第37話:繕い屋たちの宴
地下洞窟の鉄扉を押し開けて地上に出た瞬間、五人の全身を包み込んだのは、砂漠の冷たい夜風と、信じられないほどの歓声の嵐だった。
「水が出たぞォォォッ!!」
「オアシスが……泉が蘇ったんだ!!」
パッチタウンの中央広場。
街の中心に位置するすり鉢状の池から、まるで天を突く竜のように、透き通ったエメラルドグリーンの水柱が夜空へと噴き上がっていた。
水飛沫が月光を浴びてキラキラと輝き、ダイヤモンドダストのような霧となって街中に降り注ぐ。
濁り果て、ヘドロの臭気を放っていたオアシスは、ルークが水神の石碑を縫い留めたことによって完全に浄化され、乾き切っていた水路の隅々にまで清冽な命の恵みを行き渡らせていた。
「おお……おおおっ……!」
広場の中央で立ち尽くしていた老職人バルトアンが、泥と血にまみれて帰還したルークたちの姿を認めるや否や、地響きを立てて駆け寄ってきた。
二メートル近い巨躯の老人は、ルークとガレットの肩を力任せに抱き寄せ、その太い腕の中に二人をすっぽりと包み込んだ。
「よくぞ……よくぞやってくれた! 我が街を、ステラ様の愛したこの地を救ってくれたなァッ!」
バルトアンの灰色の髭を、ボロボロと大粒の涙が濡らしていた。
その背後から、工房の職人たちや、パッチワークの外套を纏った街の人々が次々と押し寄せ、口々に感謝を叫びながら五人を取り囲んだ。
「ありがとう、若い紡術師さんたち!」
「あんたたちのおかげで、明日からもこの街で暮らしていける!」
拍手と歓声、そして水飛沫が舞い散る中、ルークは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
エッジタウンの孤児院で、壊れた靴や壁を直した時にもらった、あの小さな「ありがとう」。
それが、いま何百人もの人々の笑顔となって、夜の広場を満たしていた。
「へへっ、抱きしめる力が強すぎて、折れた肋骨が悲鳴を上げてるぜ、長老……!」
ガレットが苦笑いしながらも、白い歯を見せて親指を立てた。
「ガレット君、だから動かないでって言ったのに……!」
ミーシャが慌てて軟膏と包帯を取り出し、ガレットの腕に巻き直す。
その時、広場の子供たちが、おずおずとセラの前に歩み寄ってきた。
五、六歳ほどの小さな少女が、色とりどりの端切れを器用に編み込んで作った、小さな布の花束を両手で差し出す。
「お姉ちゃん、これ……あげる! お水、とっても綺麗にしてくれてありがとう!」
「え……? わ、私……?」
セラは目を丸くし、自分の胸元に指を当てた。
名門ヴァルシュタイン家の令嬢として、貴族たちからへつらいの言葉や高価な宝飾品を贈られたことは数え切れないほどあった。
だが、見ず知らずの平民の子供から、手作りの不揃いな花束を差し出されたことなど、これまでの人生で一度もなかった。
「い、いらないなら……ごめんなさい……」
少女が不安そうに瞳を潤ませると、セラはハッとして、慌てて膝をついて目線を合わせた。
「……ううん。ありがとう、とても嬉しいわ」
セラは少女の頭をそっと撫で、不器用に微笑みながら花束を受け取った。
端切れの布から、ほんのりと干し草のような温かな匂いがした。
ルークが横からその様子を見つめていると、セラはフッと顔を赤らめてそっぽを向いた。
「な、何を見てるのよ、ルーク。……子供の好意を無下にするのは、貴族の矜持に反するから受け取っただけよ」
「ううん、セラさんの笑った顔、すごく素敵だなって思って」
「ば、バカ言わないで……!」
セラは耳まで真っ赤にして花束を胸に抱きしめた。
「おいおい、色男の仕立て屋は隅に置けねえな!」
ヴァルドが手綱を握りながら、珍しく悪戯っぽく口元を歪めた。
その表情には、重苦しい父の呪縛から解き放たれ、自らの足で歩み始めた青年の清々しさが宿っていた。
* * *
その夜、パッチタウンの中央広場では、街を挙げた大宴会が催された。
カラフルな天幕の下に無数の篝火が焚かれ、長机の上には、オアシスの水で冷やされた甘酸っぱい果実酒や、砂漠特有の香草と岩塩で豪快に炙り焼きにされた子羊の肉が山のように並べられた。
太鼓と弦楽器の小気味よいリズムが響き渡り、職人たちや女たちが手を取り合ってステップを踏んでいる。
「うめぇぇぇっ! この肉、香草の香りが染み込んでて最高だぜ!」
ガレットが骨付き肉を両手に抱えて豪快にかぶりつき、樽から注がれた果実エールを喉へと流し込む。
「ガレットさん、お行儀が悪いです! ……でも、このパンも外はカリカリで中は信じられないほどモチモチです!」
ミーシャも頬をリスのように膨らませながら、職人の妻たちから次々と手渡される郷土料理を平らげていた。
宴が最高潮に達した深夜。
ルークは一人、喧騒から少し離れたバルトアンの工房の屋根の上に座り、夜空を見上げていた。
満天の星々。
砂漠の澄み切った大気の向こうに瞬く星の光は、まるで太古の神々が夜空に散りばめた針の穴のようだった。
「ルーク」
梯子を登ってきたのは、バルトアンだった。
巨漢の老人は、ルークの隣に腰を下ろすと、布に包まれた細長い木箱を膝の上に置いた。
「長老……宴会、抜け出してきちゃって良かったんですか?」
「カッカッカ、ワシのような年寄りがいつまでも騒ぎの真ん中にいちゃ、若い連中が羽を伸ばせんよ」
バルトアンはパイプに火を灯し、紫煙を夜風へと燻らせた。
「……ルーク。お前に、渡さねばならんものがある」
バルトアンは膝の上の木箱を、厳かな手つきで開けた。
中に入っていたのは、一本の銀の糸巻き——ボビンだった。
そこに巻かれている糸は、ルークがこれまで見たどんな魔糸とも異なっていた。
赤、青、黄、緑、紫、金、銀——光の当たる角度によって、まるで虹のように七色に移り変わる、神秘的な輝きを放つ極細の魔糸。
「これは……?」
ルークが息を呑む。
金色の左目を凝らすと、その糸の一本一本に、太古の大地、水、風、火、そして命の記憶が、幾重にも圧縮されて織り込まれているのが視えた。
「『万象の縫い糸』……ステラ様が遺された、最後の至宝だ」
バルトアンは愛おしそうにその糸巻きを見つめた。
「十六年前、ステラ様が紡術院を追放される直前、院の禁忌書庫の最深部から命がけで持ち出し、ワシに託されたものだ。『いつか、あの子が自らの意思で世界を繋ぐ旅に出た時、これを渡してほしい』とな」
「母さんが……僕に……」
ルークは震える指先で、虹色の糸巻きにそっと触れた。
指貫を通じて、じんわりと温かな脈動が伝わってくる。
母は知っていたのだ。
いつの日か、自分の息子がこの世界を直すために、過酷な運命へと足を踏み出すことを。
そして、その歩みを支えるための力を、この街に遺してくれていた。
「ステラ様は仰っていたよ。『どれほど強大で完全な天衣であっても、単一の色で編まれた布は、裂け目から一気に破綻する。世界を真に救うのは、無数の色が混ざり合った、不完全なパッチワークの糸だけだ』とね」
バルトアンはルークの肩に、ゴツゴツとした大きな手を置いた。
「受け取れ、ルーク。お前こそが、この糸の真の継ぎ手だ」
「……はい! 大切に、使います」
ルークは木箱をしっかりと抱きしめ、深く頭を下げた。
「さて……次は、東の果て『断絶の岬』だな」
バルトアンの表情が、一転して険しいものとなった。
「あのフェルゼンという男が言った通り、断絶の岬ではすでに異変が始まっておる。今夜、東の空を見張っていた旅の商人が、水平線の彼方に『白銀の光の天幕』が広がるのを目撃したそうだ」
「白銀の光の天幕……アーヴェルの天衣ですね」
梯子の下から、冷ややかな声が届いた。
見上げると、ヴァルドとセラが屋根の上に登ってきていた。
「父上の目的は、断絶の岬に立つ太古の遺産——『天蓋の灯台』を占拠し、そこから大陸全土を覆う至高の天衣を編み上げることだ」
ヴァルドの瞳に、鋭利な決意が宿っていた。
「灯台の光が完全に天衣の魔力に染まった時、この大陸の『第一の織り直し』が完了し、地上の平民たちは一瞬で虚無へと分解される。……残された時間は、多くてもあと三日だ」
「三日……!」
セラが唇を噛み締めた。
「急がなければならないわね。明朝、一番で出発しましょう」
「ああ」
ルークは立ち上がり、東の地平線を見据えた。
暗闇の向こう、遥かな海と空の境界線。
そこには、世界を完全に作り直そうとする絶対の権力者アーヴェルと、彼の率いる完織派の主力が待ち受けている。
だが、今のルークには、恐れはなかった。
右手には母の指貫と万象の縫い糸。
背中には、どんな試練も共に乗り越えてきた、かけがえのない仲間たち。
「僕たちの手で……この壊れゆく世界を、もう一度、縫い繋ぐんだ」
少年が呟いた決意の言葉は、夜風に乗って砂漠を越え、決戦の地たる東の大海原へと静かに響き渡っていった。




