第20.5話:閑話「繕組の放課後」
紡術院の地下で起きた大裂け目事件から、三日が過ぎた。
地下の崩壊を食い止め、空間の裂け目を縫い合わせたという信じがたい噂は、教官たちの情報統制にもかかわらず、あっという間に院内中へ広まっていた。
かつて「出来損ない」「最底辺」と嘲笑されていたルーク・アスキスの名は、今や院内の誰もが知るものとなっていた。
だが、当の本人はといえば——。
「うーん……ここ、もう少し糸目を詰めた方が丈夫になるかな」
紡術院の最奥、蔦の絡まる古い離れにある『繕組』の教室。
埃っぽかったはずの室内はすっきりと片付けられ、窓からは柔らかな午後の陽光が差し込んでいる。
木製の古びた机に向かい、ルークは使い込まれた革の指貫をはめた手で、一心不乱に針と魔糸を動かしていた。
直しているのは、下級生から預かった「破れて火花が散るようになった魔導ランプ」である。
「おーい、ルーク! 生きてるかー!」
ガラリ、と勢いよく扉が開け放たれ、赤毛の少年が大きな紙包みを掲げて入ってきた。
ガレット・ドーンだ。
「ガレット。ノックくらいしてよ。……それ、なに?」
「購買部で争奪戦に勝って手に入れた、特製ミートパイだ! ルーク、お前あの日からずっと碌に飯も食わずに修繕ばっかりやってんだろ? 倒れたらまた怒られるぞ」
「あはは、ありがとう。でも、頼まれたものを放っておけなくてさ」
ルークが苦笑いしながら作業を一段落させると、すかさず扉の隙間から小さな影が滑り込んできた。
両手いっぱいに羊皮紙の束を抱えたミーシャ・レニエである。
「ルークさん! 大変です、例の地下空洞の壁面に刻まれていた古代文字、第三節の解読が完了しました!」
「ミーシャ、少しは落ち着けって。ほら、ミートパイ食うか?」
「食べます! ……じゃなくて! ガレットさん、知的好奇心を満たす前に胃袋を満たそうとするのは野蛮人の発想です!」
「腹が減っちゃ頭も回らねえだろ!」
いつものように騒がしく言い争いを始める二人を見て、ルークの口元が自然とほころぶ。
少し前まで、この教室にはルーク一人しかいなかった。
誰からも顧みられず、冷たい視線を受け流しながら過ごすのが当たり前だった場所が、今ではこんなにも温かい。
トントン。
ふいに、控えめだが凛としたノックの音が響いた。
教室の中が一瞬で静まり返る。
「……どなたですか?」
「……私よ。入ってもいいかしら」
透き通るような涼やかな声。
ルークが慌てて扉を開けると、そこには銀色の長髪を揺らした少女が立っていた。
紡術院の首席、セラ・ヴァルシュタイン。
普段の氷のように冷淡な表情はどこへやら、彼女は視線を泳がせながら、小さな包みを胸元に抱えていた。
「セ、セラさん……! どうしたの、こんな端っこの教室まで」
「……べ、別に。通りかかっただけよ」
「通りかかるような場所じゃねえだろ、ここ!」
ガレットの鋭いツッコミに、セラはカッと頬を朱に染めて睨みつけた。
「う、うるさいわね! あなたたち、どうせろくなもの食べてないと思ったから……これ、実家から届いた焼き菓子よ。余ったから、処分に困って持ってきただけなんだから」
そう言って差し出されたのは、王都の最高級洋菓子店のリボンがかけられた、どう見ても「余り物」ではない豪奢な木箱だった。
「わあ……! これ、王都で三ヶ月待ちの幻のフロランタンじゃないですか!」
ミーシャが目を輝かせる。
「処分に困るような代物じゃねえな……」
ガレットがニヤニヤしながら呟く。
「……文句があるなら返して」
「も、もらいます! ありがとう、セラさん。みんなでお茶にしよう」
ルークが慌てて割って入り、湯沸かしの魔導具に火をつけた。
テーブルを囲み、ガレットのミートパイとセラの焼き菓子を並べ、淹れたてのハーブティーを注ぐ。
四人で机を囲む光景は、数週間前には想像すらできなかったものだ。
「……美味しい」
ミートパイを小さく齧ったセラが、ポツリと呟いた。
上品に紅茶のカップを傾ける彼女の横顔には、かつて纏っていた頑なな氷の気配は消え、歳相応の柔らかな少女の表情があった。
「ねえ、ルーク」
「ん? どうしたの?」
「……あの後、言われた通りに練習してみたの。完璧に編み込もうとしないで……ほんの少しだけ、糸目を緩めて、遊びを持たせるように」
セラはそう言うと、右手をそっと持ち上げた。
指先から伸びた淡い青の魔糸が、ふわりと宙を舞う。
現れたのは、小さな雪の結晶。
以前のような、針のように鋭利で息が詰まるほどの精密さではない。どこか柔らかく、光を浴びて優しく煌めくような、温もりのある氷の華だった。
「……どうかしら。不格好かしら」
不安そうに上目遣いで尋ねてくるセラの碧眼に、ルークは真っ直ぐ微笑みかけた。
「ううん。すっごく綺麗だよ。前の氷も凄かったけど……今のセラさんの魔術は、なんだか楽しそうに息をしてるみたいだ」
「息を、してる……」
セラは手の中の氷の華を見つめ、それから照れくさそうにふいと顔を背けた。
「……ばか。大袈裟よ」
「ヒューヒュー! ごちそうさまだぜ、まったく!」
「ガレットさん、下品です! でも、確かに素晴らしい情緒の推移ですね……論文に注釈をつけたいくらいです」
「ミーシャ、それは絶対にやめて!」
賑やかな笑い声が、小さな離れの教室いっぱいに広がる。
外の世界では、依然として何かが綻び、巨大な企みが蠢いているのかもしれない。
それでも——壊れたものを一つずつ繋ぎ直していくように、自分たちの居場所もまた、確かにここに形作られつつあった。
「……よし。午後からも、頑張ろう」
ルークは胸の奥に灯った確かな熱を感じながら、仲間たちと共に笑い合った。




