第2話:紡術院からの使者
世界に走る黒い亀裂――裂け目が現れた翌日、辺境の村エッジタウンは朝からざわついていた。
「おい、昨日のアレ見たか?」
「ああ、空が割れたかと思ったぜ。まるで空間そのものにヒビが入ったみたいだった」
「でもすぐに消えちまったな。いったい何だったんだ……」
「ひょっとして、『ほつれ』が出るんじゃないかって生きた心地がしなかったぞ」
村人たちが口々に噂し合う声を遠くに聞きながら、ルーク・アスキスは孤児院の裏庭で日課の薪割りをしていた。
斧を振り下ろすたびに、鈍い痛みが肩から背中へと走る。昨日の疲れが、まだ色濃く残っているのだ。
(あの感覚は……何だったんだろう)
ふと手を止め、ルークは青い空を見上げた。
金色の左目と、銀色の右目。異なる色の瞳を持つ彼は、左目だけで空の向こう側を凝視する。
左目には、万物の構造を成す「糸目」が見える。物質の結合、魔術の構造、そして空間の縫い目さえも。
昨日、森の近くで空間そのものに空いた巨大な大穴――『裂け目』を縫い合わせた時。
指先を伝ってきたのは、今まで直してきた鍬や鍋などの農具とはまったく違う感触だった。
もっと巨大で、果てしなく深く、そしてひどく脆いもの。
世界の裏側に張り巡らされた、巨大な織物の束に直接触れたような、おぞましくも神聖な感覚。
それは今も指先に熱を帯びた記憶として残っていた。
「ルーク、あまり無理をするんじゃないよ」
不意に背後から声をかけられ、ルークは振り返った。
そこには、孤児院の院長であるマルタが立っていた。五十代の彼女は、目尻に優しい皺を刻みながら、心配そうにルークを見つめている。
手には、ルークのための冷たい水が入った木組みのコップが握られていた。
「マルタ先生。おはようございます。大丈夫ですよ、これくらい。まだまだ薪割りは残ってますし」
「昨日、森の近くで何かあったんだろう? お前、夕飯の時もずっと上の空だったじゃないか」
水を受け取ったルークは、マルタの言葉に少しだけ肩をビクンと揺らした。
「……お前のことだ。また、何か『壊れたもの』を見つけて、放っておけなかったんじゃないかい?」
見透かされている。
物心ついた時から、ルークが壊れたものを直すたびに、マルタはこうして優しく、けれど真剣に諭してくれた。
「お前の力は……普通の紡術とは違う。それはお前も分かっているね?」
「はい」
この世界――テクストゥーラの魔術体系は『紡術』と呼ばれる。
魔力を魔糸という形に変換し、それを織り上げることで様々な事象を起こす技術だ。
初歩の『単糸』から始まり、『双糸』、『織紋』、『錦繍』、そして伝説の『天衣』へと階位が上がるにつれ、魔術はより複雑で強大なものとなる。
「魔糸を操り、美しく強靭な布を織り上げるように魔術を行使するのが本来の紡術だ。美しい幾何学模様を描き、世界に干渉する。けれど、お前の『継ぎ接ぎ(つぎはぎ)』は……」
マルタは言葉を濁し、ルークの手を取った。
ルークの右手の指先には、常に魔糸用の使い込まれた皮の指貫がはめられている。
「気をつけなさい、ルーク。お前は優しすぎる。その優しさが、いつかお前自身を傷つけてしまわないかと、私はいつも心配なんだよ。お前の力は規格外だ。それが知られれば、厄介なことに巻き込まれかねない」
「マルタ先生……ありがとうございます。でも、大丈夫です。僕には、壊れたものを直すことしかできませんから」
ルークが笑って見せると、マルタもふっと表情を和らげ、ルークの黒髪を優しく撫でた。
「ルーク兄ちゃーん!」
その時、孤児院の中から子供たちが駆け出してきた。
五歳の男の子、トミーの手には、真っ二つに割れた木彫りの馬のおもちゃが握られている。
「兄ちゃん、これ、直して!」
「また壊しちゃったのか、トミー。どれ、貸してごらん」
ルークは薪割りの斧を置き、指貫をはめた右手をかざした。
金色の左目が、木彫りの馬の断面に無数の「糸目」を幻視する。木の繊維がちぎれ、魔力の結合が解けているのがはっきりと見えた。
「いくよ」
ルークの指先から、不揃いでくすんだ灰色の魔糸が紡ぎ出される。
それは単糸すら満たない、ほつれた切れ端のような魔糸の断片。通常の紡術師なら見向きもしないような、魔術のカスだ。
しかし、ルークの指先が虚空を縫うように動くと、灰色の魔糸は木彫りの馬の断面をジグザグに縫い合わせていった。
チリッ、チリチリッ。
小さな火花のような光が散り、あっという間に馬は元の形を取り戻した。
ただし、その表面には、フランケンシュタインの怪物のような無骨な「縫い目」がはっきりと残っている。決して美しいとは言えない、異端の術理。
「わあーっ! 直った!」
「ルーク兄ちゃんの魔法、ギザギザで変だけど、僕、これ大好き!」
トミーが無邪気に笑い、おもちゃを抱きしめる。
その言葉に、ルークの胸の奥で、小さく温かいものが灯った。
紡術としては最低ランク以下の、出来損ないの力。他の誰かを傷つけることも、真新しいものを作り出すこともできない。
けれど、こうして誰かの笑顔を取り戻すことができるなら。
自分はこの力のままでもいい。そう思えた。
――しかし、その平穏な日常は、昼下がりに唐突に破られることとなる。
「な、なんだあの人……」
「あの制服、まさか……本物か?」
エッジタウンの広場が、どよめきに包まれた。
ざわめきの中を、一人の女性が歩いてくる。
漆黒の生地に銀糸の刺繍が施された、豪奢で洗練されたローブ。その背中には、複雑に絡み合う魔糸の紋章が刻まれている。
それは、世界最高峰の魔術研究機関にして教育機関――『紡術院』の教官であることを示す正装だった。
辺境の村に、紡術院の人間が訪れるなど、前代未聞のことである。
村人たちが遠巻きに緊張した面持ちで見守る中、女性は迷うことなく孤児院の門を叩いた。
「ルーク・アスキスは、ここにいるか」
凛とした冷たい声。
応対に出たルークは、目の前の女性を見て息を呑んだ。
銀色の長髪をすっきりと結い上げ、氷のように透き通った青い瞳を持つ美女。
昨日、森で裂け目を塞いだ後、振り返った時にルークを見つめていた、あの魔術師だった。
「あなたが、ルークですね。私はレイラ・ファースト。王都の紡術院で教官を務めている者です」
「ぼ、僕に何か……? もしかして、昨日のことで怒られるんじゃ……」
「単刀直入に言いましょう。昨日のあなたの魔術を見ました。あれは……『継ぎ接ぎ(パッチワーク)』ですね?」
レイラの言葉に、ルークは思わず後ずさった。
やはり見られていた。そして、自分の異端な魔術を咎めに来たのだ。
「見られていたんですか……。でも、あれはただの……」
「ただの、何ですか?」
「ただの、出来損ないの魔術です。僕は、あんな風に壊れたものを無理やり繋ぐことしかできません。美しい布を織るような、立派な紡術は使えないんです。だから、何も悪いことは……」
ルークの卑下するような言葉に、レイラは小さく、しかし力強く首を振った。
「あなたは何も分かっていません。あなたのその力が必要なのです。私と共に、紡術院に来なさい」
「……え?」
ルークは自分の耳を疑った。
紡術院といえば、才能あふれる選ばれた者だけが入学を許される、魔術師の憧れの最高学府だ。貴族の令息や、幼い頃から英才教育を受けた者たちが集う場所。
自分のような、孤児院育ちで単糸さえまともに織れない出来損ないが行ける場所ではない。
「無理です! からかっているならやめてください。僕にはそんな資格――」
言いかけたルークの言葉を遮るように、レイラは自らのローブの左袖をまくり上げた。
白く細い腕。その肌に刻まれていたものを見て、ルークは目を見開いた。
火傷の痕のような、しかし明らかに意図的な形状をした傷痕。
それは、ジグザグに縫い合わされた、ルークの『継ぎ接ぎ』とまったく同じ形状の模様だった。
「この模様……」
「あなたの魔術が残す痕と同じです。私は子供の頃、ある事故に巻き込まれました。その時、この模様を持つ魔術を使う『誰か』に命を救われたのです」
レイラは静かに、しかし熱を帯びた声で語った。普段の冷徹な仮面の下に隠された、悲痛なまでの感情が漏れ出していた。
「その『誰か』を探し続けてきました。しかし、どれほど文献を調べても、どれほど高位の魔術師に会っても、同じ魔術を使う者はいなかった。――昨日、辺境の森であなたに出会うまでは」
ルークは言葉を失った。
自分以外に、この『継ぎ接ぎ』の魔術を使う人間がいる?
それも、レイラのような高位の魔術師の命を救うほどの力を持った者が。
「あなたは自分の力を『出来損ない』だと思っているようですね。普通の紡術が使えない、異端の力だと」
レイラは袖を下ろし、ルークの金と銀のオッドアイを真っ直ぐに見据えた。
その青い瞳には、真剣さと、どこか切迫した色が浮かんでいる。
「でも……世界には、あなたの力でしか直せないものがあるのです」
「僕の力でしか……直せないものって、なんですか?」
ルークの問いに、レイラはすぐには答えなかった。
彼女はゆっくりと孤児院の窓の方へと歩み寄り、果てしなく続く青い空を見上げた。
ルークも釣られて空を見る。
金色の左目が、空の一角がほんの少しだけ不自然に歪み、見えない布の糸がほつれるように揺らいでいるのを捉えた。
それは昨日見た『裂け目』の前兆。
「――この世界そのものです」




