窓を蹴破り、五人の少年少女は、広大な青空と自由の荒野へと飛び出した。
世界に拒絶された出来損ないたちの、世界を繋ぎ直すための反逆の旅が、今、始まった。




