第4話:魔糸の世界
旅立ちから二日目。
ルークとレイラは、見渡す限りに広がる青々とした大草原の中を歩いていた。
テクストゥーラの世界を吹き抜ける風が、背丈ほどある草を波のように揺らしている。高く澄み切った空には、鳥の群れが遠くの山脈へと向かって羽ばたいていく。
エッジタウンを出てからというもの、ルークの心には期待と不安が入り混じっていた。ふとした瞬間に、孤児院の子供たちの顔が浮かぶ。
『ルーク兄ちゃんが壊れたら、誰が直すの?』
別れ際にかけられた言葉が、まだ耳の奥に残っていた。マルタ院長から託された古い指貫――原初の紡ぎ手の遺物だというそれを、ルークはズボンのポケットの上からそっと撫でた。
「ルーク」
前を歩いていたレイラが、ふいに足を止めて振り返った。
彼女の黒いショートヘアが風に揺れ、左腕に刻まれた継ぎ接ぎのような傷痕が日差しに晒される。
「はい、レイラさん」
「歩きながらで構いません。少し、紡術の基本について教えておきましょう」
レイラはそう言うと、歩調を緩めてルークと並んで歩き始めた。
「魔術の基本は、魔糸を操り、織り上げること。私たちが使う『紡術』は、階位によって五つに分けられます」
レイラは右手の人差し指を立てた。その指先から、淡い青色の光を放つ一本の糸がするると伸びる。
「まずは『単糸』。魔糸を一本、自身の意志で紡ぎ出して、織り上げる。火を灯す、水を浮かべる。それが紡術の第一歩です」
レイラの指先で、青い魔糸が複雑な結び目を一瞬にして作り上げたかと思うと、ぽっ、と小さな炎が生まれた。
魔術の光が、ルークのオッドアイ――金色の左目と銀色の右目――に反射する。
「その上が、二本の糸を編む『双糸』。さらに複雑な術式を織り込む『織紋』。熟練の証である『錦繍』。そして……伝説の階位と呼ばれる『天衣』」
「天衣……」
「今のあなたには遠い話です。まずは、基本中の基本である『単糸』。これを試してみなさい」
レイラは炎を消し、ルークに向かって頷いた。
「魔糸を一本、紡ぎ出して、火を織り上げる。私のやった通りに」
ルークは立ち止まり、深呼吸をした。
指先を前に出し、意識を集中させる。体内を巡る魔力を指先に集め、それを糸の形に変換する。
するり、と。
ルークの指先から、無色透明な魔糸が一本、空中に引き出された。
「……引き出すことは、できるんです」
ルークは呟いた。問題はここからだ。
彼はレイラがやったように、魔糸を結び、形を作り、火の術式を「織ろう」とした。
しかし――。
ぱつんっ。
糸を交差させようとした瞬間、魔糸は脆くも解け、霧散してしまった。
「もう一度」
レイラの短い指示に、ルークは再び魔糸を紡ぐ。
今度は、水の術式を織ろうとした。しかし、糸は無惨にも絡まり合い、ただの無意味な結び目の塊となって消えた。
風を織ろうとすれば、今度は張力に耐えきれずに糸が切れる。
何度やっても、何度繰り返しても。
引き出した魔糸を「織る」動作に入った途端、ルークの魔術は崩壊してしまうのだ。
「……だめです」
十回目の失敗を終え、ルークは力なく腕を下ろした。
銀色の右目が、伏し目がちに地面を見つめる。
「やっぱり、僕は出来損ないなんだ……。孤児院でも、まともな魔術は一つも使えなかった。魔糸を出すことしかできないんです」
重苦しい沈黙が落ちる。
風の音だけが、二人の間を通り抜けていった。
「……待ちなさい」
レイラは静かな声で言った。彼女の声に、同情や失望の色はない。
彼女は自分の指先から、赤い魔糸を一本紡ぎ出した。そして、あろうことか、もう片方の手でその魔糸を無造作に引きちぎった。
ぷつり、と音を立てて、赤い魔糸が二つの断片に分かれる。魔術の構造が壊れ、今にも消滅しそうに明滅を始めた。
「ルーク。織れないのなら、あなたの得意なことをやってみなさい」
「得意なこと……?」
「これを、繋いでみて」
レイラは、壊れかけの魔糸の断片をルークの前に差し出した。
ルークは戸惑いながらも、その赤い断片に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間――ルークの本能が、強く脈打った。
金色の左目が、世界を違う形で捉える。
レイラの赤い魔糸の断面に、無数の細かい『糸目』――魔術の構造の綻び――がはっきりと見えた。
どう繋げば元通りになるのか。どう縫い合わせれば、力が再び循環するのか。
考えるよりも先に、自然と指が動いていた。
常に左手にはめている古い指貫が、微かに熱を帯びる。
ルーク自身の無色透明な魔糸が、縫い糸のように赤い断片の間に絡みつく。
縫って、結んで、継ぎ接ぎにする。
ものの数秒。ルークの指先が複雑なステップを踏み終えると、そこには不格好に縫い合わされた一本の赤い魔糸があった。
ぽっ……。
修復された魔糸が赤く輝き、ルークの指先に、小さな、しかし確かな温もりを持つ火が灯った。
「え……火が……?」
ルークは目を丸くして、自分の指先で揺れる炎を見つめた。
彼が人生で初めて、自らの手で生み出した(正確には直した)魔術の火だった。
「それが、あなたの力です」
レイラは炎を見つめながら、静かに告げた。
「あなたの魔術は『織る』のではなく『繋ぐ』。それは決して、劣っているのではない。他の誰とも、違うだけだ」
「違う、だけ……」
その言葉は、冷たい水が乾いた土に染み込むように、ルークの心の奥深くまで沈んでいった。
出来損ない。ずっとそう呼ばれてきた。でも、彼女はそれを「違うだけ」だと言ってくれた。
「ですが、現実も知っておくべきです。見ていなさい」
レイラはそう言うと、一歩前に出た。
彼女の全身から、圧倒的な量の銀色の魔糸が溢れ出す。
それらは空中で幾重にも交差して、編まれ、織り込まれ、一枚の布のようになり、やがて鋭い金属の輝きを放ち始めた。
――『鋼織り』。
上級紡術師であるレイラの代名詞。
一瞬にして虚空に織り上げられたのは、身の丈ほどもある巨大な鋼鉄の刃だった。日光を反射してぎらぎらと輝くそれは、美しく、そして恐ろしいほどの威圧感を放っている。
「これが『織る』紡術。そして紡術院では、これが『正しい魔術』とされているのです」
刃が音もなく消え去る。
ルークは、自分の生み出した不格好な継ぎ接ぎの火と、今見た美しく完成された鋼の刃を比べた。
圧倒的な差だ。
けれど、不思議と絶望はなかった。少しだけ、前を向ける気がした。
◇ ◇ ◇
日が暮れ、空に紫色の帳が下りる頃。
二人は小さな野営の火を囲んでいた。ルークが薪を集め、レイラが(今度は自分で)魔術で火をつけたものだ。
パチパチと薪がはぜる音だけが、静かな夜の草原に響く。
「明日の夕方には、王都の近くにある紡術院に着きます。入学試験は翌日です」
レイラが温かいお茶を口に運びながら言った。
「入学試験……」
ルークは自分の手を見つめた。
「僕、『織る』ことができなくても、大丈夫ですか?」
レイラは火を見つめたまま、静かに、しかし残酷な事実を口にした。
「正直に言えば、厳しいでしょう。紡術院は『織る』ことがすべての場所です。あなたの『繋ぐ』力を、正当に評価し、認めてくれる人は……決して多くはない」
それは、孤児院での扱いよりもずっと厳しい現実が待っているという宣告だった。
だが、ルークは顔を上げ、まっすぐにレイラを見た。
金と銀の瞳に、揺るぎない覚悟の炎が宿っている。
「それでも、行きます」
「……」
レイラは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「僕はずっと、壊れたものを直してきました。おもちゃも、道具も。それが『出来損ない』の魔術だとしても、直せるものがあるなら……それが僕の価値だと思うから。だから、行きたいです」
ルークの言葉は、拙くも真っ直ぐだった。
レイラはしばらくルークを見つめていたが、やがて小さく微笑んだ。
それは、彼女が旅の間に初めて見せた、教官としてではなく、一人の人間としての穏やかな笑顔だった。
「……その言葉、覚えておきなさい。きっと、あなたを支える力になる」
夜風が吹き抜け、火の粉が夜空へと舞い上がる。
レイラが立ち上がり、遠くの丘を指差した。
「ほら、見えてきましたよ」
ルークも立ち上がり、丘の向こうを見た。
夜闇の中に、巨大な建造物のシルエットが浮かび上がっている。
城のように壮麗な尖塔がいくつもそびえ立ち、その周囲を無数の美しい魔糸の光が、まるで星屑のように飛び交い、輝いていた。
「あれが、紡術院です」
ルークは息を呑んだ。
あまりにも美しい光景だった。世界中から優秀な紡術師たちが集い、魔術を織り上げる場所。
だが――。
ルークの目に、紡術院から放たれる圧倒的な光の中に、ほんの小さな違和感が映り込んだ。
彼の金色の左目だけが捕らえるもの。
それは、美しい魔糸の光の網目を引き裂くように浮かび上がる、漆黒の微かな「裂け目」だった。
(……なんだ、あれは?)
ルークの胸の奥で、何かがざわめいた。
壊れたものを察知する彼の本能が、静かに警鐘を鳴らしていた。
(第4話・了)




