第29話:断罪の糸
ギチギチギチ……ッ!!
骨が軋み、筋肉が裂ける不快な音が広場に響き渡った。
オルソンの身体から、ドス黒い魔力と純白の光が狂ったように噴き出し、混ざり合っていく。
彼の背中から、何本もの蜘蛛の足を思わせる鋭利な骨刃が生え、四肢は黒い魔糸の束となって異様に引き伸ばされた。顔半分は白い仮面のような皮膚に覆われ、理性を失った紅蓮の瞳が狂気にギラギラと輝いている。
『グ……グオオオオオオッ!! 見ヨ……! コレゾ至高ノ……完全ナル肉体ダァァッ!!』
もはや人間の声ではなかった。
何重もの怨嗟の声が重なり合ったような咆哮と共に、異形化したオルソンが跳躍した。
その速度は目にも留まらない。
空中で蜘蛛の足が振るわれると、白と黒が混ざり合った刃条の波が放たれ、広場の巨石の柱が豆腐のようにスパスパと両断されていく。切断面からは空間そのものが削り取られ、虚無の黒煙が立ち昇った。
「全員、退避ィィッ!!」
ガレットが叫び、仲間たちを突き飛ばす。
寸前まで彼らがいた地面が、深さ数メートルの大穴となって消滅した。
「なんてデタラメな威力……! 空間を直接削り取っているわ!」
セラが着地と同時に氷の防壁を三重に展開するが、オルソンの振り下ろした骨刃の一撃で、防壁は紙細工のように粉々に砕け散った。
だがセラは怯まず、砕け散った無数の氷片を空中で反転させ、鋭利な氷針の嵐として怪物の関節部へと撃ち返した。
「——『氷織り・霜花返針』! 少しでも動きを鈍らせるわ!」
パキパキと凍りつく怪物の関節から、黒い血液が噴き出す。
『死ネ! 死ネ! 消エ去レェェッ!!』
「させるかよッ! ミーシャ、座標を寄越せ!」
ヴァルドが叫ぶ。
「東に三歩、仰角十五度です! ——『記述魔術・重力楔』!」
後方のミーシャが魔導ペンを一閃させると、オルソンの足元の重力が十倍に跳ね上がり、怪物の動きが一瞬だけ鈍った。
「喰らえッ! 『雷織り・迅雷閃』!!」
ヴァルドの放った純白の雷撃が、オルソンの顔面を直撃する。眩い閃光が怪物の視界を完全に奪った。
『ギシャアアッ!? 目ガ……目ガァァッ!』
「今よ、ガレット!」
「任せろォォォッ!!」
ガレットが赤銅色の魔力を全身に纏い、地を蹴った。
木剣を両手で構え、渾身の力を込めて跳躍する。
——『剣織り・剛撃破岩斬』!!
ドゴォォォンッ!!
ガレットの全力の一撃が、オルソンの胸部を覆っていた硬質な外殻を叩き割った。
白い破片が飛び散り、怪物の胸の奥底で脈打つ、赤黒い『核』が露わになる。
『オノレェェェッ、虫ケラガァァァッ!!』
オルソンが激昂し、無数の骨刃をガレット目掛けて振り下ろそうとした。
無防備なガレット。回避は間に合わない。
だが——その切っ先がガレットに届くことはなかった。
「——そこだ」
静かな、透き通った声。
いつの間にか、ルークが怪物の懐へと滑り込んでいた。
ルークの金色の左目が、異様な光彩を放っていた。
彼の目には、オルソンの肉体のすべてが視えていた。
天衣の至高の術理と、ほつれの暗黒の力。二つの相反する力を、オルソンは自らの野心と虚栄心だけで無理やり結びつけていた。
その結合部は、見るも無惨に歪み、悲鳴を上げ、今にも自壊しそうなほどに不格好だった。
「オルソン教官……あなたの魔術は、誰かを守るためのものじゃない」
ルークは右手の人差し指に嵌めた指貫を、怪物の胸の裂け目へと突き入れた。
「自分だけが特別になりたかっただけの……ただの、醜い『ほつれ』だ!!」
ルークの指先が、黄金と白銀の魔糸を纏って閃いた。
怪物の体内を支配していた、天衣とほつれを繋ぐ無数の無理な結び目。その急所の一点目掛けて、正確無比な一撃が振り下ろされる。
「——『裁糸』ッ!!」
パァァァァンッ……!!
地下空洞に、まるでガラスの城が崩壊するかのような、美しくも残酷な破裂音が鳴り響いた。
怪物の胸の奥で、異形化を維持していた術式の糸が一斉に弾け飛ぶ。
『ア……アア……ソ、ソンナ……私ノ……至高ノ……世界ガァァァッ!!』
オルソンの絶叫と共に、巨大な蜘蛛の足がボロボロと崩れ落ち、黒い霧が激しく吹き飛んだ。
肉体が縮み、異形の外殻が剥がれ落ちていく。
後には、白目を剥いて血を吐き、ピクピクと痙攣しながら床に倒れ伏す、哀れな人間の男の姿だけが残されていた。
「……やった……のか……?」
ガレットが肩で息をしながら呟く。
「ええ。術式を完全に解体したわ。……自業自得ね」
セラが冷たい視線をオルソンに投げかけた。
五人の完全な連携による、完織派の内通者の撃破。
だが、安堵の息を吐く間もなく、足元の大地が激しく鳴動を始めた。
ドガガガガガッ……!!
「きゃああっ!?」
ミーシャが悲鳴を上げて尻餅をつく。
オルソンが破壊した祭壇の奥底。
抑えを失った古代の裂け目が、先ほどの何倍もの猛烈な勢いで広がり始めていた。
黒い亀裂が遺跡の床を、壁を、天井を走り抜け、何千トンもの巨石が次々と虚無のクレバスへと崩落していく。
このままでは、遺跡全体が陥没し、全員が生き埋めになる。
「駄目だ、裂け目が暴走してる! もう逃げ道がねえぞ!」
ガレットが叫ぶ。
「……逃げる必要はないわ」
セラが祭壇の奥を見つめ、言った。
「あそこを見て、ルーク!」
崩落した祭壇の中心。
瓦礫の中から姿を現したのは、巨大な円形の石版だった。
石版の表面には、無数の溝が複雑な幾何学模様を描き、その中央には、小さな『窪み』が彫られていた。
「あれは……遺跡の主制御盤です!」
ミーシャが叫ぶ。
「古代の文献にあった通りです! この遺跡全体が、巨大な『世界帷の自動修繕装置』なんです! あそこの窪みに適合する鍵さえあれば、遺跡の力で裂け目を塞ぐことができる!」
「適合する鍵……!?」
ヴァルドが周囲を見渡す。
「そんなもの、どこにあるというのだ!」
ルークは、自分の右手を見つめた。
右手の人差し指に嵌められた、古びた革の指貫。
エッジタウンを出る時、マルタ院長から託された、母の形見——原初の紡ぎ手の遺物。
指貫は今、眩いばかりの黄金の光を放ち、まるで主制御盤の窪みに引き寄せられるように、激しく脈打っていた。
「……あったよ」
ルークは真っ直ぐに祭壇へと歩み出した。
「ルーク!?」
セラが息を呑む。
「みんな、下がってて」
ルークは崩落の嵐の中を走り抜け、祭壇の主制御盤の前に立った。
そして、光り輝く指貫を嵌めた指先を、中央の窪みへと躊躇なく差し込んだ。
「——繋がれッ! 太古の記憶、僕たちの世界を……縫い直してくれッ!!」
カチリッ!
革の指貫が、石版の中央の窪みへと完璧に噛み合った。
その瞬間、まるで数千年の眠りから目覚めた巨獣のように、遺跡全体がドクンッ! と力強く脈打った。
指貫の銀の縁から、青白いプラチナと黄金の神代の魔糸が溢れ出し、制御盤の溝を一気に駆け巡っていく。
複雑怪奇な幾何学模様が光の回路となって床を走り、崩落しかけていた石柱を、壁を、天井を、光の刺繍で縫い留めるように繋ぎ止めていく。
「な……なんだ、この魔力は……!?」
ヴァルドが目を見張り、圧倒的な神気に息を呑んだ。
「遺跡そのものが……生きている織機のように動き出したというのか……!?」
ルークの脳裏に、怒涛の勢いで『記憶』が流れ込んできた。
数千年前、まだ天衣の支配も、完璧主義の狂信もなかった神代の時代。
大地が引き裂かれ、星が砕け散ろうとした時、ただ一つの針と糸を手に、泣きながら世界を縫い繋いだ無数の無名の人々——【原初の紡ぎ手】たちの祈りと願い。
『不完全でいい。歪んでいてもいい。生きていること、それだけで世界は愛おしい』
母の、そして太古の先祖たちの温かな声が、ルークの魂を優しく包み込んだ。
ルークの両眼——金と銀のオッドアイが、眩いばかりの完全な太陽の輝きを帯びる。
「僕は、逃げない……! この世界を、何度でも繕ってみせる!」
ルークの咆哮と共に、遺跡の天頂から天空を貫く光の柱が撃ち放たれた。
古代の修繕装置が、いま完全に覚醒したのだ。




