第36話:母の針、天衣の杭
視界が、真っ白な光の奔流に呑み込まれた。
熱いとも、冷たいともつかない。
それは、触れたものの存在理由そのものを抹消し、最初から世界に存在しなかったことにしてしまうような、絶対無の圧力だった。
水神の石碑に突き刺さっていた白銀の『天衣の封殺杭』。
ルークの手がその杭に触れた瞬間、爆発的に噴き上がった純白の神気は、針の形をした無数の光条となって少年の五体を包み込み、肉体の魔力回路を外側から強制的に解きほぐそうと侵食してきた。
『我が天衣に触れるか、不完全なる虫ケラが』
頭蓋の奥底に、凍てつく男の声が木霊する。
大院長アーヴェル・グランの残留思念。
千キロ以上離れた王都の巨塔から、この杭を通じて張り巡らされた、冷徹なる絶対者の眼差し。
『見よ、この汚れなき単一の輝きを。結び目も、ほつれも、歪みすらも許さぬ、これこそが神の領域。……貴様のような継ぎ接ぎの出来損ないが触れてよい理ではない』
「ぐ……あぁぁぁぁっ……!」
ルークの皮膚の表面から、パチパチと金色の火花が散った。
指先から肩へ、肩から胸へと、純白の糸が血管を逆流するように這い上がってくる。
息が詰まる。心臓が握り潰されるような圧迫感。
意識が急速に白濁し、身体の輪郭が虚無の海へと溶け出そうとした、その時——。
トクン……
ルークの右手の人差し指で、古びた革の指貫が、信じられないほどの強烈な熱を放った。
それは、アーヴェルの放つ神聖を装った冷気とは真逆の、陽だまりのような、擦り切れた毛布にくるまれた時のような、深く温かな鼓動だった。
『ルーク』
脳裏に、澄んだ女性の声が響いた。
一度もその姿を直接見たことのない、けれど魂の奥底でずっと求め続けていた、母の声。
『怖がらなくていいの。世界がどんなに冷たくても、手を取り合えば、私たちは温もりを分け合える。……壊れたものを恐れないで。傷を抱えたまま、繋ぎなさい』
「母……さん……!」
指貫の銀の縁から、黄金と白銀、そして夕焼けのような茜色の光が溢れ出した。
母ステラ・アスキスがこの指貫に遺した、不完全な世界を愛し抜いた魂の祈り。
その温かな光が、ルークの体内を侵食していた純白の天衣を押し返し、少年の両眼に再び鮮烈な光を灯した。
左目は眩い黄金。右目は澄み渡る白銀。
オッドアイの両眼が、天衣の杭の深奥を透過した。
(視える……! この杭の構造が……全部、視える!)
アーヴェルの天衣は、確かに恐ろしく精緻だった。
何十万本もの極細の魔糸が、一切の隙間なく、完璧な幾何学螺旋を描いて圧縮されている。
だが、完璧であるがゆえの致命的な欠陥が、そこには存在した。
遊びがない。
一本の糸にかかる張力が、他のすべての糸とミリ単位の狂いもなく連動しているため、たった一箇所——『始まりの結び目』さえ切断されれば、全体の均衡が音を立てて崩壊するのだ。
「アーヴェル大院長……! 完璧なものなんて、この世界のどこにもない!」
ルークは歯を食いしばり、血の滲む唇を開いた。
「傷を隠して、痛みを消して……それで出来上がった世界に、誰の笑顔があるっていうんだ! 母さんは……母さんの魔術は、そんな冷たいものじゃなかった!」
ルークは右手の指先を、杭の根元——三本の白銀糸が極小の隙間で交差する、針の穴ほどの『要の縫い目』へと突き入れた。
「——解糸ッ!!」
金色の魔力が、頑なな天衣の結び目へと滑り込む。
侵入を拒もうとするアーヴェルの思念と、少年の指先が激突し、小島の上で激しい衝撃波が炸裂した。
* * *
「しまっ……馬鹿な! 大院長様の封殺杭が、内側から押し戻されているだと!?」
小島の下で、暗殺官フェルゼンが驚愕の叫びを上げた。
白銀の杭から立ち昇る光が、純白から金と茜のパッチワークのような色彩へと侵食されていく。
神代の天衣が、出来損ないの少年の手によって、まさに解きほぐされようとしていた。
「おのれ、不浄の虫ケラめが! 大院長様の崇高なる御業を汚すことは許さんッ!」
フェルゼンは刺剣を構え、ルークの無防備な背中目掛けて疾走した。
その刺剣の切っ先には、音すら置き去りにする極大の天衣の刺突術式が凝縮されている。
——『天衣瞬突・白銀閃』!
ルークは杭の解体に全神経を集中させている。背後からの攻撃を避けることはできない。
刺剣がルークの心臓を貫かんと迫った、その瞬間——。
「——誰に刃を向けているのよ、無作法者!」
凍てつく怒気を孕んだ、凛とした声が響いた。
ルークの背後、虚空から突如として現れたのは、巨大な氷の百合の花弁だった。
何重もの青白い花びらがルークを包み込むように咲き誇り、フェルゼンの刺剣を正面からガチィィィンッ! と受け止めた。
——『氷織り・六花氷盾』!
「ぐっ……ヴァルシュタイン家の娘か! 小娘が、天衣の貫通力を止められると思うな!」
フェルゼンが魔力をさらに注ぎ込む。
氷の花弁にヒビが走り、砕け散ろうとした。
「止められない? 笑わせないで!」
氷の花弁の向こう側から、セラが碧眼を燃え上がらせて姿を現した。
彼女の指先から紡がれる氷の魔糸には、かつてのような冷え切った硬直はなかった。
ルークに歪みを解かれ、しなやかさを手に入れたセラの氷は、衝撃を柔軟に逃しながら、刺剣の刀身を瞬時に白く凍結させていく。
「私の氷は、もう折れない! ……ルークが繋いでくれたこの魔術は、あなたたちの冷酷な天衣なんかに、絶対に負けないわ!!」
「小癪なァッ!」
フェルゼンが左手の隠し短剣を引き抜こうとした、その刹那。
バチバチバチィッ!!
耳を劈く放電音と共に、プラチナゴールドの雷撃を纏った長身の影が、セラの頭上を飛び越えてフェルゼンの懐へと突入した。
ヴァルド・クレインだった。
「フェルゼン! お前が刃を向けているのは、俺の仲間だ!」
「ヴァルド様……ッ!?」
「父上の操り人形に成り果てた貴様に、我がクレイン家の名を騙る資格はない! ——失せろッ!」
ヴァルドの手刀が、雷光を纏ってフェルゼンの手首を叩き折った。
ボキリ、と鈍い音が響き、白銀の刺剣が宙を舞う。
さらにヴァルドは流れるような回し蹴りをフェルゼンの胴体へと叩き込み、暗殺官の身体を氷の湖面へと吹き飛ばした。
「ぐ、はっ……馬鹿な……ヴァルド様の雷が、これほどまでに洗練されているはずが……」
氷上を何十メートルも滑り倒れたフェルゼンが、血を吐きながら呻いた。
だが、その時——。
『グルルルルルァァァァッ!!』
氷の中に下半身を拘束されていた巨大な古代水竜が、自らの肉体を引きちぎるような狂乱の力で、氷の大地を粉砕して脱出した。
血走った巨大な眼球がルークを捉え、巨木のような太い尾が、小島ごとルークを粉砕せんと唸りを上げて振り下ろされる。
フェルゼンを吹き飛ばしたヴァルドも、氷盾を維持したセラも、間合いが離れすぎていて間に合わない。
「ルークッ!!」
セラの悲鳴が響く。
「させっかよォォォォッ!!」
咆哮と共に、巨竜の尾の直撃コースへと割り込んだのは、赤毛の巨漢——ガレットだった。
大剣を地面に突き刺し、背中で大岩を支えるように腰を落とす。
——『剣織り・不動剛壁陣』!!
ドガァァァァァンッ!!
水竜の巨大な尾が、ガレットの掲げた大剣の腹へと激突した。
凄まじい衝撃波が地底湖の空気を破裂させる。
ガレットの両腕の皮膚が裂け、鮮血が噴き飛んだ。膝の骨がミシミシと軋みを上げ、口からゴボリと血の塊が溢れ出る。
「ガレット君ッ! ——『記述魔術・重力偏向反発層』!!」
後方から駆けつけたミーシャが、魔導ペンを両手で握り、全身の魔力を注ぎ込んでガレットの足元に幾重もの紫の文字を刻み込んだ。
水竜の尾にかかる何百トンもの圧力が、上空へと強引に反らされる。
「う、おおおおおおっ……! ルーク……! 早く……その杭を……引っこ抜きやがれぇぇぇッ!!」
血まみれのガレットが、歯を食いしばって絶叫した。
仲間たちの命を懸けた叫びが、ルークの背中を、魂を、強く押し出した。
「みんな……ありがとう!」
ルークは杭の根元の縫い目を、金色の左目で完全に捉えた。
指貫を擦り合わせ、全身の全魔力を、右手の親指と人差し指の先端へと一点集中させる。
「大院長……! この世界は、誰の所有物でもない! ——解けろッ!!」
ルークの指先が、虚空を閃光のように薙ぎ払った。
「——裁糸ッ!!」
パァァァァァンッ……!!
澄み渡る鐘の音。
何万個ものガラス細工が一斉に砕け散るような、美しく清冽な破壊音が、地底湖の隅々にまで鳴り響いた。
水神の石碑に深々と刺さっていた白銀の『天衣の封殺杭』が、根元の結び目を断ち切られた瞬間、まるで編み目を解かれたレースのように、先端からパラパラと純白の糸の塵となって解けていく。
『おのれ……ステラの出来損ないが……! 我が天衣を……世界の完全を拒むというのか……!』
アーヴェルの残留思念が激怒の咆哮を上げ、やがて白煙となって虚空へと掻き消えた。
杭は、完全に消滅した。
だが、ルークの戦いはまだ終わっていなかった。
杭が引き抜かれた石碑の中心には、無理やり抉り取られた巨大な亀裂が残り、そこから水神の清らかな魔力が、大出血のように吹き出していたのだ。
このままでは、水脈の魔力が枯渇し、オアシスは永遠に死に絶える。
「壊れたら……縫い直せばいい!」
ルークは両手を広げ、石碑の亀裂へと飛び込んだ。
指貫から放たれるのは、黄金と白銀、そして温かな茜色の魔糸。
千切れた古代の魔力回路を、一本ずつ丁寧に手繰り寄せる。
ただ塞ぐのではない。
パッチタウンの街並みのように、異なる色の糸を慈しむように交差させ、傷痕そのものを頑丈な刺繍へと変えていく。
「——接糸・万象縫合ッ!!」
ズバァァァァンッ!!
石碑から、眩いエメラルドグリーンの光の柱が天へと立ち昇った。
亀裂が塞がり、美しく輝く光の刺繍が石碑の表面に刻まれていく。
その瞬間、地底湖の底から、澄み切った清流が間欠泉のように湧き上がった。
紫黒の瘴気が洗い流され、淀んでいた水が、見る見るうちに透き通ったエメラルドの輝きを取り戻していく。
「あ……あぁ……」
ガレットを押し潰そうとしていた古代水竜の巨躯が、ふわりと力を失った。
水神の清流を全身に浴びた水竜の鱗から、黒い呪縛の糸がボロボロと剥がれ落ちていく。
狂気の赤に染まっていた瞳が、穏やかで澄み切った深い青色へと戻った。
本来の神聖なる水脈の守護獣の姿。
水竜は静かに頭をもたげ、小島の上に膝をつくルークの前へと、ゆっくりと鼻先を近づけた。
そして、感謝を捧げるように、少年の頬を優しく撫でた。
「……よかった。痛かったよね。もう大丈夫だよ」
ルークが微笑みながらその青い鱗を撫でると、水竜は心地よさそうに目を細め、静かに湖の深淵へと潜っていった。
地底湖に、完全な静寂と、瑞々しい水のせせらぎが戻った。
「はぁ……はぁ……っ、やりやがった……!」
血まみれのガレットが大の字に倒れ込み、天井を見上げて笑った。
「すげえよルーク……お前、本当にすげえ仕立て屋だぜ……!」
「ガレット君、動かないで! 今すぐ傷口を手当てしますから!」
ミーシャが泣きそうな顔で救急鞄を開ける。
「まったく……無茶ばかりするんだから」
セラがルークの元へと歩み寄ってきた。
その声は呆れていたが、碧眼には隠しきれない安堵の涙が光っていた。彼女はハンカチを取り出し、ルークの額に滲んだ汗と泥をそっと拭った。
「でも……見事だったわ、ルーク」
「ありがとう、セラさん。みんながいてくれたから、できたんだ」
ルークが笑いかけた、その時だった。
「……く、くく……ははははっ……!」
氷の湖面の上。
倒れ伏していた暗殺官フェルゼンが、折れた腕を抱えながら、不気味な笑声を漏らした。
その身体は、主であるアーヴェルの術式が破綻した代償か、足元からパラパラと光の粉となって消滅しかけていた。
「フェルゼン……!」
ヴァルドが冷たい目を向ける。
「喜ぶのは……早いぞ、不完全なる虫ケラどもめ……」
フェルゼンは血反吐を吐き散らしながら、ルークたちを睨みつけた。
「この小結節点を救ったところで……大勢に影響はない……東の果て……『断絶の岬』では……すでに大院長様の手によって、第一の天衣が天を覆い始めている……!」
「断絶の岬で……何が起きているの!?」
セラの問いに、フェルゼンは狂喜の笑みを浮かべて叫んだ。
「大織直しの……幕が上がるのだ……! 不完全な世界よ、泥の人間どもよ……永遠の虚無へと消え去るがよいァァァッ!!」
フェルゼンの身体は完全に光の粒子となって霧散し、地底湖から気配が消え失せた。
洞窟の奥から、パッチタウンの地上へと清らかな水が流れ出していく快音が響いていた。
街は救われた。
だが、五人の視線はすでに、フェルゼンが言い遺した東の最果て——世界の境界膜が引き裂かれようとしている『断絶の岬』へと向けられていた。
「行こう、みんな」
ルークは立ち上がり、母の指貫を胸元に抱いた。
「世界の綻びを……僕たちの手で、縫い止めるために!」
若き紡術師たちの次なる旅路、そして第一部の最終決戦が、いよいよ幕を開けようとしていた。




