第40話:空を縫い直す少年
ドクンッ……!!
巨大な水晶レンズを食い破るように鎮座する『天衣の心臓』が、心臓のように脈動するたびに、地底から響くような重低音がレンズ室の石壁を震わせた。
何億本もの純白の魔糸が複雑怪奇に絡み合い、球状に圧縮されたその巨大な塊からは、触れるものすべてを存在ごと消滅させる冷酷な神気が、間欠泉のように噴き上がっている。
レンズ室の窓ガラスはとうに砕け散り、吹き込む海風と、空へと逆流する海水が、白い霧となって部屋中に充満していた。
「来るぞッ! 防衛術式だ!」
ガレットの怒声が響いた。
天衣の心臓が激しく明滅した瞬間、その表面から、何千、何万という白銀の光針が、まるで針鼠の毛のように全方位へと一斉に射出された。
一本一本が、触れた物質の境界膜を切り裂く致死の刃。
「私に掴まりなさい! ——『氷織り・千層氷華陣』!!」
セラが杖を床へと突き立てた。
彼女の全身から溢れ出た青白い魔糸が、瞬時に幾重もの巨大な氷の百合を形作り、五人をドーム状に包み込む。
ドガガガガガッ!!
激しい雹のような破砕音が氷壁の外側を叩いた。
セラの唇から血が滲む。かつてのような脆い硬直を捨て、ルークによってしなやかさを与えられた氷壁であっても、天衣の心臓が放つ本能的な拒絶反応の威力は凄まじかった。
「保って数秒よ……! 外側から削るなんて無理だわ、ルーク!」
セラが歯を食いしばりながら叫ぶ。
「正面の光針を散らす! ガレット、合わせろ!」
ヴァルドが叫び、七色の雷剣を天へと掲げた。
「おうよ! 死ぬ気で道を作ってやるぜ!」
ガレットが赤銅色の魔力を全身に滾らせ、大剣を両手で構える。
「記述魔術、最大出力! 反発磁界、展開ッ!!」
ミーシャが魔導ペンを両手で握り、空中に巨大な古代文字の陣を描き殴った。
三人の力が同時に炸裂した。
ミーシャの反発陣が天衣の針の威力を押し戻し、ガレットの大上段の一撃が氷壁を飛び出して正面の針の群れを力任せに粉砕する。
そしてヴァルドの放った純白と虹のプラチナ天雷が、巨大な心臓の表面を覆う厚い魔糸の層を貫き、中心部へと通じるわずか一尺ほどの『風穴』を穿った。
「今だ、ルーク! 行けぇぇぇぇッ!!」
ヴァルドの絶叫が、暴風を切り裂いた。
四人が命を削って切り拓いてくれた、唯一無二の道。
ルークは地を蹴った。
足元の石床が砕ける。
少年の身体は弾丸のように宙を舞い、ヴァルドの雷が穿った天衣の心臓の裂け目へと、迷いなくその身を投じた。
* * *
心臓の内部は、音のない純白の深淵だった。
上下も左右もない。
ただ、見渡す限りの純白の魔糸が、寸分の狂いもない格子状に編み込まれ、絶対の秩序を保って回転していた。
侵入者を感知した天衣の防衛機構が、瞬時にルークの四肢へと絡みつく。
皮膚が焼かれ、指先が痺れ、衣服が端からチリチリと白い粒子へと分解され始める。
『無駄だ、出来損ないの少年よ』
空間全体から、アーヴェル・グランの冷酷な声が直接脳裏に響いた。
心臓の中心に浮かぶ、白銀の水晶。
そこに刻まれたアーヴェルの術式思念が、冷ややかにルークを見下ろしていた。
『この心臓は、大陸全土の世界帷を解体するために私が十年をかけて編み上げた、至高の天衣の核。一介の落ちこぼれが触れて解けるような代物ではない。……貴様はここで、我が新世界の最初の糧となるのだ』
「……そんなものに、なるもんか」
ルークは血の滲む唇を噛み締め、真っ直ぐに白銀の水晶を見据えた。
全身を縛り上げる純白の糸の激痛。
だが、その痛みの奥底で、ルークの右手の人差し指にある革の指貫が、まるで太陽のように熱く脈打っていた。
ポケットから解き放たれた『万象の縫い糸』が、ルークの周囲で七色の光の輪を描く。
母ステラ・アスキスが遺した、神代の記憶を宿す虹色の糸。
その糸が、アーヴェルの冷たい純白の空間に、温かな泥の匂いを、雨のしずくを、春の風を、燃える火の粉を運んできた。
『ステラの……糸だと……!?』
アーヴェルの思念に、初めて明白な動揺が走った。
「アーヴェル大院長。……あなたの言う通り、この世界は不完全です」
ルークは一歩、また一歩と、白銀の水晶へと歩みを進めた。
純白の糸が少年の肉体を切り裂こうとするが、万象の縫い糸がその傷口を瞬時に縫い合わせ、前へ進む力を与える。
「人は病気で死ぬし、理不尽な天災で大切な人を失う。僕も……物心ついた時から親がいなくて、出来損ないって笑われて、ずっと寂しかった」
ルークの金色の左目が、天衣の心臓の『始まりの一針』を、その核の奥底に捉えた。
大院長が最初に打ち込んだ、冷酷な結び目。
「でもね……壊れた靴を直したら、あの子は笑ってくれた。壊れた壁を直したら、孤児院の仲間たちと温かいスープが飲めた。傷だらけになっても、不揃いでも……誰かと手を繋ぎ合って笑える今が、僕には愛おしいんだ!」
ルークの両眼が、眩い閃光を放った。
金色の左目。銀色の右目。
原初の紡ぎ手が世界を縫い繋いだあの日の記憶が、少年の魂と完全に同期した。
「壊れたからって、全部消して作り直すなんて、絶対に認めない! ——解けて、混ざり合えッ!!」
ルークの指先が、白銀の水晶の中心へと突き刺さった。
「——解糸ッ!!」
パチンッ!
天衣の心臓の最も頑固な結び目が、少年の指先によって解き放たれた。
その瞬間、何億本もの純白の魔糸が張力を失い、まるで爆発した綿のように一斉に解け広がった。
『おのれ……おのれぇぇぇっ! 我が天衣を……世界の完全を愚弄するかァッ!!』
アーヴェルの残留思念が狂乱の絶叫を上げる。
だが、ルークは糸を切り捨てることはしなかった。
解き放たれ、宙を漂う膨大な純白の天衣の魔糸。
そのすべてを手繰り寄せるように、ルークは両手を虚空へと大きく広げた。
「捨てるんじゃない……あなたの天衣も、僕の継ぎ接ぎも、みんなの想いも……全部、縫い合わせるんだ!」
ルークの指貫から、万象の縫い糸が怒涛の勢いで噴き上がった。
七色の魔糸が、解けた何億本もの純白の天衣を包み込み、絡み合い、一つに融合していく。
白一色だった冷酷な光が、赤、青、緑、黄、紫、金——無数の命の色彩を宿した、極彩色の光の奔流へと生まれ変わっていく。
それは、テクストゥーラの創世以来、誰も成し得なかった奇跡。
至高の天衣を資材として取り込み、世界そのものを縫い直す——。
「——接糸・『原初縫合・天蓋修繕』ッッ!!」
ズバァァァァァァァァンッ!!
天蓋の灯台のレンズから、天空を貫く極大の光柱が撃ち放たれた。
白でも黒でもない。
夜明けの朝焼けと、満天の星空と、大地に咲き誇る花々をすべて溶かし込んだような、温かく眩い七色の光。
その光は、灯台のレンズを通じて、東の空を覆っていた冷酷な白銀の天幕へと直撃した。
チリチリと音を立てていた天衣の光網が、七色の光に触れた瞬間、柔らかな命の色彩へと染め変えられていく。
巨大な光の針が虚空を駆け巡る。
一針。
引き裂かれ、空へと逆流していた断絶の岬の海水が、重力を取り戻してドォォォンと海面へと戻っていく。
二針。
海と空の境界線に開いていた漆黒の裂け目が、色鮮やかな光の刺繍によって、丁寧に、優しく縫い閉じられていく。
三針、四針、百針、千針——!
空全体に、息を呑むほどに美しい『光のパッチワーク』が広がっていった。
不格好なはずの継ぎ接ぎ。
異なる色の布を縫い合わせたような温かな模様が、夜空を満たし、世界の皮膚——世界帷の傷痕を、すっぽりと包み込んでいく。
やがて、澄み渡る鐘の音が世界を満たした。
光の刺繍が夜空へと溶け込み、後には——擦り傷一つない、どこまでも澄み切った群青の夜空と、満天の星々だけが静かに瞬いていた。
逆流していた海は穏やかな凪となり、水平線が、太古の昔のように美しく海と空を隔てていた。
世界の修繕は、完了したのだ。
* * *
「……ふぅ……っ」
粉々に砕け散った水晶レンズの中心で、ルークは両眼の光を失い、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
全身の魔力を使い果たし、指先一つ動かない。
「ルークッ!」
駆け寄ってきたセラの細い腕が、倒れ込むルークの身体をしっかりと抱きとめた。
セラの胸の温もりと、ほんのりとした雪のような香りが、冷え切ったルークの頬を包み込む。
見上げると、セラの青い瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちていた。
「バカ……本当に、バカなんだから……! 空を縫い直すなんて……無茶苦茶よ……!」
「あはは……セラさん、泣かないでよ……綺麗に、直せたでしょう……?」
「ええ……! 世界で一番、綺麗だったわ……!」
セラはルークの頭を抱きしめ、声を上げて泣いた。
プライドも、名門の仮面も脱ぎ捨てた、一人の少女の温かな涙だった。
「やりやがった……あいつ、本当に空を直しちまいやがったぜ……!」
階段の入り口で、ガレットが大剣を杖にして座り込み、天井を見上げて豪快に笑った。
「歴史の……いえ、神話の塗り替えです……!」
ミーシャが眼鏡を拭いながら、涙声で笑う。
「……見事だ、ルーク」
ヴァルドが静かに歩み寄り、膝をついてルークの泥だらけの手を握りしめた。
「父上の天衣を、お前の継ぎ接ぎが完全に打ち破った。……俺たちの勝ちだ」
五人の笑顔が、夜明けの光が差し込み始めたレンズ室に満ちていた。
東の水平線から、黄金の朝日が昇ってくる。
海と空を優しく染めるその朝日は、少年少女たちの勝利を祝福するように、温かく輝いていた。
* * *
しかし——世界は、彼らを英雄としては迎え入れなかった。
同時刻。王都グランディス、王立紡術院の最上階。
大院長執務室の豪奢なデスクの前で、アーヴェル・グランは、手元の白銀の水晶盤がパリンと音を立てて粉々に砕け散るのを見つめていた。
その氷藍色の瞳には、一片の動揺もなかった。
ただ、底知れぬ絶対零度の殺意だけが、静かに渦巻いていた。
「……天蓋の灯台の天衣が、解体されたか」
アーヴェルはゆっくりと立ち上がり、窓の外の朝日に染まる王都を見下ろした。
背後に控えていた白法衣の審議員たちが、青ざめて膝をつく。
「大院長様……ルシアン様率いる第一席部隊も沈黙。……ヴァルド様と、あの出来損ないの少年が、結節点を修繕した模様です」
「出来損ない、か」
アーヴェルの唇から、冷酷な嘲笑が漏れた。
「ステラの残滓めが……我が至高の神話を汚す泥の害毒。もはや、学舎の中で飼い慣らす段階は過ぎたな」
アーヴェルはデスクの上の羊皮紙に、自らの血で紡いだ天衣の魔糸で、冷酷な署名を刻み込んだ。
「全院、および帝国全土の憲兵隊に通達せよ」
その声は、大陸全土を凍りつかせる死神の宣告だった。
「特設クラス『繕組』ルーク・アスキス、ならびに同行したヴァルド・クレイン、セラ・ヴァルシュタイン、ガレット・ドーン、ミーシャ・レニエの五名を——神聖なる帝国結節点の破壊、ならびに古代禁忌術を用いた国家反逆の罪により、紡術院より永久追放、および大陸指名手配とする」
アーヴェルの冷たい瞳が、東の空を射抜いた。
「生かす必要はない。見つけ次第、その場で解体せよ」
英雄から、一転して国家の反逆者へ。
少年少女たちの居場所は奪われ、世界を相手取る果てしない流浪の逃避行が、今まさに始まろうとしていた。
(第一部・紡術院編 完)




