第30話:原初の機織り
カチリ。
ルークの右手の人差し指に嵌められた革の指貫が、祭壇中央の窪みに寸分の狂いもなく吸い込まれた。
その瞬間、心臓が跳ね上がるような強烈な脈動が、指貫を通じてルークの全身、そして足元の大地へと駆け巡った。
『——認証、完了』
『第七位階継承者ノ接触ヲ確認。……旧織紋縫合機構、全系起動』
頭蓋の奥で、誰のものとも知れない、優しく澄んだ女性の声が響いた。
次の瞬間、崩壊寸前だった旧織紋遺跡全体が、息を呑むような絶対の沈黙に包まれた。
降り注いでいた何十トンもの巨石の瓦礫が、まるで重力を失ったかのように空中でピタリと静止する。
吹き荒れていた虚無の突風が凪ぎ、大気を切り裂いていた不快な軋み音が、嘘のように消え失せた。
「な……なんだ……!? 瓦礫が、空中で止まってやがる……!」
崩落した岩陰から顔を出したガレットが、呆然と声を漏らした。
ゴォォォォォォッ……!!
地下数百メートルの深淵から、大地の鼓動のような重低音が響き渡った。
円形ホールの床、壁、柱、そして峡谷の赤褐色の断崖に刻まれていた無数の古代紋様が一斉に光を帯び始めた。
白金と黄金。
何万本、何億本もの光り輝く魔糸が、石の隙間から、大地の亀裂から、吹き上がる間欠泉のように夜空へと立ち昇っていく。
「これ……遺跡全体が、魔糸で出来ているの……!?」
セラが震える声で呟いた。
「違います……!」
ミーシャが眼鏡を両手で押さえ、歓喜と畏怖に瞳を潤ませて叫んだ。
「遺跡が魔糸で出来ているんじゃない! この遺跡そのものが……太古の昔、崩壊しかけた世界を繋ぎ止めるために築かれた、超巨大な『機織り機』なんです!!」
巨大な石柱が、精密な機械仕掛けのように滑らかにスライドし、新たな位置へと組み変わっていく。
何十メートルもの巨石のアーチが巨大な『杼』となり、空間の裂け目の上空を縦横無尽に往復し始めた。
ルークの身体から溢れ出た黄金の魔糸が、遺跡の放つ無数の光の糸と完全に一体化し、夜空を覆い尽くしていく。
「あ……あぁ……っ!」
ルークの意識が、どこまでも高く、深く引き上げられていく。
彼の金色の左目が見ていたのは、もはや地下空洞の景色ではなかった。
数千年前の記憶。
激しい嵐の中、大地が砕け散り、虚無が世界を呑み込もうとしていたあの日——。
荒廃した大地に立ち、手を繋ぎ、血を流しながら、それでも笑って針を振るっていた七人の人影。
『完璧じゃなくていい。繋がっていれば、世界は生きられる』
最後の一人——金と銀のオッドアイを持ち、今のルークと同じ革の指貫を嵌めていた黒髪の女性が、優しく微笑みかけてくれた気がした。
その温もりは、どこか懐かしく、幼い頃に夢で見た母の温もりに似ていた。
彼女の指先から紡がれる糸は、豪華絢爛でも完全無欠でもない。擦り切れた布切れを一枚一枚、慈しむように縫い合わせた、名もなき家族たちのパッチワークの毛布のような温もりだった。
『行きなさい、我が継ぎ手よ。命を繋ぐこと……それこそが、この世界で最も美しい魔術です』
(僕には……できる! この世界を、僕たちの手で繋ぎ止めてみせる!)
ルークは両手を天へと掲げた。
その瞳は両方とも、原初の輝きを宿した眩い黄金色に染まっていた。
「——縫い合わされよ! 『原初継糸・天蓋修繕』ッ!!」
ズバァァァァァンッ!!
天を貫く光の柱が立ち昇った。
巨大な石の杼が虚空を駆け抜け、裂け目の開いた空間を、光の魔糸で一針、また一針と縫い綴じていく。
虚無の暗黒が、光のパッチワークによって覆い隠され、強制的に引き戻されていく。
塞がれていく亀裂の表面には、満天の星空のような、幾重もの刺繍のような、温かな光の紋様が浮かび上がった。
パァンッ……!!
最後の一張りが力強く引き絞られた瞬間、澄み渡る鐘の音が世界中に響き渡るかのように反響した。
大地を引き裂いていた巨大な裂け目は、完全に消滅した。
宙に浮いていた何千トンもの巨石が、まるでパズルのピースがはまるように元の位置へと静かに戻り、遺跡全体が太古の静けさを取り戻した。
「……ふぅ……っ」
役目を終えた指貫から熱が引き、ルークは糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「ルークッ!」
駆け寄ってきたセラの細い腕が、倒れ込むルークの身体を優しく抱きとめた。
「無茶ばかりして……バカ」
セラの瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち、ルークの煤けた頬を濡らした。
「セラ、さん……泣いてるの……?」
「泣いてないわよ! ……もう、本当に……心配させないで」
セラはルークの頭を抱き締め、安堵の息を吐いた。その胸の温もりが、冷え切ったルークの身体にじんわりと染み渡っていく。
「おいおい、生きてるかルーク!」
ガレットが駆け寄り、豪快に笑いながらルークの頭をくしゃくしゃに撫で回す。
「信じられねえ……! お前、マジで世界を縫い直しちまったぞ!」
「歴史の……いえ、神話の再来です……!」
ミーシャも駆け寄り、眼鏡を拭いながら満面の笑みを浮かべた。
そして——少し離れた場所から、足音が近づいてきた。
ヴァルドだった。
彼は倒れているオルソンを一瞥し、それからルークたちの前に立ち止まった。
その表情には、かつての傲慢さや冷淡さは微塵もなかった。
「……ルーク・アスキス」
ヴァルドは静かに膝をつき、ルークの目線に合わせると、血の滲む右手を差し出した。
「お前に命を救われた。……そして、俺の狭かった目を覚まさせてもらった。礼を言う」
ルークは驚いて目を丸くしたが、すぐにセラの腕の中で微笑み、泥だらけの右手を伸ばしてヴァルドの手を握り返した。
「どういたしまして、ヴァルド」
二人の手が固く結ばれた。
エリートと出来損ない、光と影のようだった二人の少年が、真の意味で手を取り合った瞬間だった。
瓦礫の向こうから、恐る恐る他の班の生徒たちが姿を現し始めていた。
結界が解け、命を救われた百名以上の生徒たちが、中央広場を取り囲むように集まってくる。
誰からともなく、拍手が起こった。
それは瞬く間に広がり、やがて遺跡全体を震わせるほどの、割れんばかりの歓声と賞賛の嵐となった。
「すげえ……あいつら、遺跡の暴走を止めたぞ!」
「第四班とヴァルド様が、俺たちを助けてくれたんだ!」
「仕立て屋のルークだ! 出来損ないなんかじゃない、本物の英雄だ!」
生徒たちの惜しみない拍手と歓声が、朝日に染まる峡谷に木霊した。
その時、広場の入り口の瓦礫を押し退け、馬に乗った一団が猛スピードで駆け込んできた。
先頭に立つのは、鋼色の魔力を全身に滾らせた女性——レイラ・ファースト教官だった。
「ルーク! セラ! 全員無事なの!?」
レイラは馬から飛び降り、泥だらけの五人に駆け寄った。
「結界が外から遮断され、通信も途絶えて……まさかこんなことになっているなんて……!」
「レイラ教官……大丈夫です。全部、終わりました」
ルークが微笑むと、レイラは胸を撫で下ろし、それから床に縛り上げられて気絶しているオルソンを見下ろした。
「……オルソン教官。やはり、大院長の手先だったのね」
「俺が証言します」
ヴァルドが毅然と進み出た。
「オルソン教官が禁術を用いて人造ほつれに変異し、生徒全員を抹殺しようとした現場を、この目で目撃しました。……父上が何を命じようと、俺は真実を曲げない」
「ヴァルド君……」
レイラは驚き、それから静かに頷いた。
「分かったわ。この男は直ちに憲兵隊へ引き渡します。あなたたちの活躍は、私が責任を持って査問会議で報告するわ」
夜明けの黄金の光が、峡谷の断崖の向こうから差し込んでいた。
朝日に照らされた古代遺跡の中で、五人の若き魔術師たちは、互いの傷と絆を確かめ合いながら、新しい朝を迎えていた。
不格好な継ぎ接ぎの針と糸が、いま確実に、壊れかけた世界の心臓を繋ぎ止めていた。




