第35話:地下水脈の決死行
地下から吹き上がってくる風は、湿っているのに、肌がピリピリと痺れるほどに冷たかった。
パッチタウンの中央広場。
長老バルトアンの工房の地下室から続く頑丈な鉄扉をくぐり抜けると、そこには王都の地下大空洞とは全く異なる、生きた大地の深淵が口を開けていた。
天井から無数に垂れ下がる鍾乳石。
本来であれば、砂漠のオアシスを潤す清らかな地下水が轟音を立てて流れているはずの水路には、いまやヘドロのような紫黒の瘴気が淀み、大気そのものを腐食させる異様な異臭を放っていた。
「うっ……これは酷いですね。魔力の匂いが完全に腐敗しています」
ミーシャが魔導眼鏡の位置を直しながら、眉をひそめた。
彼女の手にある真鍮製のランタン——バルトアンから託された、周囲の魔糸の乱れに反応して青白く揺らめく『原初の灯火』が、激しく火花を散らしてパチパチと警告音を立てている。
「オアシスの水脈そのものが、何者かの手で無理やり首を絞められている状態だな」
先頭を歩くヴァルドが、手袋越しに壁面の岩肌に触れた。
指先から微かなプラチナゴールドの雷光を走らせ、岩盤の内部を探る。
その横顔には、かつてのエリート然とした驕りは微塵もなく、父の放った冷酷な刃の痕跡を直視する苦渋が色濃くにじんでいた。
「水脈の岩盤の奥深くに、細かく編まれた純白の魔糸が何百本も張り巡らされている。……間違いない。父上直属の工作部隊『天衣執行隊』の術式だ。水脈の自然な循環を『不完全な乱れ』と見なし、無理やり氷のように硬直させている」
「自然な水の流れまで不完全だからって殺そうとするなんて、本当にどうかしてるぜ!」
ガレットが肩に担いだ大剣の柄を握り直し、毒づいた。
「水が流れなきゃオアシスは干からびて、街の人間は全員干物になっちまうってのに、そんなことすら頭にねえのかよ!」
「アーヴェル・グランにとっては、人間の営みすらも余計な雑音に過ぎないのよ」
セラの冷ややかな声が、薄暗い洞窟に反響した。
彼女は外套の裾を翻し、足元に迫る紫黒の濁流を、爪先から放った極薄の氷膜で瞬時に踏み固めながら進む。
「完璧な世界を創るためには、現世の泥をすべて洗い流さねばならない……それが彼の信仰。この街の人々がどれほど必死に布を繕い、傷痕を愛して生きていようと、彼の目にはただの不浄なゴミ溜めにしか見えていないのよ」
セラの言葉に、ルークは無言で右手の指貫を触れ合わせた。
革の表面に刻まれた微かな幾何学の紋様。
母ステラ・アスキスが遺してくれたこの指貫は、洞窟の奥へと進むにつれて、まるで誰かを呼ぶように温かな熱を帯びていた。
母はこの街を愛していた。
追放され、名誉を奪われながらも、壊れゆく世界を繋ぎ止めるために一人で旅を続け、このパッチタウンの人々に「繕うことの誇り」を教えた。
その母の愛した場所を、大院長アーヴェルは今また、踏みにじろうとしている。
(絶対に……壊させない。母さんの想いも、この街の人たちの暮らしも、僕が一針も残さず繋ぎ止めてみせる)
ルークの金色の左目が、決意の光を宿して暗闇を貫いた。
「——待って。みんな、止まって!」
ルークが咄嗟に右手を広げ、仲間たちの足を制した。
洞窟が大きくカーブし、天井の低い狭窄部へと差し掛かる手前だった。
「どうした、ルーク? 敵か?」
ガレットが大剣の切っ先を下げ、腰を落とす。
「見て……天井と左右の岩壁の隙間。罠が仕掛けられてる」
ルークが指差した先。
常人の目には、ただの暗い岩肌と湿った空気しか見えない。
しかし、ルークの金色の左目には、空間を幾重にも横断する『極細の透明な糸』がくっきりと浮かび上がっていた。
継ぎ目の一切ない、純白の魔糸。
蜘蛛の巣のように張り巡らされたその糸は、触れた生物の生体魔力に反応して瞬時に収縮し、鋼鉄すら両断するカミソリの結界を形成していた。
「……『天衣の不可視糸』だ」
ヴァルドが息を呑み、額に冷や汗を滲ませた。
「暗殺任務で使われる最上級の防衛結界……気づかずに踏み込めば、全身を賽の目に切り刻まれていたぞ」
「解除できるかしら? 迂回するルートは地図にはないわ」
セラが氷の針を指先に構える。
「氷や雷で無理に刺激したら、自爆術式が作動して洞窟ごと崩落する」
ルークは静かに前に進み出た。
「僕にやらせて。……どんなに完璧に編まれた糸でも、岩壁に固定している『結び目』だけは、外の世界と接触しているはずだから」
ルークは右手を伸ばし、呼吸を整えた。
左目の視野を極限まで絞り込む。
岩肌の微細な凹凸、鉱物の結晶、そしてそこに食い込むように打ち込まれた純白の魔糸の根元。
寸分の狂いもない緊張を保つ糸の束。だが、岩石という不完全な物質に固定されている以上、そこには必ず、わずかコンマ数ミリの『張力の偏り』が存在した。
「——解糸」
ルークの指先が、空気を撫でるように滑らかに動いた。
金色の魔力を帯びた指先が、最も強い張力がかかっている三本の基幹糸の交差点へと、滑り込むように触れる。
力任せに引きちぎるのではない。
張り詰めた弦を優しく撫で、その振動を自らの魔力で相殺するように、結び目の緊張を外側からそっと解きほぐしていく。
チリ……チリリ……
硬質なガラスが擦れ合うような微かな音が響いた。
張り巡らされていた不可視の糸が、突如として張力を失い、ふわりと力を抜いて宙に弛んだ。
「今だ……! ——裁糸ッ!」
パチンッ!
指貫の銀の縁が、弛んだ糸の交差点を正確無比に断ち切った。
その瞬間、通路全体に張り巡らされていた百本以上の純白の魔糸が一斉に霧散し、光の粉となって闇の中へと消え去った。
罠は、完全に無力化された。
「……信じられんな」
ヴァルドが目を見張り、感嘆の息を漏らした。
「天衣の暗殺結界を、一切の警報も鳴らさずに、指先一つで解体してみせるとは。……お前のその眼と指先は、我がクレイン家のどんな熟練暗殺官よりも恐ろしいぞ」
「あはは……僕は暗殺なんてしないよ。ただ、危ない結び目を解いただけだから」
ルークは額の汗を拭い、照れくさそうに笑った。
「ふん、謙遜ばかりして」
セラが小さく唇を尖らせたが、その瞳にはルークへの全幅の信頼が揺るぎなく宿っていた。
「行きましょう。この先に罠を仕掛けた本隊がいるはずよ」
* * *
狭窄部を抜けた先。
洞窟は突如として巨大なドーム状の地底湖へと開けた。
見上げるほど高い天井からは、青白い燐光を放つ苔が生い茂り、湖面を不気味な薄明かりで照らし出している。
そして——その地底湖の光景を目にした瞬間、五人は息を呑んで立ち尽くした。
「な……んだ、あれは……!?」
ガレットが呻くように声を絞り出した。
湖の中央に浮かぶ、小島のような巨岩。
そこには、太古の昔からこの地の水脈を支えてきたはずの、巨大な『水神の石碑』が鎮座していた。
しかし、その美しい青の石碑の中心には、身の丈三メートルを超える巨大な白銀の杭——無数の呪文が刻まれた『天衣の封殺杭』が、深々と突き刺さっていたのだ。
杭から脈打つように放たれる純白の光条。
それが石碑を締め上げるたびに、地底湖の水が濁り、水底の亀裂から黒い泥のような瘴気——『ほつれ』の原液がボコボコと湧き上がっていた。
だが、真の脅威はそれだけではなかった。
ザパァァァァァンッ!!
湖面が突如として大爆発を起こし、何十トンもの水柱が天井へと吹き上がった。
水煙の向こうから姿を現したのは、全長二十メートルを超える巨大な蛇の怪物——本来ならば水脈を守護する聖獣であるはずの『古代水竜』だった。
しかし、その全身はもはや青く輝く清らかな鱗ではなかった。
首から胴体にかけて無数の黒い魔糸が肉に食い込み、瞳は理性を完全に失った血赤の光を放っている。
天衣の杭から溢れ出る瘴気に侵され、狂暴な『ほつれの化身』へと強制変異させられていたのだ。
『グルルルルルァァァァッ!!』
空間を直接歪める咆哮が、地底湖全体を激震させた。
水竜の巨躯が湖面を叩き割るだけで、津波のような濁流が四方へと押し寄せてくる。
「聖獣を瘴気で狂わせて、番犬代わりに使っているのか……!」
ヴァルドの全身から、激しい怒りと共にプラチナの電撃が迸った。
「その通りでございますよ、ヴァルド様」
小島の上、石碑の影から、静かに一人の男が歩み出てきた。
純白の法衣に、顔の下半分を白布で覆った暗殺官の装い。
手には、天衣の魔力で編み上げられた細身の魔導刺剣を握っている。
「大院長直属、天衣執行隊第三席——フェルゼンと申します。……大院長様は、若き主が過ちを犯さぬよう、私をここに配置されました。まさか、本当にあの出来損ないの少年を連れて、ここまで嗅ぎつけてくるとは」
「フェルゼン……! 貴様、父上の命令でこの街の結節点を破壊する気か!」
ヴァルドが叫ぶ。
「破壊ではございません。浄化でございます」
フェルゼンは平然とした声で言い放った。布の奥の瞳には、一切の罪悪感も人間性もない、冷徹な狂信だけが宿っていた。
「この薄汚れた継ぎ接ぎの街、不完全な者どもの吹き溜まりを、聖なる天衣の光によって無に還す。……それこそが、やがて訪れる『大織直し』の崇高なる序曲。ヴァルド様、大院長様の御心に背くことは、我が身を以て許しませぬ」
フェルゼンが刺剣を掲げた。
その合図に応じるように、狂変した古代水竜が鎌首をもたげ、巨大な顎を開いた。
口腔の奥底で、超高圧縮された紫黒の魔力水弾が、太陽のような輝きを放ちながら膨張していく。
「来るわよ……! 全員、散開ッ!」
セラの叫びと同時に、水竜の口から放たれた極大の破壊閃光が、地底湖を一直線に両断して迫ってきた。
「散開したら直撃を食らう! 俺が正面を受け止めるッ!」
ガレットが地を蹴り、仲間たちの前に立ちはだかった。
大剣を両手で構え、全身の赤銅色の魔力を刀身に限界まで凝縮させる。
——『剣織り・金剛重層断』!!
ドォォォォォォンッ!!
直撃の瞬間、凄まじい衝撃波が地底湖を揺るがした。
ガレットの足元の岩盤がバリバリと砕け散り、大剣の刃が悲鳴を上げる。
水弾の持つ質量と腐食性の瘴気が、ガレットの腕の筋肉を引き裂かんばかりに軋ませていた。
「ぐ、おぉぉぉぉッ……! 重え……! だが、通すわけには……いかねえんだよォッ!」
「ガレット、耐えて! ——『記述魔術・三重衝撃拡散陣』!」
ミーシャが魔導ペンを虚空に走らせ、ガレットの背後に三枚の光の陣を展開した。
正面からの圧力が瞬時に四方の空間へと分散され、ガレットを押し潰そうとしていた衝撃が半減する。
「今よ! 湖面を凍らせるわ!」
セラが両手を湖面へと叩きつけた。
彼女の指先から、青白い極低温の魔糸が何千本も湖水の中へと射出される。
——『氷織り・絶対氷海』!
ピキキキキキキッ!!
濁流となって荒れ狂っていた巨大な地底湖が、瞬く間に厚さ一メートルを超える頑丈な氷の大地へと凍結された。
水竜の下半身が氷の中に閉じ込められ、怪物の巨躯が激しく身悶えする。
「ヴァルド、隙を作って!」
ルークの叫びに、金髪の少年が呼応した。
「言われるまでもない! ——消え失せろ、我が家の恥部どもがッ!」
ヴァルドが天へと跳躍した。
両手から放たれたのは、先ほどまでとは別次元の高密度なプラチナゴールドの雷光。
ルークの手によって修繕された魔力回路が、限界を超えた速度で術式を紡ぎ上げる。
——『雷織り・天雷招来』ッ!!
ズドォォォォォンッ!!
地底湖の天井を突き破らんばかりの白熱した雷の柱が、水竜の頭頂部と、小島に立つフェルゼン目掛けて同時に落雷した。
視界が真っ白に染まり、水竜が苦悶の咆哮を上げて頭部を氷の湖面へと叩き落とされる。
「な……馬鹿な、ヴァルド様の雷がこれほどまでに……!?」
小島の上で雷を刺剣で受け流したフェルゼンが、体勢を崩してよろめいた。
四人が繋いでくれた、完璧な一撃の道。
氷の湖面を疾走する少年の影があった。
ルークだった。
ルークは右手の人差し指に嵌めた革の指貫を強く握り締め、小島の中央——水神の石碑に深々と突き刺さる白銀の『天衣の封殺杭』目掛けて跳躍した。
金色の左目が、杭の内部に編み込まれた無数の冷酷な術式を、完全に捉えていた。
「あの街を……みんなのオアシスを、返してもらうッ!」
ルークの手が、眩い黄金の光を纏いながら、天衣の杭へと真っ直ぐに伸ばされた。
その瞬間だった。
『——我が天衣に触れるか、不完全なる虫ケラが』
氷の底よりも冷たい、聞き覚えのある男の声が、杭の内部から直接、ルークの頭蓋へと響き渡った。
杭に仕込まれていた、大院長アーヴェル・グランの強力な残留思念結界。
白銀の杭が眩い純白の閃光を放ち、至高の天衣の神気が、ルークの身体を消滅させんと牙を剥いて爆発した。
「ルークッ!!」
セラの悲痛な叫びが、凍りついた地底湖に木霊した。




