第38話:断絶の岬
その光景を目にした瞬間、五人は乗っていた幌馬車を止め、息を呑んで立ち尽くした。
荒涼とした赤茶けた岩肌が唐突に途切れ、視界の先には、果てしない大海原が広がっていた。
だが——その海は、青くはなかった。
「な……んだ、あれは……!? 海が……空へ昇っているのか……!?」
手綱を握るガレットが、喉を鳴らしながら呟いた。
東大陸の最果て、断絶の岬。
激しく泡立つ灰白色の海面から、何百本もの巨大な水の柱が重力を逆転させて天へと立ち昇り、雲海と混ざり合って巨大な渦を巻いていた。
水平線という境界線が、完全に引き裂かれている。
世界の皮膚である『世界帷』が極限まで引き伸ばされ、海水と大気、光と闇が、まるで擦り切れた織物の繊維のようにバラバラにほつれ、虚空へと吸い込まれていた。
「教科書の記述通りです……いえ、それ以上……!」
ミーシャが吹き荒れる海風に眼鏡を押さえながら、震える声で叫んだ。
「海と空の境界を縫い留めていた古代の魔力結節が、完全に死にかけています! この周辺、局所的に重力と空間の幾何学が完全に崩壊しています!」
足元の小石が、フワリと重力を失って宙に浮かび、次の瞬間には別の方向へと弾丸のように射出されて崖下の海へと落ちていく。
大気中には、嗅ぎ慣れたあの腐食性の悪臭——『ほつれ』の瘴気が濃密に立ち込め、肌をチクチクと針で刺すような痛みが襲いかかってきた。
「……あれを見なさい」
セラの冷ややかな声が、暴風を切り裂いて届いた。
彼女の白い指先が、海へと鋭く突き出た断崖の絶壁——その最先端を指し示していた。
そこにそびえ立っていたのは、雲を突き抜けるほどに巨大な白亜の巨塔だった。
——『天蓋の灯台』。
数千年前、神代の紡ぎ手たちが海と空の境界を縫い留めるために築いた、太古の超大型紡術遺産。
しかし、その灯台の頂点から放たれていたのは、暗夜の船を導くための温かな導きの光ではなかった。
ギュオオオオオオオッ……!!
大気を引き裂くような高周波の唸りと共に、灯台のレンズから放たれていたのは、真昼の太陽すら呑み込むほどの、冷酷無比な純白の光網だった。
純白の魔糸で編み上げられた巨大な天幕——『第一の天衣』が、まるで巨大な網のように、東の空全体を覆い隠すように広がり始めていた。
海を舞っていたカモメの群れが、その純白の光網に触れた瞬間、悲鳴すら上げることなく、チリチリと白煙を上げて存在そのものを虚無の粒子へと還元され、消滅していった。
「触れた生命を、不完全な物質として強制分解している……」
ヴァルドが拳を白くなるまで握りしめ、歯を食いしばった。
金髪が激しい海風に乱れる。その瞳には、かつてないほどの激しい怒りと、哀痛が燃え盛っていた。
「父上は本気だ。あの灯台の光網が水平線から大陸全土を覆い尽くした瞬間、地上の命はすべて消え去る。……新世界に残るのは、父上が選んだ一握りのエリートだけだ」
「冗談じゃねえぞ!」
ガレットが大剣を肩から下ろし、岩肌に突き立てた。
「俺たちの家族も、パッチタウンの奴らも、エッジタウンの孤児院のガキどもも、全員まとめて消し飛ばす気かよ!? あんな冷血漢に、この世界を渡してなるものかよォッ!」
「ええ。止めるわよ、何が何でも」
セラが氷の杖を握り直す。
「灯台の内部へ突入し、制御盤に打ち込まれているはずの術式を解体する。……ルーク、いけるかしら」
「うん」
ルークは胸元にそっと手を当てた。
革の指貫の隣、上着の内ポケットには、昨夜バルトアンから託された『万象の縫い糸』が、七色の光を微かに放ちながら収まっている。
金色の左目が、灯台から放たれる純白の光網の『糸目』を見据えていた。
恐ろしく強固で、隙のない天衣の編み目。
だが、どんなに巨大な網であっても、根元にあるのは一本の糸だ。
糸がある限り、自分には解くことができる。
「行こう! この世界の命を、僕たちの手で繋ぎ止めるんだ!」
五人は幌馬車を乗り捨て、重力の乱れる断崖の岩場を、灯台の根元目掛けて駆け出した。
* * *
天蓋の灯台の麓には、白大理石で組まれた古代の神殿広場が広がっていた。
しかし、その広場は今や、幾重もの純白の防壁結界と、白装束の法衣を纏った数十名の手勢によって完全に要塞化されていた。
大院長直属——『天衣執行隊』の主力部隊。
広場の中央、灯台の巨大な鉄扉の前に、一人の青年が静かに佇んでいた。
透き通るような白銀の短髪に、氷藍色の冷徹な双眸。
純白の法衣の胸元には、紡術院の最高位を示す『錦繍』の刺繍が銀糸で刻まれている。
青年の両手には、純白の魔糸で織られた二振りの薄刃の魔導短剣が、音もなく回転していた。
「……待っていたよ、ヴァルド」
青年の透き通るような声が、吹き荒れる暴風をものともせずに響き渡った。
その声を聞いた瞬間、ヴァルドの足がピタリと止まった。
「ルシアン……! 貴様が、この部隊の指揮を執っていたのか……!」
「ルシアン……?」
ルークが問うと、ヴァルドは苦々しげに唇を噛んだ。
「ルシアン・ヴァイス。天衣執行隊の第一席にして、父上の筆頭弟子だ。……かつて中等部で、俺と主席の座を競い合っていた男だ」
「かつて、ね」
ルシアンは冷笑を浮かべ、二振りの短剣をピタリと止めた。
「今の君は、見る影もないな、ヴァルド。出来損ないの落ちこぼれや、家名を汚した氷の令嬢、平民の野蛮人と群れて、大院長様の崇高なる計画を邪魔しに来るとは。……誇り高きクレイン家の名が泣いているよ」
「黙れ、ルシアン!」
ヴァルドの全身から、バチバチとプラチナゴールドの雷光が立ち昇った。
「父上の企んでいることは、救済などではない! ただの無差別な虐殺だ! 何万、何百万という罪なき人々の命を奪って築く新世界に、何の価値があるというのだ!」
「価値? 愚問だな」
ルシアンは視線を空へと向けた。
灯台から広がる白銀の光網が、雲を裂き、海を吸い上げている光景を、うっとりとした瞳で見つめる。
「不完全なものは、いずれ壊れる。壊れた器をどれほど涙ぐましく繕ったところで、所詮は泥の継ぎ接ぎだ。……人は争い、傷つき、病に倒れ、理不尽な死に怯えて生きている。なぜだと思う? この世界そのものが、歪んだ欠陥品だからだ」
ルシアンは短剣の切っ先を、ルークへと向けた。
「一度すべてをリセットし、傷一つない完璧な天衣で包み込むことこそが、唯一にして最大の慈悲なのだよ。……君の母ステラも、その真理に気づくべきだったのだ、ルーク・アスキス」
「母さんの名を、お前のような冷血漢が口にするなッ!」
ルークの金色の左目が、鋭利な光を放った。
「感情的になるなよ、出来損ない。……大院長様からの言伝だ。『我が息子ヴァルドは生け捕りにせよ。残りのゴミクズは、存在ごと解体して天衣の資材とせよ』とな」
ルシアンが両手の短剣をクロスさせた。
その瞬間、広場を取り囲んでいた数十名の天衣執行隊員が一斉に魔糸を紡ぎ出した。
足元の白大理石の床から、無数の純白の光の刃が、まるで針の筵のように一斉に突き上がってくる。
「散れッ!」
ガレットが叫び、仲間たちが四方へと跳躍した。
寸前まで五人がいた地面が、純白の魔糸によって豆腐のように何千個もの立方体へと切り刻まれ、パラパラと崩壊していく。
「なんて魔糸の密度……! パッチタウンのフェルゼンとは桁が違うわ!」
セラが空中で杖を振り、巨大な氷の防壁を三層に展開する。
しかし、ルシアンの放った目に見えない魔糸の一撃で、厚さ数十センチの氷壁が、まるで薄紙のように容易く両断された。
「無駄だ。僕の紡ぐ天衣は、第四階位『錦繍』の極致。物質の原子の隙間に魔糸を通し、摩擦すら生じさせずに切断する。……君たちの不完全な魔術で防げる道理がない」
ルシアンが影のように疾走した。
その速度は、目にも留まらない。
瞬き一つの間にルークの懐へと滑り込み、二振りの短剣が少年の首元へと交差して振り下ろされる。
——『天衣絶影・十字断』!
「死ね、出来損ない」
「——させるかッ!!」
ガキィィィィィンッ!!
甲高い金属の絶叫が広場に木霊した。
ルークの目前に割り込んだのは、白熱したプラチナの雷光を纏ったヴァルドだった。
ヴァルドは腰から引き抜いた魔導雷剣で、ルシアンの二振りの短剣を交差受けで完全に防ぎ止めていた。
「な……ヴァルド……!? 僕の短剣を、正面から受け止めた……!?」
ルシアンの氷藍色の瞳に、初めて狼狽の色が走った。
「言ったはずだ、ルシアン! 俺の雷は、もう以前の俺の雷ではない!」
ヴァルドの雷光が、激しく放電しながらルシアンの短剣を押し返していく。
「お前たちが『出来損ない』と見下したルークの手によって、俺の魔力回路は生まれ変わった! 遊びのないお前の天衣など、今の俺の迅雷を捕らえることはできん!」
「くっ……小癪なァッ!」
ルシアンがバックステップで間合いを取る。
その背後で、広場の執行隊員たちが一斉にルークを取り囲もうと迫っていた。
「ミーシャ、ガレット! 雑魚は私たちで引き受けるわよ!」
セラの凛とした声が響く。
「おうよ! お嬢様、派手にやらかしてやろうぜ!」
ガレットが大剣を薙ぎ払い、迫り来る執行隊員たちの魔糸を力任せに打ち砕く。
「記述魔術、全開です! 敵の足元をすべて泥濘に変えます! ——『記述魔術・重層重力縛陣』!!」
ミーシャの放った無数の光の文字が広場を埋め尽くし、執行隊員たちの動きを完全に封じ込めた。
仲間たちが、ルークとヴァルドのために、灯台の扉へと続く道を切り拓いていく。
「ルーク!」
ヴァルドが雷剣を構え直しながら叫んだ。
「ルシアンは俺が引きつける! お前は灯台の中へ突入し、制御盤の天衣を解体しろ!」
「ダメだ、ヴァルド! 一人で戦わせない!」
ルークは右手を伸ばし、ポケットから『万象の縫い糸』を引き抜いた。
革の指貫に、虹色に輝く七色の魔糸をセットする。
「二人で戦うんだ! ヴァルドの雷と、僕の継ぎ接ぎで……あの完璧主義の刃を、打ち破るんだ!」
ルークの指先から、七色の光を放つ魔糸がするりと伸び、ヴァルドの雷剣の刀身へと幾重にも絡みついた。
プラチナの雷撃と、万象を縫い繋ぐ虹色の魔糸。
異なる二つの力が共鳴し、雷剣の刀身が神々しい七色の雷光を放ち始めた。
「……ハッ、最高だな!」
ヴァルドが不敵に笑った。
「行くぞ、ルーク! 俺たちの絆の魔術を、見せつけてやれ!」
「うんッ!!」
嵐吹き荒れる断絶の岬。
天を覆う巨大な天衣の下で、少年たちの魂を懸けた最終決戦が、いま幕を開けた。




