第33話:荒野の馬車旅
王都グランディスを旅立ってから、三日が過ぎた。
石畳で舗装された整然たる街道はとうに途切れ、視界を埋め尽くすのは、赤茶けた土と乾いた灌木がどこまでも続く広大な荒野だった。
吹き抜ける風は砂を巻き上げ、太陽は容赦ない熱線を地表へと投げかけている。
その荒野を、二頭立ての大型幌馬車が力強く砂煙を上げて進んでいた。
「オラッ、進め進めェ! 日没までに次の給水所まで行かねえと野宿だぞ!」
御者台で手綱を捌きながら、ガレットが豪快に叫ぶ。
その隣には、黒い革外套を羽織ったヴァルドが、手元の地図と羅針盤を睨みながら冷静に口を挟んだ。
「速度を上げすぎるな、ガレット。馬の脚に余計な負荷がかかる。……それから、左前方に見えるあの岩山は避けて通れ。魔力溜まりの気配がある」
「へいへい、旦那! 相変わらず細けえ指示だこって!」
「貴様の操縦があまりにも大雑把すぎるのだ、馬鹿者」
軽口を叩き合いながらも、二人の連携は淀みない。
かつては大院長の御曹司と平民の不良生徒として睨み合っていた二人が、今では背中を預け合う良き相棒となっていた。
一方、幌馬車の荷台の中は、小さな移動研究室のような様相を呈していた。
木製の机や寝台が固定され、壁一面にはミーシャが持ち込んだ古代文献の羊皮紙がびっしりと貼り付けられている。
「ルークさん、この羊皮紙を見てください!」
分厚い眼鏡を指で押し上げながら、ミーシャが興奮した面持ちで手招きした。
机の向かい側で、ルークは使い込まれた革の指貫を嵌めた指先で、壊れかけた魔導コンパスの回路を修繕していた。
「ん? 何か分かったの、ミーシャ?」
「はい! 私たちが目指している東の果て『断絶の岬』についてですが、千年以上前の記述に気になる一節を見つけました。……『東の果てに眠るは、原初の第七針。天と地を縫い留めし白銀の楔』と書かれています!」
「白銀の楔……」
ルークは自分の右手をそっと握りしめた。
エッジタウンを出る時、マルタ院長から託された母の形見——この革の指貫に刻まれた紋様と、どこか重なる響きがあった。
「それって、旧織紋遺跡にあった『巨大な機織り機』みたいな、古代の縫合装置のことかしら」
荷台の奥、窓枠に腰掛けて外を警戒していたセラが、涼やかな声で会話に加わった。
風に揺れる銀色の長髪。膝の上には、彼女の冷気を帯びた白木の魔導杖が静かに横たえられている。
「おそらく、その通りです!」
ミーシャが頷く。
「旧織紋遺跡が大地を縫い合わせる『機織り機』だったとすれば、断絶の岬にあるのは、世界帷そのものを海と天に固定するための『巨大な縫い針』……あるいは結び目そのものだと考えられます。アーヴェル大院長が狙っているのは、その楔を引き抜くことのはずです」
「楔が引き抜かれたら、どうなるの?」
ルークが問うと、セラの碧眼が険しさを帯びた。
「東大陸の半分が、一瞬にして虚無の底へと脱落するわ。海が裂け、空が剥がれ落ちて……何百万人もの命が、跡形もなく消え去る。……大院長様にとっては、新世界を創るための『余白』を作る行為に過ぎないのでしょうけれどね」
「そんなこと、絶対にさせない」
ルークは小さく、だが固い決意を込めて呟いた。
修繕を終えた魔導コンパスから、カチリと心地よい音が鳴り、針が真っ直ぐに東を指し示した。
その時だった。
「——おい、全員構えろ! 前方から悲鳴だ!」
御者台のヴァルドが、鋭い声を荷台へと投げ込んできた。
馬車が急ブレーキをかけ、ギギギッと車輪を軋ませて停止する。
ルークたちが幌から身を乗り出すと、数百メートル先の荒野で、もうもうと立ち上る黒煙が見えた。
三台の商隊馬車が円陣を組んで立ち往生しており、その周囲を、異様な影が何十体も取り囲んでいた。
「ありゃあ……野盗なんかじゃねえぞ!」
ガレットが木剣を抜き放ち、目を細めた。
取り囲んでいるのは、狼のような四足歩行の獣——だが、その肉体は骨と筋肉ではなく、ドロドロとした黒い泥のような魔糸が幾重にも絡まり合って形成されていた。
頭部には、人骨を模した白い仮面。
口からは黒い瘴気が滴り落ち、獲物を食い破らんと唸り声を上げている。
「『ほつれ』の群れ……!? しかも、四足獣の変異種だわ!」
セラが即座に杖を構える。
「普通のほつれじゃありません!」
ミーシャが魔導眼鏡で敵の集団をスキャンし、顔色を変えた。
「あの群れの首筋を見てください! ……純白の魔糸で編まれた、小さな『首輪』が付けられています!」
「首輪……!? 完織派の連中が、ほつれを使役しているというのか!?」
ヴァルドが奥歯を噛み鳴らした。
「商隊の護衛が全滅しかけている! ルーク、行くぞ!」
「うん!」
五人は馬車を飛び出し、荒野を疾走した。
商隊の中心では、負傷した護衛の戦士たちが血を流して倒れ伏し、商人や子どもたちが荷台の陰で抱き合って震えていた。
怪物の群れのリーダー格と思われる、巨大な黒狼が、獲物を仕留めんと牙を剥いて飛びかかる。
「誰か……助けてくれぇっ!」
「——そこまでだッ!!」
天から降り注いだ紅蓮の閃光が、黒狼の眉間を正確に両断した。
ガレットの『剣織り・重破斬』だ。
叩き斬られた怪物が黒い塵となって吹き飛ぶ。
「な……増援!?」
商人が目を丸くする。
間髪を入れず、セラの氷の魔術が荒野を白銀の世界へと変貌させた。
「——『氷織り・千本氷針』!」
虚空から放たれた無数の氷の針が、押し寄せていた獣たちの足を地面に縫い留めていく。
「グルルァァッ!?」
足止めを食らった怪物の群れに、ヴァルドの容赦ない雷撃が降り注ぐ。
「——灰燼に帰せ、『雷織り・天雷連弾』ッ!!」
純白のプラチナゴールドの雷光が炸裂し、怪物の半分が一瞬にして蒸発した。
わずか十秒足らずで戦況を覆した三人の猛攻。
だが、残る十数体の獣たちは、仲間の死に怯むこともなく、首輪の白い光に操られるように、今度はルークとミーシャ目掛けて殺到してきた。
「ミーシャ、僕の後ろへ!」
ルークが進み出た。
金色の左目が、迫り来る獣たちの体内を一瞬で走査する。
怪物を突き動かしているのは、首元に巻かれた『純白の首輪』から心臓部へと伸びる、一本の極細い天衣の魔糸だった。
完織派の術者が、遠隔から怪物を操り人形のように操っているのだ。
(操り糸さえ切れば、怪物は自壊する!)
ルークは右手の人差し指を虚空にかざした。
革の指貫が眩い黄金の光を放つ。
「——『裁糸』・乱れ打ちッ!!」
パチン、パチン、パチンッ……!!
目にも留まらぬ速さで、ルークの指先が宙を十数回薙ぎ払った。
空を走る金色の光の線が、迫り来る獣たちの首元の白い魔糸を、寸分の狂いもなく同時に切断した。
操り糸を失った獣たちは、まるで電源を切られた操り人形のようにその場でピタリと動きを止め、それからドサドサと地面に崩れ落ちた。
肉体を繋ぎ止めていた魔力が抜け、黒い泥となって大地へと還っていく。
「……あ、危なかった……」
ミーシャが安堵の息を吐く。
「す、すげえ……! あんな化け物の大群を、一瞬で片付けちまうなんて……!」
荷台の陰から這い出してきた商隊の主——恰幅のいい中年男性が、信じられないものを見る目でルークたちを見つめていた。
「怪我はありませんか?」
ルークが駆け寄り、商人に手を差し伸べる。
「あ、ああ……! 助かった、本当に助かったよ! 私は王都と東部を往復している交易商のゴルドという者だ。君たち、紡術院の生徒さんかい? なんとお礼を言ったらいいか……!」
「礼には及ばん」
ヴァルドが歩み寄り、冷徹な声で尋ねた。
「それよりも商人。あの怪物はどこから湧いた? 街道の魔物にしては統率が取れすぎていた」
商人のゴルドは、怯えたように周囲の荒野を見回し、声を潜めた。
「……ここから半日ほど東に進んだところにある、流浪の紡術師たちの街『パッチタウン』だよ」
「パッチタウン……?」
ルークが聞き返す。
「ああ。我流の紡術を使う職人や、訳あって国を追われた者たちが集まる宿場町なんだが……数日前から、街の様子がおかしいんだ。街の地下水脈が黒く濁り、あんな白い首輪をつけた化け物たちが街の周辺をうろつき始めて……街全体が、何者かに封鎖されかけている」
五人は顔を見合わせた。
「完織派ね」
セラが呟いた。
「断絶の岬へ向かう街道の要所を、先回りして制圧する気だわ」
「上等じゃねえか!」
ガレットが拳を鳴らす。
「待ち伏せされてんなら、真正面からブチ破って進むだけだ!」
「行こう、パッチタウンへ」
ルークは東の地平線を見据え、言った。
「苦しんでいる人たちを、放っておけない」
救われた商隊を護衛しながら、五人の幌馬車は再び荒野へと駆け出した。
東大陸の自由の民が集まる街『パッチタウン』。
そこには、ルークの『継ぎ接ぎ』の運命を揺るがす、新たな出会いが待ち受けていた。




