第32話:旅立ちの帆
出発の前夜。
王立紡術院の最奥、古い蔦が壁一面を覆う『繕組』の離れ教室。
埃っぽかったはずの室内はすっきりと片付けられ、木製の作業机の上で、一本の魔導ランプが柔らかな琥珀色の光を投げかけていた。
ルークは一人、羊皮紙に向かって静かにペンを走らせていた。
遠く辺境のエッジタウンで、自分を赤ん坊の頃から育ててくれた孤児院の院長、マルタ先生へ宛てた手紙だった。
『マルタ先生、元気ですか。風邪などひいていませんか。
エッジタウンを出てから、本当にあっという間に時間が過ぎました。
最初はこの王立紡術院で、僕の「継ぎ接ぎ」は出来損ないと笑われ、誰も相手にしてくれませんでした。
だけど、壊れた魔導具や誰かの魔術を直していくうちに、僕の力を信じ、背中を預けてくれるかけがえのない仲間たちに出会いました。
剣を織る豪快で不器用な親友、古代の言葉を熱心に研究する賢い少女、氷のように冷たく見えて誰よりも優しい首席の令嬢、そして……かつて僕を見下していたけれど、本当は誰よりも仲間思いのライバル。
僕は今、一人じゃありません。
明日から、僕たちは東の果て——「断絶の岬」へと向かいます。
世界を引き裂こうとする巨大な企みを止め、壊れかけたこの世界を、僕たちの手で縫い直すために。
マルタ先生が託してくれた、母さんの形見であるこの指貫と一緒に、行ってきます。
リリーやトーマス、みんなにもよろしく伝えてください。
絶対に、無事で帰ってきます』
インクを乾かし、手紙を丁寧に三つ折りに畳んで封筒に収める。
ふとペンを置き、軋む木製の椅子から立ち上がって窓の外を見上げた。
雲一つない夜空に、満天の星々が静かに煌めいている。
金色の左目を凝らすと、星と星を結ぶ見えない魔糸の網の目が、夜空全体を優しく包み込んでいるのが視えた。
この不完全で、傷だらけの世界は、今夜も多くの人々の祈りと共に、確かに息をしていた。
「……待ってて、母さん。僕、必ずやり遂げるから」
指貫にそっと唇を寄せ、ルークは静かに目を閉じた。
* * *
翌朝。
王都グランディスの東門を見下ろす、小高い見晴らしの丘。
朝靄の向こうから、昇り始めた太陽が茜色の光を地平線へと投げかけていた。
丘の下には、ヴァルドが自らの私財と人脈を駆使して手配した、大型の二頭立て特注幌馬車が停められていた。
黒塗りの堅牢な車体に、長距離の荒野走破に耐えうる頑丈な魔導車輪。
御者台の前では、毛並みの美しい二頭の駿馬が、白い息を吐きながら力強く蹄を鳴らしていた。
「おーい、ルーク! 荷物の積み込み、全部終わったぞー!」
馬車の荷台から、ガレットの野太い声が響き渡った。
ガレットは汗を拭いながら、特大の麻袋を軽々と放り込んでいる。
荷台の中には、数ヶ月分の野営用具や保存食、寝袋、そしてミーシャが学院の図書室から厳選して持ち出した膨大な古代文献の木箱が、隙間なくぎっしりと固定されていた。
「遅いぞ、ルーク。日の出と共に出立する約束だったはずだ」
御者台に腰掛けたヴァルドが、手綱を握りながら冷ややかに口を挟む。
名門貴族の豪奢な制服を脱ぎ捨て、旅慣れた黒い革外套を身に纏ったその姿には、かつてのエリートの傲慢さは微塵もなく、厳しい旅路に挑む戦士の引き締まった精悍さが宿っていた。
「馬の調教も点検も完璧だ。いつでも出せるぞ」
「あはは、ごめんヴァルド、ガレット」
ルークが丘を駆け下りると、馬車の脇でミーシャが分厚い手帳と大陸地図を抱えて待っていた。
「ルークさん、おはようございます! 昨夜のうちに、王都から東大陸の東端『断絶の岬』までの最適な巡行ルートを再計算しておきました!」
ミーシャが目を輝かせながら地図を広げる。
「街道を急いでも馬車で約十日の旅程です。道中には、かつて紡術院を追放された流浪の紡術師たちの集落『繕い屋』の宿場町もあります。大院長の手先——完織派の追手を撒くためにも、彼らの協力を得られれば心強いのですが……」
「そのあたりは、俺の顔と金でなんとでもなる」
ヴァルドが手綱を軽く打ち鳴らした。
「我がクレイン家の裏の信用手形がある。東部の商隊ギルドや宿場町に、俺の顔を知らぬ者はおらん」
「頼もしいわね、元・お坊ちゃん」
後ろから、凛とした涼やかな足音と共にセラが歩み寄ってきた。
銀色の長髪を朝風になびかせ、旅慣れた白いフード付きマントを羽織っている。
手には、彼女の冷気を宿した細身の魔導杖。
ルークの隣に並び立つと、セラは小さく息を吐き、悪戯っぽく微笑んだ。
「レイラ教官が、私たちの長期実地研修の認可証を正式に偽造してくれたわ。大院長様が異変に気づいて追手を放つまで、少なくとも三日は稼げるはずよ」
「……ありがとう、セラさん」
「お礼なんていいわよ。……言ったでしょう。私の氷織りは、もうあなたと繋がっているんだから」
セラはツンとそっぽを向いたが、その白い耳たぶは朝日の光よりも赤く染まっていた。
「ヒューヒュー! 朝っぱらから熱いねえ!」
「ガレット、余計な茶々を入れるな。馬が緊張するだろうが」
「なんだとヴァルド、お前だって顔がニヤついてんぞ!」
賑やかな笑い声が、朝靄の丘に響き渡る。
かつてはバラバラだった五人が、今、一つの確かな絆で結ばれていた。
その時だった。
「ルーク先輩ッ! ルーク先輩ぃぃぃッ!」
丘の麓から、何人もの息せき切った声が響いてきた。
振り返ると、サードクラスや平民の生徒たち十数人が、息を切らして坂道を駆け上がってくるのが見えた。
第十三話で、壊れた懐中時計や木剣、ローブをルークに直してもらった生徒たちだった。
「みんな……!? どうしてここに?」
「先輩が、遠くへ研修に行っちゃうって聞いて……!」
先頭を走ってきた小柄な男子生徒が、抱えていた大きな包みを差し出した。
「これ、みんなで作ったんです! 先輩へのお守りです!」
包みを開くと、そこには縦横一メートルほどの大きな旗が入っていた。
生徒たちの着古した制服やローブの端切れを持ち寄り、色とりどりの糸で縫い合わせた、パッチワークの守り旗。
中央には、金色の糸で大きく『針と糸』の紋章が刺繍されていた。
「不格好ですけど……先輩が教えてくれたんです。壊れても、不揃いでも、繋ぎ合わせれば強くなれるんだって!」
「先輩、絶対に無事で帰ってきてくださいね!」
生徒たちの純粋な笑顔と、温かい手の温もり。
ルークの視界が、滲んだ。
かつて「出来損ない」と蔑まれていた自分が、こんなにも愛され、送り出されている。
「……ありがとう、みんな。大切にするよ!」
ルークはパッチワークの旗を高く掲げ、幌馬車の側面にしっかりと結びつけた。
風を孕んで美しくたなびく、色とりどりの旗。
ふと、遠くの城壁の上を見上げると、一人の黒髪ショートの女性が立っていた。
レイラ・ファースト教官だった。
彼女は小さく手を振り、教え子たちの旅立ちを静かに見守っていた。
「よーし! 全員揃ったな!」
ガレットが両手を打ち鳴らし、豪快に叫んだ。
「行き先は世界の果て、断絶の岬! 世界の綻びを片っ端から繕う、俺たち『繕組・特別遠征隊』の出発だァッ!」
「おーっ!」
ミーシャが拳を突き上げ、ヴァルドが笑い、セラが小さく吹き出す。
ルークは右手を胸に当てた。
革の指貫は、まるで行くべき道を示す羅針盤のように、東の空へ向けて温かな熱を放ち続けていた。
(行こう。壊れかけたこの世界を、僕たちの手で繋ぎ直すために)
「出発だ!」
ヴァルドが手綱を振るうと、二頭の駿馬が力強く地を蹴った。
朝焼けに染まる広大な街道を、一台の馬車が東へと疾走していく。
その行く手には、未知なる大陸の荒野と、蠢く完織派の暗雲、そして——不完全な世界を愛する人々の出会いが待っていた。
少年が世界を縫い直す物語は、今、真の旅立ちの時を迎えた。
(第一部・前編 完)




