第25話:忍び寄る影
王立紡術院の最上階。雲海を見下ろす大院長執務室は、息が詰まるほどの静寂と冷気に支配されていた。
白大理石の床には一枚の塵も落ちておらず、部屋の調度品はすべて寸分の狂いもなく左右対称に配置されている。
豪奢なデスクの向こう側に座る男——アーヴェル・グランは、手元の書類から視線を上げることなく、静かにペンを走らせていた。
純白の法衣。背中まで流れる銀白の髪。歳を重ねてなお衰えを知らない端正な顔立ちは、生身の人間というよりも精密に彫刻された大理石の神像を思わせた。
「……何の用だ、ヴァルド」
氷のように透き通った声が、部屋の空気を震わせた。
部屋の中央に直立していた金髪の少年——ヴァルド・クレインは、喉を鳴らし、固く握りしめた拳を震わせた。
「父上……いえ、大院長様。単刀直入にお聞きします」
ヴァルドの鋭い金色の瞳が、父を見据えた。
「三日前の地下の異変……そして、昨夜の地下最深部からの異常な魔力反応。あれは一体何なのですか」
アーヴェルのペンの動きが、僅かに止まった。
だが、彼は顔を上げない。
「地下の基礎構造の定期点検だ。生徒が関知すべきことではない」
「嘘をおっしゃらないでください!」
ヴァルドは声を荒げた。普段の彼からは考えられない、父に対する明白な反抗だった。
「昨夜、地下から漏れ出ていたのは、ただの魔力圧ではありませんでした。空間そのものが引き裂かれるような……おぞましい『虚無』の気配だ。そして、私は見ました。父上の直属の部下たちが、真夜中に地下へ何かを運び込んでいたのを!」
アーヴェルは静かにペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。
その双眸は、底知れぬ深淵のように暗く、冷たい。
見つめられただけで、ヴァルドの全身の毛穴が収縮し、心臓を直接氷の手で掴まれたかのような圧迫感に襲われた。
「……ヴァルド。お前は私の息子であり、この紡術院の未来を担うべき存在だ」
アーヴェルの声には、怒りも苛立ちもなかった。ただ、絶対的な断定だけがあった。
「余計なものを見るな。余計な雑音に耳を貸すな。完璧ならざるもの……あの『継ぎ接ぎ』を使う出来損ないや、不揃いな者たちに心を乱されるな」
「ルーク・アスキスは、出来損ないなどではありません!」
ヴァルドの口から、無意識にその言葉が飛び出していた。
自分自身、驚いていた。かつてあれほど「害虫」と見下していた少年の名を、自らの父の前で弁護しているのだから。
「あいつの魔術は……異端で、不格好です。ですが、あいつは私の『雷織り』を解体し、修繕して撃ち返してきた。あれは紛れもない、独自の術理を持った魔術師の技でした。……父上、あなたは何を恐れているのですか? あいつの『継ぎ接ぎ』が、紡術院の教義を脅かすから排除しようとしているのですか!?」
一瞬の静寂。
次の瞬間、アーヴェルの姿が掻き消えた。
「っ!?」
知覚すらできなかった。
瞬き一つの間に、アーヴェルはヴァルドの鼻先に立っていた。
アーヴェルの全身から立ち昇る、目に見えない絶対の魔力——第五階位『天衣』の神気。
ヴァルドの全身が金縛りに遭ったように硬直した。指先一つ動かせない。
「勘違いするな、我が息子よ」
アーヴェルはヴァルドの頬に、氷のように冷たい手をそっと触れさせた。
その仕草は親愛のようでありながら、いつ首を折られてもおかしくない死の宣告に等しかった。
「私が恐れるものなど、この世界には何一つない。……私はただ、美しく正しい世界を求めているだけだ。壊れかけの器にしがみつく愚民どもを、この手で解き放ち、永遠の天衣の下に統合する。お前はその新世界で、私の右腕として君臨するのだ」
アーヴェルの手が離れた。途端にヴァルドの肺に空気が戻り、彼は激しく咳き込んで膝をついた。
「実地演習の準備をしなさい。……お前が私の期待に応えられる真の魔術師か否か、あの遺跡で見極めさせてもらう」
アーヴェルは背を向け、窓の外の雲海へと視線を戻した。
もはや会話は終わっていた。
ヴァルドは床を見つめ、屈辱と恐怖、そして胸の内に燃え上がった拭いようのない疑念を抱えながら、執務室を後にした。
* * *
翌朝、大講堂の掲示板の前は、全学年の生徒たちでごった返していた。
発表されたのは、来週から行われる『第一回・全院合同実地演習』の班編成と目的地だった。
「おい、見たか!? 今年の演習地、あの『旧織紋遺跡』だぞ!」
「あそこって、立ち入り制限区域じゃないのか? 古代の魔導トラップや高濃度の魔力溜まりがあるって噂の……」
「しかも班編成を見ろよ! なんだこれ!?」
生徒たちのざわめきの中心。
張り出された名簿の一角を、ルークたちは見上げていた。
『特別選抜第四班』
・ルーク・アスキス(繕組)
・セラ・ヴァルシュタイン(セカンドクラス・主席)
・ガレット・ドーン(ファーストクラス)
・ミーシャ・レニエ(サードクラス)
「……本当に、四人同じ班になったわね」
セラが腕を組み、冷ややかな目を名簿に向けて呟いた。
「レイラ教官が手を回してくれたんでしょうね」
ミーシャが眼鏡を押し上げる。
「本来、クラス横断の班編成なんて前例がありません。私たちを孤立させず、互いに守り合えるように配慮してくださったんだと思います」
「おいおい、見ろよあそこ。繕組の出来損ないに、クラス落ちの落ちこぼれ、それにヴァルシュタイン家の氷の令嬢様だとよ」
人混みの背後から、わざとらしい嘲笑混じりの声が響いた。
振り返ると、胸元に純白の刺繍——『完織派』の紋章を縫い付けた二年生の男子生徒たちが、下卑た笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「おい出来損ない、遺跡の奥で泣きべそかいても誰も助けてくれないぜ? 魔獣の餌になる前に、さっさと実家に逃げ帰ったらどうだ?」
「てめえら、言わせておけば……!」
ガレットが木剣の柄に手をかけようとしたが、それよりも早く、鋭利な冷気が廊下を吹き抜けた。
「——口を慎みなさい、雑音」
セラの冷酷無比な氷藍色の瞳が、男子生徒たちを射すくめた。
生徒たちの足元の石畳が、一瞬で真っ白な霜に覆われ、靴底が床に凍りつく。
「ひっ……!?」
「ルークを侮辱することは、彼を班員として認めたこの私を侮辱することと同義よ。……これ以上その薄汚れた口を開くなら、喉笛ごと凍らせて差し上げますけれど?」
「ひ、ひぃ……っ! お、覚えてろよ!」
男子生徒たちは青ざめて氷を剥がし、逃げるように立ち去っていった。
「ふん、口先だけの腰抜けね」
セラはフッと息を吐いて氷を解いた。
「セラさん、ありがとう……!」
ルークが礼を言うと、セラはフイと顔を赤らめて背けた。
「べ、別にあなたのためじゃないわ。ヴァルシュタインの名を背負う者として、無作法な連中を躾けただけよ」
「へへっ、頼もしいお嬢様だぜ!」
ガレットが肩を竦めて笑った。
「旧織紋遺跡か……」
ガレットが顎に手を当てて考え込む。
「王都の北東、切り立った断崖の谷間に広がる古代の都の跡だな。数百年前、世界帷が激しく軋んだ場所として、今も民間人は立ち入り禁止の危険地帯だ」
「旧織紋遺跡……」
ルークは胸のポケットにそっと手を当てた。
ポケットの中にある、マルタ院長から託された古い指貫が、まるで何かに呼応するように、トクン、と微かな熱を放っていた。
(あの場所には……何かがある)
原初の紡ぎ手が世界を縫い合わせた時の、最初の痕跡。
そして、大院長アーヴェル率いる『完織派』が狙う、次なる結節点。
ふと視線を感じて振り返ると、少し離れた人混みの中に、金髪の少年——ヴァルドが立っていた。
ヴァルドはルークと視線がぶつかると、以前のような嘲笑や侮蔑の色を見せることなく、ただ深く、何かを警告するような真剣な眼差しを向け、無言で踵を返して去っていった。
「……あいつも、何か知ってるのかもしれないな」
ガレットがヴァルドの背中を見送りながら呟く。
「ええ。味方とは言えないけれど……少なくとも、今の彼は以前の彼とは違うわ」
セラも静かに頷いた。
空を見上げると、どこまでも澄み切った秋の青空が広がっていた。
だが、ルークの金色の左目には見えていた。
王都の北東——旧織紋遺跡のある遥かな方角の空に、黒く澱んだ見えない糸が、幾重にも渦を巻いて天を覆い隠そうとしているのが。
「行こう、みんな」
ルークは仲間たちを振り返り、言った。
「僕たちの手で、この世界の綻びを確かめに」
不完全な世界を救うための、最初の課外任務。
若き紡術師たちの次なる試練が、幕を開けようとしていた。




