第23話:氷と継ぎ接ぎ
大気そのものが軋み、断末魔のような悲鳴を上げていた。
上位の『ほつれ』が消滅した直後、背後の虚空に走っていた黒い亀裂が一気に広がった。
ピシリ、ピキキキキッ! とガラスが粉々に砕け散るような硬質な音が地下大空洞全体に反響する。
空間に開いた巨大な穴の向こう側には、果てしない漆黒——星すらない絶対の虚無が渦巻いていた。そこから吹き荒れる冷たい暴風が、ルークたちの足元を浚おうと猛威を振るう。
岩盤が剥がれ、瓦礫が重力を無視して虚無の大穴へと吸い込まれていく。
「きゃあっ!?」
「ミーシャ!」
吹き飛ばされそうになったミーシャを、ガレットが咄嗟に抱き抱えて巨大な鍾乳石の陰へと身を隠した。
だが、亀裂の拡大は止まらない。
このままでは、地下大空洞はおろか、その上に建つ王立紡術院の全校舎が丸ごと虚無の底へと飲み込まれてしまう。
「ルーク! あれを塞げるか!?」
岩陰からガレットが怒鳴る。
「やってみる……!」
ルークは暴風に抗いながら、両手を前へと突き出した。
右手の人差し指に嵌めた革の指貫を強く擦り合わせ、体内の全魔力を絞り出す。
黄金に輝く魔糸が両手の指先から幾重にも放たれ、開かれた大穴の縁へと伸びていった。
「——『接糸』ッ!」
ルークの魔糸が大穴の縁に食らいつき、千切れた空間の織目を強引に引き寄せようとする。
しかし——。
ブツンッ……!!
鈍い音と共に、ルークの黄金の糸が耐えきれずに千切れ飛んだ。
穴の向こうから噴き出す虚無の圧力は、エッジタウンの時や数日前の裂け目とは比較にならないほど強大だった。
まるで、巨大な怪物の顎が、世界そのものを噛み砕こうとしているかのようだった。
「ぐっ……!? だ、めだ……! 穴が大きすぎる……! 僕の魔糸だけじゃ、強度が足りない……!」
強引に魔力を引き絞った反動で、ルークの鼻からツーッと一筋の血が垂れた。
視界が滲む。
繋ぎ直すための「糸」そのものが、嵐のような虚無の力に負けて吹き飛ばされてしまうのだ。
物理的な強度を持つ、もっと強靭で、かつ柔軟な魔糸がなければ、この大穴を縫い留めることはできない。
(ここまでなのか……? 僕の力じゃ、この世界を直せないのか……!?)
絶望が胸をよぎりかけた、その時だった。
「——誰が一人でやれと言ったのよ」
凛とした、澄み渡る声が風を切り裂いて届いた。
ルークの隣に、銀髪を激しくなびかせた少女が歩み出ていた。
セラ・ヴァルシュタイン。
彼女の碧眼には、恐怖も迷いも微塵もなかった。ただ、まっすぐにルークを見つめている。
「セラ、さん……?」
「私の魔糸を使いなさい」
セラは自らの両手を広げ、全身から溢れんばかりの青白い魔糸を紡ぎ出した。
その糸の一本一本が、極寒の冷気を纏い、鋼よりも硬く、絹よりも滑らかに煌めいている。
「私の『氷織り』は、硬度と密度だけなら誰にも負けない。……でも、硬すぎるから脆い。あなたの言う通り、私の魔術は完璧を目指すあまりに『遊び』がなかった」
セラは自嘲気味に、だが力強く唇の端を持ち上げた。
「だから、あなたの『継ぎ接ぎ』で、私の氷を縫い合わせなさい! 不完全でいい……二人で、この大穴を塞ぐのよ!」
セラの言葉が、ルークの心の奥底に眠っていた迷いを吹き飛ばした。
完璧な魔術師と、出来損ないの修繕屋。
二つの全く異なる魔術が、今、一つに交わろうとしていた。
「……うん! いこう、セラさん!」
ルークは再び両手を掲げた。
金色の左目が、セラの紡ぎ出した青白い氷糸と、虚空に口を開けた裂け目の『糸目』を同時に視界に捉える。
二人の魔力が、互いの呼吸を合わせるように共鳴を始めた。
「「——紡げ(繋げ)ッ!!」」
二人の声が重なった。
セラの放った無数の極低温の魔糸が、裂け目の周囲に打ち込まれ、頑丈な杭となって空間を凍結固定する。
そして、その氷糸の隙間を縫うように、ルークの黄金と白銀の魔糸が縦横無尽に走り抜けた。
一針。
セラの氷糸を芯にして、ルークの魔糸が幾重にも絡みつく。
二針。
千切れていた空間の境界膜が、氷の骨組みに引き寄せられ、パッチワークのように縫い合わされていく。
三針、四針、五針——!
それは、テクストゥーラの歴史上、誰も見たことのない光景だった。
幾何学的な氷の結晶と、無骨で温かみのある継ぎ接ぎの光が融合し、虚空に巨大な『氷結のパッチワーク』を描き出していく。
ダイヤモンドダストが美しく舞い散り、吹き荒れていた虚無の風が、一針縫い進められるたびに弱まっていく。
「これで……最後だぁっ!!」
ルークが最後の一張りを力強く引き絞り、セラがその結び目に絶対零度の氷の封印を打ち込んだ。
パァンッ……!!
澄み渡る鐘の音のような衝撃波が空洞を吹き抜けた。
大穴は完全に塞がり、後には美しく輝く氷と光の継ぎ接ぎ模様だけが、静かに空間に刻まれていた。
虚無の嵐は去り、地下大空洞に再び静寂が戻った。
「はぁ……はぁ……っ」
「ふぅ……っ」
同時に膝をついたルークとセラは、肩で息をしながら顔を見合わせ、それからどちらからともなく小さく吹き出した。
「……信じられない。本当に、塞いじゃったわね」
「セラさんの魔糸が凄かったからだよ。あんなに頑丈で素直な糸、初めて触った」
「な、なに言ってるのよ、恥ずかしいこと言わないで……!」
セラは真っ赤になって顔を背けた。
「おい、二人とも無事かー!?」
岩陰からガレットとミーシャが駆け寄ってくる。
「すげえ……! すげえよお前ら! あんなでけえ穴を丸ごと縫い塞ぐなんて、英雄だぜ!」
「歴史的瞬間に立ち会ってしまいました……! 異なる魔術体系の完全な融合……これは論文十本分の価値があります!」
仲間たちの称賛に、ルークもセラも照れ笑いを浮かべた。
四人の絆は、この激戦を経てより確かなものとなった。
だが——。
現場の調査をしていたミーシャが、塞がれた裂け目の足元で、不意に足を止めた。
「……あれ? これ、何でしょう……?」
ミーシャが拾い上げたのは、瓦礫の中に落ちていた、ほんの十センチほどの『白い布の切れ端』だった。
埃まみれのはずの地下にあって、その布切れは異様なほど純白で、一点の汚れも寄せ付けず、神聖なまでの魔力を放っている。
「見せてくれ」
ルークが受け取り、金色の左目でその布切れを見つめた。
そして、息を呑んだ。
「……継ぎ目が、全くない」
単糸でも、双糸でも、織紋でもない。
糸と糸の境目すら存在しない、完全無欠の『織り』。
この世界で、その領域に達している魔術はただ一つしかない。
「……『天衣』……?」
セラの声が震えた。
「そんな……天衣を扱える人間なんて、この紡術院には……」
言葉の先を、誰も口にすることはできなかった。
大院長、アーヴェル・グラン。
世界最高峰の紡術師にして、完璧を体現するあの男の影が、地下の冷気よりも冷たく、四人の背筋を凍りつかせた。
「……大院長が、直接ここに降りてきて、封印を切り裂いたってことか……!?」
ガレットが低く唸り、握りしめた拳を震わせた。
「ふざけやがって! 院長が自ら学院の封印を壊して、生徒を危険に晒すなんて……一体何を考えてやがるんだ!」
「『世界の織り直し』……です」
ミーシャが震える手で眼鏡を直しながら、先ほどの怪物の言葉を思い出して呟いた。
「禁書庫の古い記録にあった神話……。現在の世界を一度すべてほつれさせ、無に還した上で、天衣の主が新たな完全世界を再編する……。もし大院長がそれを本当に目指しているとしたら、この程度の封印崩壊は、単なる『実験』に過ぎません」
「実験……こんな大惨事が、ただの実験だというの……!?」
セラが唇を強く噛み締めた。その瞳には、かつて崇拝すらしていた大院長への激しい憤りが宿っていた。
「行こう」
ルークは天衣の白い布片を大切にポケットへとしまい、仲間たちを見つめた。
「ここに留まっていても危ない。この証拠を持って地上に戻り、レイラ教官に相談しよう。……大院長が何を企んでいようと、僕は絶対に世界を壊させない。みんなの暮らしを、僕たちの手で繋ぎ止めるんだ」
「おうよ! どこまでも付き合うぜ、仕立て屋!」
「私も……ルークの隣で、一緒に戦うわ」
「はい! 私も全力で真実を解き明かします!」
四人は固く頷き合い、薄暗い地下空洞から地上へと続く階段を、迷いなく駆け上がっていった。




