第24話:天衣の残照
地下大空洞から地上へと戻る隠し階段は、行きよりも遥かに重く、暗く感じられた。
ミーシャの持つ魔導ランタンの光が、石壁を頼りなく照らしている。
誰も口を開かない。カツン、カツンと響く四人の足音だけが、静寂を乱していた。
ルークの手のひらには、先ほど拾い上げた純白の布切れ——『天衣の残片』が握りしめられている。
熱も冷たさも感じさせない、ただ異様なほどに滑らかで、寸分の狂いもない魔力の結節。世界最高峰の技法によって織り上げられたその布は、まるで神の遺物のように神聖で、そして悍ましかった。
地上へ戻り、資材庫の隠し扉を閉めた時、待っていた影がすっと闇から現れた。
「……無事だったわね」
レイラ・ファースト教官だった。
彼女は四人の煤けた顔と、服のあちこちに付着した氷と泥の痕跡を見て、小さく息を吐いた。
だが、ルークの表情の険しさに気づくと、すぐに眉根を寄せる。
「何があったの。裂け目はどうなった?」
「……塞ぎました」
ルークが答える。
「上位のほつれを一体撃破して、崩壊しかけた大裂け目を……セラさんの氷織りと僕の継ぎ接ぎで、応急的に縫い留めました」
「セラと……? 氷織りと継ぎ接ぎを融合させたと?」
レイラが目を見開いてセラを見る。
セラは視線を逸らし、小さく頷いた。
「……ええ。私の氷糸を芯にして、ルークが世界帷を縫い合わせました。大穴は完全に閉じています。当面、崩壊の心配はありません」
「信じられない……異なる二つの術理を現場で接合するなんて、理論上は不可能とされていたはずよ。あなたたち、本当に……」
レイラが感嘆の声を漏らしかけたが、ルークは静かに右手を差し出した。
「レイラ教官。問題は……これです」
白く発光する布の切れ端が、レイラの瞳に映った。
その瞬間、常に冷静沈着なレイラの顔から、すっと血の気が引いた。
「これ、は……」
「裂け目の真下に落ちていました」
ミーシャが震える声で告げる。
「そして、裂け目の切断面は……自然なほつれではなく、この純白の魔糸によって意図的に切り裂かれたものでした」
沈黙が落ちた。
地下の湿った空気よりも冷たい沈黙が、資材庫の薄暗い空間を満たす。
「……教官室へ来なさい」
レイラは布切れを握り締め、硬い声で言った。
「すべてを……私が知っているすべてを話すわ」
* * *
幾重もの防音と認識阻害の結界が張られた教官室。
レイラは窓のカーテンを固く閉ざし、机の上に布切れを置くと、深く椅子に身を沈めた。
その横顔には、疲労と、長年抱え込んできた苦悩が色濃くにじみ出ていた。
「間違いありません。これは……大院長アーヴェル・グランの魔力で織られた『天衣』の断片よ」
「やっぱり……!」
ガレットが歯を食いしばる。
「大院長が、自分の学院の地下にある裂け目を広げてたってのか!? なんでだ! あの爺さん、何を考えてやがる!」
「……大院長様は、世界を救おうとしているのよ」
レイラの思いがけない言葉に、四人は息を呑んだ。
「救おうと……? 世界を壊しておいて、救うだなんて、矛盾しています!」
ミーシャが食ってかかる。
「彼の思想は、極端にして狂信的よ」
レイラはゆっくりと語り始めた。
「今から四十年以上前……アーヴェルがまだ若き紡術師だった頃、彼が生まれ育った東大陸の古都が、突如発生した巨大な裂け目に飲み込まれたわ。彼の両親も、幼い妹も、親友も……すべてが虚無へと消え去った。彼一人だけが、その場に居合わせた旅の紡術師に救われて生き残ったの」
ルークは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
壊れたものに傷つき、大切なものを奪われた過去。
それは、孤児院で育った自分ともどこか重なる部分があった。
「その絶望の中で、彼は知ってしまったのよ。この世界『テクストゥーラ』が、太古に崩壊した世界の残骸を継ぎ接ぎして作られた、不完全で、いつ崩れてもおかしくない張り子の虎であるという真実を」
レイラは机の上の布切れに触れた。
「彼は結論を出したの。『継ぎ接ぎだらけの不完全な世界だから、人は傷つき、不条理に命を奪われるのだ』と。『壊れては繕い、綻んでは縫い直すなどという欺瞞を繰り返すから、いつまでも悲劇が終わらないのだ』とね」
「……だから、世界を一度壊すというの?」
セラの声が震えていた。
「ええ。アーヴェルの目的は——『大織直し』」
レイラは冷酷な現実を告げた。
「世界各地にある世界帷の結節点をすべて断ち切り、古く不格好な継ぎ接ぎの世界を一度完全に解体する。そして、彼の至高の術理である『天衣』によって、継ぎ目のない、綻びることのない、完璧な単一の世界を再創造する……それが彼の悲願であり、彼に従う『完織派』の教義よ」
「狂ってる……!」
ガレットが呻くように吐き捨てた。
「世界を解体するってことは、今ここに生きてる人間はどうなるんだよ!? 新しい世界ができるまで、みんな虚無に飲み込まれて死ぬじゃねえか!」
「その通りよ。アーヴェルの理論では、新世界に魂を移行できるのは、天衣の魔力に適応できる選ばれた高位の紡術師だけ。地上の大半の人間——平民や、魔術を持たない人々は、世界の解体と共に消滅する」
「そんなの……絶対に許せない……!」
ミーシャが眼鏡の奥の瞳を濡らしながら、拳を握りしめた。
ルークは、自分の右手を見つめた。
使い込まれた古い革の指貫。
自分にできるのは、壊れた魔糸を繋ぐだけの『継ぎ接ぎ』。
アーヴェルの言う通り、それは不格好で、傷痕が残り、完璧とは程遠い魔術だ。
だが——。
「……完璧じゃなくていい」
ルークの唇から、静かな言葉が零れ落ちた。
教官室の全員が、ルークを見る。
「エッジタウンで、直した壁にはギザギザの縫い目が残りました。直した農具は、新品よりも不格好でした。……でも、村の人たちは笑ってそれを使ってくれた。壊れても、直せば使える。傷があっても、繋がっていれば生きられる」
ルークの金と銀の瞳が、確かな決意の光を放った。
「壊れたからって、全部捨てて作り直すなんて、間違ってます。この世界には、僕たちの友達がいて、大切な人たちが生きている。不完全だからって、消されていい命なんて一つもない」
ルークは顔を上げ、レイラを、そして仲間たちを見つめた。
「僕は、直します。大院長が世界を壊そうとするなら……僕が一針ずつ、全部縫い直してみせます」
「ルーク……」
セラが息を呑み、それからふっと誇らしげに微笑んだ。
「ええ。手伝うわ。私の氷織りは、もうあなたと繋がっているんだから」
「へっ! 言ってくれるぜ、うちの仕立て屋は!」
ガレットがルークの肩を叩く。
「はい! 原初の技法の全貌を、私が必ず文献から解き明かしてみせます!」
ミーシャも力強く頷いた。
レイラは深く息を吸い込み、四人を見つめた。
「……ありがとう。ですが、敵は巨大よ。大院長は紡術院の最高権力者であり、帝国の上層部にも太いパイプを持っている。正面から告発しても、揉み消されるどころか、あなたたちが反逆者として始末されるわ」
「では、どうすれば……」
「力をつけなさい」
レイラは厳粛に告げた。
「来週から、全学年合同の『第一回・実地演習』が始まるわ。演習の舞台は、王都郊外に広がる古代遺跡……そこでも、不穏な動きが観測されている。大院長直属の生徒たち——『完織派』のエリートたちも多数参加するはずよ。彼らはあなたたちを事故に見せかけて排除しようとするかもしれない。大院長が次に何を仕掛けてくるのか……目を光らせながら、あなたたちの力を高めるのよ」
「完織派のエリートたち……受けて立ってやるぜ!」
ガレットが拳を鳴らす。
「そしてルーク。あなたの『継ぎ接ぎ』は、もはや単なる修繕の技術ではないわ。世界の理を揺るがす、唯一無二の鍵。……決してその誇りを失わないで」
「はい、レイラ教官!」
四人は固く頷き合い、教官室を辞した。
外に出ると、空には満天の星が瞬いていた。
冷たい夜風が吹き抜ける中庭で、四人は立ち止まり、夜空を見上げた。
あの大裂け目の向こうに広がっていた漆黒の虚無とは違う、小さくても確かに命の光を放ち続ける無数の星々。
「行こう。僕たちの、これからの戦いへ」
ルークの言葉に、セラ、ガレット、ミーシャが力強く頷いた。
世界の真実を知った少年少女たちの、長き闘争の幕が、今静かに上がろうとしていた。




