第21話:地下の裂け目
穏やかな放課後の静けさを切り裂くように、その報せはもたらされた。
「ルーク・アスキス。それから、セラ、ガレット、ミーシャ。至急、第一教官室へ来なさい」
蔦の絡まる『繕組』の古い教室。
木製の扉をノックもそこそこに開けて告げたレイラ・ファースト教官の表情には、いつもの沈着冷静さを削ぎ落とした切迫感が張り付いていた。
艶やかな黒髪のショートヘアを小さく揺らし、彼女は廊下に誰かの気配がないかを鋭い眼光で確認すると、防音の魔術壁を展開しながら四人だけを手招きした。
* * *
本棟の最上階に近い一室。重厚な扉に幾重もの多重認識阻害結界が張り巡らされたレイラの私室で、四人は重苦しい沈黙の中にいた。
部屋の中央に置かれた円卓の上には、紡術院全体の地下地脈と立体構造を示す魔導模型が青白く発光している。
その最下層——学院の基礎構造のさらに奥底、深度五百メートルを超える『原初の岩盤』が、不気味な赤黒い光を放ちながら激しく点滅を繰り返していた。
「……また、地下の裂け目ですか」
ルークが問うと、レイラは深く、重いため息と共に頷いた。
「ええ。三日前、ルークの奇跡的な大修繕によって、地下大空洞の大裂け目は一時的に塞ぎ止められた。だが、それはあくまで表面的な傷口を塞いだに過ぎない。……昨夜未明から、地下最深部の『原初の結節点』から漏れ出る魔力圧が、以前の三倍以上に跳ね上がっているわ」
「三倍……!? そんなの、いつ大爆発を起こしてもおかしくないじゃないですか!」
ミーシャが眼鏡を押し上げながら悲鳴のような声を漏らした。
「学院の地下には、建学以来八百年間蓄積された膨大な魔力炉が眠っています。もし結節点が完全に崩壊して虚無の暗黒が炉に引火したら……この学舎はおろか、王都グランディスの半分が丸ごと消滅します!」
「問題は、それだけではないわ」
レイラは苦々しげに唇を噛み締め、机の上の書類をめくった。
「大院長アーヴェル・グランをはじめとする院の最高幹部会は、この異常事態を完全に隠蔽することを決定したのよ。地下への立ち入りは全階層で全面禁止。『基礎構造の定期点検』という名目で生徒たちを誤魔化し、避難勧告すら出さず、何事もなかったかのように通常の授業を続けさせている」
「なっ……! 冗談だろ!?」
ガレットが拳を円卓に叩きつけ、激しい怒りを露わにした。
「万が一地下が完全に吹っ飛んだら、この学舎にいる何千人もの生徒や職員が、何が起きたかも分からずに全員死ぬんだぞ!? なんで避難させねえんだよ!」
「彼らにとって、世界帷の劣化や『裂け目』の存在は、決して民衆に知られてはならない絶対の禁忌だからよ」
それまで黙って模型を見つめていたセラが、氷のように冷え切った声で口を開いた。
その碧眼には、深い侮蔑と諦念の色が落ちている。
「王立紡術院が数百年かけて築き上げてきた『完璧な紡術こそが世界を維持している』という教義……それが欺瞞であり、世界は太古の継ぎ接ぎで辛うじて保たれている張り子の虎に過ぎないと知れ渡れば、院の権威は地に落ちる。……大院長様は、数千人の生徒の命よりも、欺瞞の秩序と権威を選んだのよ」
「……セラの言う通りです」
レイラは目を伏せ、それから顔を上げて四人の目を順に見据えた。
「公式には、地下への立ち入りは反逆罪。見つかれば即刻退学、あるいは魔導憲兵隊による終身拘禁が待っているでしょう。……それでも私は、あなたたちに頼みたい。地下へ潜り、異常の原因を突き止め、可能であれば『裂け目』の根本を修繕してほしい」
レイラはルークの目を真っ直ぐに見つめた。
「ルーク。あなたにしかできないことよ。失われた『原初の技法』——継ぎ接ぎを操るあなたでなければ、世界の綻びを真に直すことはできない」
危険すぎる裏の任務。発覚すれば全てを失うかもしれない。
だが、ルークの瞳に迷いは微塵もなかった。
エッジタウンを出る時、孤児院の小さな妹が言った言葉を思い出す。
——壊れたものを放っておけない。それが、自分の生きる理由なのだから。
「行きます。僕たちの力で、止められるなら」
「……私も行くわ」
ルークの即答に続くように、セラが一歩前に出た。
「セ、セラ!? お前、主席なんだぞ? 巻き込まれたら将来が……」
「関係ないわ、ガレット。私は、自分の目で確かめたいの。この学院が隠している真実を……そして、完璧ではない魔術が、本当に世界を救えるのかどうかをね」
「へっ、決まりだな! ルークを一人で行かせられるわけねえだろ!」
ガレットが豪快に笑い、背中の木剣——ルークの手によって魔糸の通りを直された相棒を叩く。
「わ、私も同行します! 地下の古代文字の解読には、私の知識が絶対に必要ですから!」
ミーシャも胸を張り、決意を固めた瞳で頷いた。
レイラは四人の顔を見渡し、微かに目元を緩めた。
「……ありがとう。秘密裏に地下へ通じる旧資材庫の隠し鍵を渡します。今夜未明、決行しなさい」
* * *
深夜二時。
静まり返った紡術院の裏手、打ち捨てられた古い資材庫の奥底に、隠された鉄扉があった。
カチリ、と重い錠前が外れ、冷たく湿った風が地下から吹き上がってくる。
「……行くぞ」
ガレットを先頭に、ルーク、ミーシャ、そして殿をセラが務める隊列で、四人は暗闇の階段を降りていった。
ミーシャの持つ魔導ランタンの淡い明かりが、黴と埃にまみれた石壁を照らし出す。
階段を何百段も降りた先で、空気が急変した。
ひりつくような冷気。
そして、耳鳴りのような、空間そのものが悲鳴を上げているような重圧感。
「ここが……地下大空洞……」
階段が途切れ、視界が一気に開けた。
そこは、王都の広場が丸ごと収まるほどの巨大な地下空間だった。
数日前、ルークが縫い合わせた結節点の周囲には、今も淡い金と銀のパッチワーク模様がぼんやりと光を放ち、崩壊の拡大を辛うじて防いでいた。
だが——。
「見て、ルークさん! あそこ!」
ミーシャが震える指で前方を指差した。
ルークが修繕した結節点から、数十メートル離れた漆黒の空間。
何もないはずの虚空に、新たな『黒い亀裂』が走っていた。
それも一つではない。まるで蜘蛛の巣のように、四方八方へと細い裂け目が枝分かれし、急速に世界の外皮を蝕んでいる。
「ルーク、あれ……自然に裂けたものに見えるか?」
ガレットが低い声で尋ねた。
ルークは金色の左目に全神経を集中させた。
視界が反転し、世界の骨組みを形作る無数の『糸目』が浮かび上がる。
そして、その異様な光景に息を呑んだ。
「……違う」
ルークの喉が引き攣った。
「自然な経年劣化のほつれじゃない。……魔糸の切断面が、あまりにも鋭利すぎる。まるで、極細の刃物で意図的に切り裂かれたみたいだ」
「な……!?」
セラが息を呑む。
「誰かが、意図的に世界帷を切り裂いているというの? そんなことをして、何になるというのよ!」
その時だった。
ギチ……ギチギチギチ……ッ!!
空間を引き裂くような耳障りな不協和音が、頭蓋を直接揺さぶった。
新たな亀裂の奥底から、ドロリとした黒い泥のような霧が噴き出してくる。
数日前に現れた雑魚の霧とは比べ物にならない、濃厚な悪意と死の気配。
「全員、下がって!!」
セラの叫びと同時に、黒い霧が急速に凝固した。
現れたのは、身の丈三メートルを超える巨躯。
全身を無数の解けた黒い魔糸で覆われ、人骨のような白い仮面をつけた、異形の怪物——。
世界帷の綻びから湧き出す災厄、『ほつれ(アンレイヴ)』の変異種。
『……オ……織リ……ナオ……ス……』
怪物の裂けた口から、掠れた人の声のような言葉が漏れ出た。
「喋った……!? ほつれに、知性があるの!?」
ミーシャが悲鳴を上げる。
『……スベテヲ……白キ……天衣ニ……還セ……!』
怪物が黒い糸で編まれた巨大な腕を振り上げる。
その腕からは、通常の物理攻撃では絶対に防ぎきれない、空間を直接侵食する暗黒の波動が渦巻いていた。
「来るぞ!!」
ガレットが木剣を抜き放ち、ルークの前に立ち塞がる。
セラが青白い魔糸を両手に展開し、絶対零度の冷気を立ち昇らせる。
そしてルークは、右手の指貫を強く握りしめ、金色の左目で怪物の中心に走る『致命的な糸目』を捉えた。
紡術院の地下深く。
世界の存亡を賭けた、四人の本当の戦いが幕を開けようとしていた。




