第31話:王都帰還、そして——
旧織紋遺跡での大事件から二日後。
王立紡術院は、開学以来最大の激震と興奮に揺れていた。
合同実地演習に参加した全生徒百名が無事に生還したという奇跡。
そして、引率責任者であったオルソン上級教官が反逆者として拘束され、魔導憲兵隊へと引き渡されたという衝撃の事実。
学舎の至る所で、生徒や教官たちがその話題で持ちきりとなっていた。
「おい、聞いたか? 遺跡で巨大な裂け目が出現した時、あの第四班が全員を救ったんだってよ!」
「ああ、第一班のヴァルド様も一緒に戦ったらしいぜ!」
「ルーク・アスキス……あいつ、入学試験では『測定不能』だったのに、古代の神殿を丸ごと起動させて空間を縫い合わせたって本当かよ……!?」
もはや、ルークを「出来損ない」「最底辺」と嘲笑う者は院内に一人もいなかった。
廊下を歩くたびに向けられる視線は、かつての冷淡な無視から、純粋な敬意と憧憬、そして僅かな畏怖へと完全に塗り替わっていた。
すれ違う上級生たちが小さく会釈をし、下級生たちが憧れの目でルークの背中を見つめる。
だが、当の本人はといえば、相変わらず使い古した革の鞄を抱え、恐縮そうに頭を下げながら歩くだけだった。
* * *
しかし、その華やかな賞賛の光の裏で、闇はより深く、冷たく蠢いていた。
防音結界が張られたレイラ・ファーストの第一教官室。
机を囲んでいたのは、ルーク、セラ、ガレット、ミーシャ——そして、もう一人。
窓辺に腕を組み、険しい表情で佇む金髪の少年、ヴァルド・クレインだった。
「……査問会の正式な裁定が下りたわ」
レイラが重苦しい溜め息と共に、一枚の報告書を机の上に置いた。
そこには、簡潔にして欺瞞に満ちた公式見解が記されていた。
『オルソン元上級教官は、禁忌とされる古代異端魔術の研究に傾倒し、精神に錯乱をきたした末の単独犯行と断定。背後関係は一切なし。終身刑に処す』
「単独犯行……!? ふざけるなッ!」
ガレットが拳を机に叩きつけた。
「あれだけ大勢の生徒を巻き込んで、天衣の魔糸まで使ってたってのに、全部あいつ一人のせいにしてもみ消したってのか!?」
「ええ。大院長アーヴェル・グラン直々の手回しよ」
レイラが目を伏せる。
「オルソンは取調室で、大院長の名を口にする前に……記憶と魔力を司る脳内回路を、未知の遠隔呪縛によって焼き切られたわ。今は廃人同様。これ以上の証言を引き出すことは不可能です」
「父上の……いつものやり口だ」
ヴァルドが吐き捨てるように言った。その声には、深い自嘲と嫌悪、そして抑えきれない怒りが滲んでいた。
「役に立たなくなった手駒は、証拠ごと即座に切り捨てる。……だが、俺もただ黙って見ていたわけではない」
ヴァルドは周囲の気配を警戒するように扉を一瞥すると、懐から一通の厳重に封印された羊皮紙の束を取り出し、机の上に広げた。
そこには、大院長執務室の最高機密印が押された、古代大陸地図の精密な複写図が記されていた。
「ヴァルド、これ……!?」
ルークが目を見開く。
「昨夜、父上が最高議会の緊急招集に出席している隙を突き、執務室の隠し金庫から命がけで複写してきた」
ヴァルドは淡々と言ったが、その指先には生々しい切り傷と火傷の跡があった。大院長室に仕掛けられた致死性の防衛結界を、無理やり自らの雷でこじ開けて侵入した証拠だった。
「父上は、旧織紋遺跡の失敗に怯むどころか、計画を大幅に前倒しにしている。……父上の狙いは、この大陸に存在する四つの『主要結節点』をすべて破壊し、世界帷を一度完全に解体することだ」
「四つの結節点……!」
ミーシャが身を乗り出し、眼鏡を押し上げた。
「一つは、先日ルークが修繕した旧織紋遺跡。もう一つは、この紡術院の地下大空洞だ。……そして残る二つのうち、父上が次に狙いを定めているのが、ここだ」
ヴァルドの指先が、地図の最東端——大海原に突き出た断崖絶壁の岬を強く叩いた。
「東大陸の果て、『断絶の岬』。……かつて世界帷が最も薄く引き伸ばされ、今も年中を通して『ほつれ』の嵐が吹き荒れている危険地帯だ。父上はすでに、直属の完織派部隊を現地へ密かに向かわせている」
「断絶の岬……」
ルークは自分の右手を握りしめた。
革の指貫が、まるで行くべき道を示すかのように、トクンと微かな熱を放っていた。
「学院の中に留まっていては、世界は守れないわね」
セラが静かに立ち上がり、白い外套を羽織った。
「行きましょう、東の果てへ。……大院長様の野望を、私たちが先回りして止めるのよ」
「ルーク、俺も行くぞ」
ヴァルドがルークの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は父上の息子だ。だが、あの男の狂気に付き合う気はない。……お前たちの盾となり、父上の手先を迎え撃つために、俺の雷を使え」
「ヴァルド……」
ルークは即座に微笑み、ヴァルドの手を握りしめた。
「ありがとう。君がいてくれたら、百人力だよ」
「へっ、決まりだな!」
ガレットが木剣を構え、ミーシャが書類を鞄に詰める。
レイラ教官は、頼もしく成長した五人の教え子たちを見つめ、静かに頷いた。
「長期研修の認可証は、私が責任を持って偽造します。……行ってきなさい、世界を繋ぎ直すために!」
レイラは机の引き出しから、教官印が押された五枚の許可証を取り出し、一人一人に手渡した。
「道中、何が起きても学院は公式にはあなたたちを助けられないわ。……それでも、行く覚悟はある?」
「「「「「はい!」」」」」
五人の声が、寸分の狂いもなく重なり合った。
* * *
その日の夜。旅立ちを明朝に控えた男子寮のルークとガレットの部屋に、セラとミーシャ、そしてヴァルドが集まっていた。
机の上には、ミーシャが揃えた東大陸の地形図や魔導コンパス、ガレットが研ぎ澄ました予備の剣、セラの調合した高純度の氷結魔晶石が整然と並べられている。
「ふぅ……これで全員の旅支度は完了ですね」
ミーシャが額の汗を拭い、温かい紅茶を全員のカップに注ぎ分けた。
「悪いな、こんな狭い部屋に集まってもらって」
ルークが苦笑いすると、ヴァルドが紅茶を口にして微かに口元を緩めた。
「構わん。我が家の豪奢な客間よりも、よほど落ち着く。……何より、ここには嘘がない」
「おっ、お坊ちゃんもようやく庶民の部屋の良さが分かってきたじゃねえか!」
ガレットがヴァルドの肩をバンと叩き、ヴァルドが顔を顰める。
「気安く触るなと言っているだろう、赤毛」
「へへっ、照れるなって!」
そのやり取りを見て、セラが小さく吹き出した。
「本当に……数日前まで殺し合いのような決闘をしていた二人とは思えないわね」
「セラさんこそ、名門ヴァルシュタイン家の令嬢が、男子寮のこんな質素な部屋でお茶を飲むなんて、以前なら考えられなかったんじゃないですか?」
ルークが微笑みかけると、セラはフイと顔を赤らめてそっぽを向いた。
「べ、別にいいでしょう! 形式や家柄なんて、世界の危機の前には何の役にも立たないもの。……それに、あなたたちと一緒にいる時が、一番……息がしやすいのよ」
小さな、だが本心の滲むセラの言葉に、室内の空気がふわりと温かくなった。
ルークは窓辺へと歩み寄り、王都の夜景を見つめた。
無数の灯火が瞬く美しい街並み。
その平穏な暮らしの下で、世界帷は軋み、大院長アーヴェルの冷酷な手によって引き裂かれようとしている。
エッジタウンの孤児院を出たあの日、自分には何一つ持っているものはなかった。
魔力測定不能の出来損ない。誰からも嘲笑され、見下されていた少年。
だがいま、自分の隣には背中を預け合える最高の仲間たちがいる。
直すべき世界があり、繋ぐべき未来がある。
「明日から……本当の旅が始まるんだね」
ルークがポケットの中の銀の指貫に触れながら呟く。
「ああ。東の果て、断絶の岬……どんな怪異が待っていようと、俺たち五人で切り裂いて、お前の針で縫い合わせてやろうぜ」
ガレットが力強く親指を立てる。
「私の氷も、すべてあなたに預けるわ」
「私も、古代の知識で全力でナビゲートします!」
「俺の雷が、敵のすべてを焼き払う盾となろう」
五つの手が、机の中央で重なり合った。
不揃いで、不完全で、それぞれ異なる傷と誇りを抱えた若き紡術師たち。
だが、その手と手が繋ぎ合わされた時、彼らの心には、どんな完全無欠の天衣をも凌駕する、強靭で温かな絆の布地が織り上げられていた。
夜明けは近い。
壊れゆく世界を繋ぐための、少年少女たちの新たなる旅路が、今まさに始まろうとしていた。




