第3話:旅立ちの朝
『この世界そのものを直す』。
レイラ・ファースト教官の放ったその言葉が、一晩中、ルークの頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
朝を告げる一番鶏の声が遠くで響き、ルークは窓から差し込む薄明かりの中で、静かに目を覚ました。
寝返りを打つたびにギシギシと軋む古いベッド。雨漏りの跡が残る壁の染み。天井を走る小さなひび割れ。
十五年間、毎日当たり前のように眺めてきた見慣れた孤児院の風景が、今朝はなぜかまったく違って見えた。
『あなたの力が必要なのです。ルーク・アスキス』
彼女の左腕にあった、ルークの継ぎ接ぎと同じ模様の傷痕。
今までルークは、壊れた農具やひび割れた壁、誰かの破れた服を直してきた。それはこの世界——テクストゥーラにおいて主流である、美しく魔糸を織り上げる『紡術』とは似ても似つかないものだった。
単糸、双糸、織紋、錦繍、天衣と階位が上がるごとに、複雑で強大な力を発揮する正規の魔術。
それに引き換え、自分の力はただ壊れたものを不格好に繋ぎ合わせるだけ。魔法とも呼べないような『出来損ない』の力だと、ずっとバカにされてきた。
だけど、もし。
もしも、もっと大きなものを直せるのなら。
壊れかけているという、この世界そのものを——。
ルークはベッドから跳ね起き、木製の床に足をつけた。
ひんやりとした冷たさが足の裏から伝わり、決意を確かなものにしてくれた。
行くんだ。紡術院へ。
何ができるかはわからない。でも、壊れたものを放っておくことなど、ルークにはできなかった。
*
「……そう。決めたのね」
食堂で朝食の支度をしていた院長のマルタ先生は、ルークの報告を聞いて短く呟いた。
大鍋でシチューをかき混ぜる手が少しだけ止まり、彼女は複雑な表情でルークを振り返った。
マルタ先生は、ルークが赤ん坊の頃からずっと育ててくれた恩人だ。口うるさいところもあるけれど、本当の母親のように愛してくれた。
その顔には、教え子がエリートの集まる紡術院へ行くという嬉しさと、未知の世界へ送り出す不安が入り混じっていた。
「はい。レイラ教官の言葉が、どうしても気になって。僕の力が、何かの役に立つなら……確かめてみたいんです」
「お前は昔からそうだったわね。壊れたものを見ると、直さずにはいられない。たとえそれが、自分の怪我より後回しにするようなことでも」
マルタ先生は呆れたようにため息をつくと、エプロンで手を拭い、ルークを手招きした。
そして、食堂の隅にある古い戸棚から小さな布包みを取り出し、ルークの手のひらにそっと乗せた。
「マルタ先生、これは?」
「お前のお母さん……いえ、お前がここに来た時に、お包みと一緒にあったものよ。いつか、お前がここを旅立つ日が来たら渡そうと思っていたの」
幾重にも巻かれた布を開くと、そこには古びた革製の指貫が入っていた。
使い込まれて黒ずみ、縁はすり減っている。しかし、表面には微かに、だが確かな幾何学模様が刻まれていた。
ルークの金色の左目が、その指貫を捉えた。
(……糸目が、見える。それに、すごく緻密だ)
ただの古い革製品じゃない。
微かな金色の魔糸が、信じられないほど複雑な織紋を描いてその指貫を形作っているのが見えた。
ルークには魔糸を編むことはできない。でも、その構造を見ることはできる。これほど精巧な魔術品は、辺境の村エッジタウンでは見たこともなかった。
試しに右手の人差し指にはめてみると、まるで最初からルークのために作られたかのように、吸い付くようにフィットした。
「マルタ先生、これ……」
「大事にしなさい。きっと、お前を守ってくれるから」
マルタ先生はそう言うと、ルークの頭を優しく、力強く撫でた。
その手の温もりと、指先に感じる微かな魔力の脈動が、背中を力強く押してくれているような気がした。
*
朝靄が晴れかけた村はずれの広場。
少ない荷物をまとめた革袋を背負うルークを取り囲むように、孤児院の子供たちが全員集まっていた。
「ルーク兄ちゃん、本当に行っちゃうの?」
「やだー! いかないで!」
一番小さい六歳の女の子、リリーが、ルークの足にギュッとしがみついて泣きじゃくった。
その腕の中には、片腕がちぎれかけていたのをルークが太い糸で縫い合わせた、つぎはぎだらけのクマのぬいぐるみが抱きしめられている。
他の子供たちも、ポロポロと涙をこぼしたり、鼻をすすったりしている。
いつも騒がしい弟や妹たちがこんなに泣くなんて。ルークも、視界が滲むのを必死で堪えなければならなかった。
「大丈夫だよ。みんなの壊れたものは、もう自分で直せるようになってるでしょ? トーマスのおもちゃの剣も、マリアの靴も」
ルークはしゃがみこみ、リリーの頭を撫でながら皆に笑いかけた。
「でも……でも……」
「リリーのクマさん、またほつれたら、今度はリリーが自分で直してあげるんだよ」
「う、うん……」
リリーはぐしゅぐしゅと鼻をすすりながら、大きな瞳でルークを見上げた。
そして、ふと不思議そうな顔をして首を傾げた。
「……ルーク兄ちゃんが壊れたら、誰が直すの?」
ドクン、と。
胸の奥で、何かが冷たく跳ねた気がした。
自分が壊れる? そんなこと、考えたこともなかった。
ルークはこれまで直す側だった。継ぎ接ぎだらけの魔術で、周りのものを修復してきた。でも、もし自分自身が壊れてしまったら?
一瞬言葉に詰まったルークだったが、やがて誤魔化すように笑って、リリーの頭をもう一度撫でた。
「大丈夫。僕は結構、頑丈にできてるからね」
*
「準備はいいですか?」
広場の外れ、街道の入り口で待っていたレイラ教官が、静かに声をかけてきた。
黒い軍服のような紡術院の制服。その背筋はピンと伸び、風に揺れる黒髪が朝日を反射して艶やかに輝いている。
ルークは頷き、大きく深呼吸をした。
「おい、ルーク!」
振り返ると、村長をはじめ、村の大人たちが十数人、息を切らして集まってきていた。
普段はルークの「継ぎ接ぎ」を気味悪がったり、出来損ないと見下したりしていた人たちだ。
「お前がいなくなると、色々困るんだが……まあ、行ってこい」
「お前のその変な魔法も、たまには役に立ってたからな。ほれ、餞別だ」
「紡術院でも、せいぜい頑張れよ。エッジタウンの恥にならんようにな」
押し付けられた干し肉や硬いパンを受け取りながら、ルークは驚いていた。
素直じゃない言葉の裏にある、不器用な優しさ。
ルークは村全体をぐるりと見渡した。
広場の石畳のひび割れを埋めた跡。
水路の欠けたレンガを強引に繋いだ痕跡。
崩れかけていた木の橋の補強。
教会から借りた書物の背表紙の修繕。
ルークの金色の左目には、村の至る所に、自分が縫い合わせた不格好な「継ぎ接ぎ」の糸目が見えた。
美しい織物のような、本物の紡術には遠く及ばない。見た目も不細工で、魔力の流れもいびつだ。
それでも、確かにこの村の日常を支えていた。
(……僕の継ぎ接ぎも、少しは役に立ってたのかな)
胸の中に、ほんの少しだけ温かいものが広がる。
ルークは村の人たちに向かって深く頭を下げ、レイラ教官と共に、見慣れた村を背にして歩き出した。
*
村を出て数時間。
エッジタウンを取り囲む小高い丘を登り切ったところで、ルークは足を止めた。
眼下には、見渡す限りの広大な荒野が広がっている。風が吹き抜け、枯れ草が波のように揺れる。
ふと、空を見上げた。
雲一つない青空の一角。そこだけが、まるで巨大な見えないガラスにヒビが入ったように、微かに歪んで見えた。
空の青色がそこだけズレて、黒い線のようなものが走っている。
レイラが言っていた『裂け目』。
世界を覆う見えない境界膜——『世界帷』が破れ、あそこから『ほつれ』と呼ばれる化け物が這い出してくるのだ。
「紡術院まで、馬車と徒歩で三日の旅です」
レイラが、ルークの視線を追うように空の歪みを見上げながら言った。
「道中で、紡術の基本を教えます。あなたがどれほど基礎を理解できるか、見極めさせてもらいますよ」
ルークは、自分の両手を見つめた。
右手にはめられた古い指貫。そして、壊れたものを繋ぎ合わせることしかできない、出来損ないの手。
「……僕にも、普通の紡術ができるようになりますか?」
魔糸を美しく編み上げ、形にする正規の魔術。それができれば、もっと多くの人を、正しく助けられるかもしれない。
レイラは少しだけ沈黙した。
風が吹き抜け、彼女の制服の裾を揺らす。
やがて、彼女は表情を崩さずに、しかしどこか優しげに薄く微笑んだ。
「……それは、やってみなければ分かりません」
冷たいような、突き放すような言葉。
だけど、ルークを見つめるレイラの瞳には、何か確信めいたものが浮かんでいた。
ルークがただの「出来損ない」ではないと、彼女だけが知っているような。
『継ぎ接ぎ』が持つ本当の意味が、あの言葉の裏に隠されているような気がした。
遠くで、名も知らぬ鳥が甲高く鳴いた。
どこまでも続く荒野の向こう、魔術の最高学府を目指して。
少年の本当の物語は、ここから始まる。




