第20話:地下の崩壊
けたたましい非常警報のサイレンが、夕闇に沈む王立紡術院の全校舎に鳴り響いていた。
「ルーク、大丈夫!?」
セラがルークの手を固く握り締めながら叫んだ。
「ええ……! でも、地下が……本格的に崩壊を始めている!」
ルークの金色の左目には、凄まじい光景が映し出されていた。
校舎の床石を透過し、地下数百メートルの岩盤がガラスのように粉々に砕け散っていくのが視える。
太古の昔からこの大地を縫い留めていた『大裂け目』の封印。
何者かの極めて冷酷で強大な魔力——天衣の刃によって、主要な結節点が何十本も同時に切断され、抑え込まれていた虚無の暗黒が間欠泉のように噴き上がっていた。
「全員避難しろ! 校舎から離れるんだ!」
教官たちの怒号と、生徒たちの悲鳴が交錯する中、ルークとセラは逆走するように北棟の地下入口へと突入した。
「おい、待たせたなァッ!」
地下階段の手前で、木剣を構えたガレットと、膨大な魔導書を抱えたミーシャが合流した。
「ガレット! ミーシャ!」
「当たり前だろ! お前たちだけで行かせるわけがねえ!」
「地下空洞の崩壊速度、計算値の五倍を超えています! あと十分で、本館の基礎構造が丸ごと虚無に飲み込まれます!」
「行こう! 手遅れになる前に!」
四人は階段を駆け下りた。
崩れ落ちる瓦礫を掻い潜り、辿り着いた地下大空洞は、数日前とは比べ物にならない地獄絵図と化していた。
ゴオオオオオオオッ……!!
空洞の中央。
空間に口を開けた『大裂け目』は、全長百メートルを超え、まるで巨大な怪物の顎のように開閉を繰り返していた。
そこから這い出しているのは、無数の小型ほつれだけではない。
身の丈五メートルを超える、人骨の仮面を被った黒い人型の巨躯——『上位ほつれ』が、三体も空洞の中央に君臨していた。
『……全テヲ……無ニ……還セ……』
空間を直接削り取る黒い咆哮が、地下空洞を激震させる。
教官陣の放った上級紡術の炎や雷も、上位ほつれの黒い霧に触れた端から分解され、全く通用していない。
「駄目だ……! 教官たちの攻撃じゃ、表面を焦がすことすらできねえ!」
ガレットが歯を食いしばる。
「私の氷で、動きを止めます!」
セラが前に進み出た。
彼女の指先から、目にも留まらぬ速さで数十本の青白い魔糸が射出される。
——『氷織り・極氷縛陣』!
絶対零度の氷壁が瞬時に組み上がり、上位ほつれの足を地面ごと凍結させた。
だが、怪物の放つ虚無の圧力は凄まじく、氷壁にメキメキと亀裂が走る。
「長持ちはしないわ……! ルーク、核を突いて!」
「任せて!」
ルークは右手の人差し指に革の指貫を嵌め、前へと疾走した。
金色の左目が、三体の上位ほつれの体内を走査する。
黒い泥のような魔糸が複雑に絡まり合う中心——胸の奥底で脈打つ、赤黒い『要の結び目』。
「——『裁糸』ッ!!」
パチン、パチン、パチンッ!
張り詰めた鉄線が弾けるような澄んだ音が三度鳴り響いた。
ルークの放った金色の光刃が、三体の上位ほつれの核を同時に正確無比に両断した。
怪物の巨躯が一瞬で霧散し、黒い塵となって消滅する。
教官たちが目を見張った。
「な……あの上位ほつれを、一撃で……!?」
「あの少年は一体何者だ……!?」
だが、本当の試練はここからだった。
怪物が消滅した背後で、大裂け目が暴走を始めたのだ。
ドガガガガガッ! と大空洞の天井が崩落し、何十トンもの巨石が虚無の穴へと吸い込まれていく。
このままでは、紡術院全体が崩壊する。
「ルークさん、穴が大きすぎます! 通常の魔糸では、繋ぎ止める前に千切れてしまいます!」
ミーシャが叫ぶ。
「僕がやる……! 僕が、全部縫い合わせる!」
ルークは裂け目の縁に立ち、両手を虚空へと掲げた。
体内の全魔力を引き絞る。
その瞬間、ルークの右目——銀色の瞳までもが、眩い黄金色へと染まり始めた。
オッドアイの両眼覚醒。
母から受け継いだ、原初の紡ぎ手の完全なる記憶が、少年の魂を貫いた。
「——『原初継糸・森羅縫合』ッ!!」
ズバァァァァァンッ!!
ルークの全身から、白金と黄金、そして何億本もの光の魔糸が吹き上がった。
その光は、暗黒の地下空洞を昼間のように照らし出した。
巨大な光の針が虚空を駆け抜け、裂け目の開いた空間を、一針、また一針と縫い綴じていく。
「セラ、あなたの氷を貸して!」
「ええ……! 使いなさい、私のすべてを!」
セラが全魔力を込めて放った極寒の青白い氷糸が、ルークの黄金の糸と交差した。
硬質な氷を骨組みとし、しなやかな黄金の糸がそれを包み込み、空間の境界膜を引き寄せていく。
幾何学的な氷の結晶と、温かみのあるパッチワークの光が融合し、虚空に巨大な刺繍のような紋様を描き出していく。
「あ……あぁ……」
セラは涙を零しながら、その光景を見つめていた。
「なぜ……こんなにも、綺麗なの……」
不格好なはずの継ぎ接ぎが、傷痕を包み込むように優しく輝いていた。
そして——最後の一張りが引き絞られた。
パァンッ……!!
澄み渡る鐘の音が世界を満たした。
全長百メートルを超えていた大裂け目は完全に消滅し、後には美しく輝く光のパッチワークの痕跡だけが残された。
地下大空洞に、完全な静寂が戻った。
「……やり、ました……」
ルークは両眼の金色の光を失い、糸の切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。
「ルークッ!」
セラが駆け寄り、倒れ込む少年の身体をしっかりと腕の中に抱きとめた。
泥だらけの顔、荒い息遣い。
だが、その胸の奥底からは、力強い心臓の鼓動が確かに聞こえていた。
* * *
数日後。保健室のベッドの上で、ルークは目を覚ました。
枕元には、丸椅子に腰掛けて林檎を剥いているセラの姿があった。
「……セラ、さん」
「気がついたのね、バカ」
セラは不機嫌そうに言ったが、その目元には安堵の涙の跡が残っていた。
「魔力枯渇で丸三日も眠り続けるなんて……本当に、無茶ばかりするんだから」
「あはは……ごめん。でも、学院は無事だったんだね」
「ええ。あなたの『継ぎ接ぎ』が、すべてを救ったわ」
セラは剥いた林檎をルークの口元へ差し出し、それから視線を落として小さく呟いた。
「……ねえ、ルーク。決めたわ」
「え?」
「私、あなたと一緒に行く。……あなたが世界を直す旅に出るなら、私の氷織りを、あなたの隣で使わせてほしいの」
セラは顔を上げ、誇らしげに、そして少しはにかむように微笑んだ。
「完璧じゃなくていい。……あなたと一緒なら、私の魔術は息ができるから。あなたの魔術を、私にもっと教えて」
ルークの胸が熱くなった。
「うん! 喜んで、セラさん!」
勢いよく病室の扉が開き、ガレットとミーシャが飛び込んできた。
「おーい、ルーク! 起きたか相棒!」
「ルークさん! よかった、本当に無事で……! 教官会議で、レイラ教官の尽力により、私たち四人の特例チーム結成が正式に承認されましたよ!」
「特例チーム……?」
「ああ! 名門貴族の令嬢セラに、古代語記述士のミーシャ、剣織りの俺、そして仕立て屋のお前だ! 外の世界で起きている綻びを調査し修繕するための、独立調査部隊だ!」
ガレットが白い歯を見せて笑い、ミーシャが眼鏡の奥の瞳を輝かせ、セラが呆れたように小さく肩を竦めながらも微笑んでいる。
かつて「出来損ない」と蔑まれ、薄暗い孤児院の片隅で一人震えていた少年は、いま、かけがえのない仲間たちと共に、同じ空を見上げていた。
* * *
同時刻。本館最上階、重苦しい沈黙が漂う大院長執務室。
豪奢なデスクの前で、金髪の少年——ヴァルド・クレインは、窓の外の瓦礫を静かに見下ろす父アーヴェルの背中に、冷徹な視線を突き刺していた。
「……父上。なぜ、あの時『静観』を命じられたのですか」
低く抑えられた声には、隠しきれない怒りと疑惑が滲んでいた。
「地下大空洞の封印が崩壊し、上位ほつれが校舎を食い破ろうとしていた時、父上は教官陣の出動を制止した。……もしルークたちが駆けつけなければ、学院の生徒数百人が虚無に飲み込まれていたはずです」
アーヴェルはゆっくりと振り返った。
その氷藍色の瞳には、動揺も後ろめたさも、一片の感情すら存在しなかった。
「ヴァルド、お前はまだ幼いな。物事の本質が見えていない」
「本質だと……? 生徒の命を危険に晒すことが、父上の言う本質なのですか!?」
「泥でできた器は、いずれ崩れる。小さな綻びを繕ったところで、この破綻した世界という織物は、やがて自らの重みで引き裂かれるのだよ。……あの程度の崩壊など、これから訪れる大変革の余波に過ぎん」
アーヴェルは息子を一瞥すらせず、机の上の羊皮紙に目を落とした。
「お前は下がれ。そして、二度とあの出来損ないの少年と関わるな」
「……父上」
ヴァルドの拳が白くなるほど強く握りしめられた。
「俺は……あなたのようにはならない。誇りを捨ててまで手に入れる完全など、俺の雷には必要ない」
ヴァルドは荒々しく踵を返し、執務室の重い扉を叩きつけるように閉めて去っていった。
残された執務室で、アーヴェルは冷笑を浮かべ、細長い白銀の指先で虚空を撫でた。
指先から放たれるのは、神代の魔糸——完全無欠の純白。
「『継ぎ接ぎ』があれほどの力を宿しているとはな。……原初の紡ぎ手の血族、ルーク・アスキス。我が至高の計画の障害となるか、それとも最後の仕上げの贄となるか」
男の冷たい呟きが、誰にも届かぬ虚空へと溶けていく。
「急がねばならん。この穢れた世界のすべてを解きほぐし、至高の天衣で包み込む……『世界の織り直し(リ・テクスチャリング)』の刻を」
世界の織り直し——その冷酷なる神話の再生計画は、静かに、だが確実に動き始めていた。




